第2話 前の道を尋ねる者

「……で、どうだ? その愛妻弁当は」

「……黙れ」

 昼休み。尋とその悪友――羨なが生ゆき晃あきら――は、周囲のクラスメイトを尻目に昼食をとっていた。

 今日の弁当のメニューは卵ふりかけの白ご飯と唐揚げ、トマトサラダ。

 愛も今は独り生活なのに、よく作ってくれるものだと思う。一度、愛に「昼飯は自分で何とかする」と言ったのだが、

「好きでやってるんだから気にしなくていいよ! それにコンビニ弁当とかだと栄養が偏っちゃうから!」

と、あっさり切り返されてしまった。

(ま、うまいからいいか)

「……にしても尋」

「ん?」

 目の前でメンチカツをかじっていた晃がニヤニヤしながら話してきた。

「お前らどこまで進んギャーッ!」

「帰れ」

 眼球に直接ダイレクト攻撃アタックを受けて悶絶する晃を尻目に、尋は唐揚げを頬張った。

 晃は尋、そして愛と小学校からの付き合いだ。昔からお調子者で、事あるごとにこうやって尋をからかってくる。

「いや、なんつーかさ……」

 いててて、と眼を擦りながら晃は続けた。

「お前らを見てると、『持ちつ持たれつ』、って感じがするからさ……」

 その言葉に尋はピタリ、と箸を止めた。

「……お前さ」

 尋はポツリと呟く。

「ん?」

「……いや、さすがは弓道部だなって」

「……は? なんだそりゃ」

「まあ、な」

 『的を射てる』、って事だよ。

 尋はその言葉を、お茶と共に飲み込んだ。

「ん? おーい」

 ふと聞こえた声に前を向くと、尋のクラスの担任の鍋島先生がドアから顔を覗かせていた。

「今日の掃除当番誰だ?」

「誰って……ああ」

 黒板を見れば、日直の名前欄に当たる箇所が消されている。大方前の授業の教師が誤って消したか、面倒事を避けたい生徒がわざと消したのだろう。

「おーい、誰か知らんか?」

 鍋島先生が教室を見渡すが、それに反応する人は一人もいない。

 無理もない。自分から厄介事に首を突っ込みたがるような物好きなんて、このクラスには一人もいない。

 ……たった一人を除いて。

「あー……じゃあ俺やっときますよ」

「……いいのか? 尋」

「いいっすよ、どうせ帰宅部でする事無いですし」

 尋がそう言うと、鍋島先生は申し訳無さそうに頭を掻いた。

「いつもすまんね……お、そうだ」

 鍋島先生が思い出したように尋に向き直る。

「『お姉さん』が来てるぞ」

「……だから姉じゃないですって」

 最早恒例となった担任の間違いに、尋は溜め息すら出なかった。

「……尋、おめぇさ……」

 尋が教室を出ようとした時、晃は尋を呼び止めた。

「ん? 何だ?」

「いや……お前、それでいいのか?」

 怪訝そうに眉を潜め、晃はそう尋に尋ねた。

「何がだ?」

「いや、その……いや、忘れてくれ」

「……? 何だそれ」

 よく分からなかったが、尋はそのまま教室を後にした。




 応接室に着くと、尋にとって見覚えのある女性が座っていた。

 応接室の雰囲気とは不釣り合いな紺色の修道服から覗くセミロングの茶髪に、胸に下げた金の十字架のネックレス。冗談抜きで、まるでこの世に苦しみなど無いというような表情で柔らかく目を閉じた、穏やかな優しい笑顔。

 こんな格好で尋に用のある人なんて、宗教の勧誘でも無ければこの世に一人しかいない。

「あら、尋君。久しぶりね」

「……お久しぶりです、シスター」

「もう、お姉さんでいいと言ってるでしょう?」

 シスター――村むら井い夕ゆう香かはいつも通りのにこやかな笑顔で尋を出迎えた。

 村井夕香。神奈川区唯一の教会「リデプション聖教会」のシスターである彼女は、その教会が切り盛りする孤児院の先生でもある。

 尋が孤児院を卒業した今でも、こうして会いに来てくれるばかりか、高校の学費まで出してくれている。

「シスターが『姉です』なんて言うから、先生も誤解しきってるじゃないですか」

 気恥ずかしさ故に、夕香を『姉』と言う度に尋が『姉じゃない』と食って掛かるのだ、と。

「あら、でもいいでしょう? 『家族がいない』と自覚するより、『姉がいる』と思う方が気も楽にならない?」

 夕香は何でもない事のように、微笑んでそう言う。

「……敵いませんね」

 いつもの事だ。夕香はいつも、尋が思いもよらないような事にまで気を使ってくれる。

 孤児院を卒業する時もそうだった。尋が「もう迷惑をかけたくないから一人で生活する」と言ってバイト先を探そうとした時も、「仕事をするなら高校を出てからの方がいい」と言って高校に行く学費まで出してくれた。

「学校はどう? 皆とは仲良くやってる?」

「……お陰様で」

「尋君は一人で何でも背負い込もうとするからね……昔から」

 そう言って夕香はニッコリと笑った。

「尋君はもっと、他人を頼っていいのよ? 他人に迷惑をかけるのは、何も悪い事ばかりじゃ無いわ。あなたはまだ子供なんだから」

 ……違います。

 俺はそうしてはいけないんです。俺にそんな資格は無いんです。

 だって俺は……。

 そう言いたくなったが、辛うじて尋はその言葉を呑み込んで、笑って見せた。

「……有り難うございます。俺は大丈夫ですよ」

「……そう」

 夕香はそう、哀しげに笑った。




*     *     *



 尋が異変に気付いたのは、放課後の教室掃除からの帰りだった。

 放課後、教室掃除に一人残された尋は、一人で床を払い、ゴミを捨て、黒板を消さねばならなかった。

 結果、掃除前には燦々と射していた日の光も、今ではもう赤みが差している。

 普段なら愛か晃と帰るのだが、生憎二人とも部活だ。

(流石に一人だと暇だな……)

愛の言う通り、何か部活入っておけば良かったかもしれない。

 学校敷地内の桜並木を通り過ぎ、ふと右を見た時、尋は何か光る物を見た……ような気がした。

「……ん?」

 尋はぴた、と足を止めた。

 ここ、多里沢高校はちょっとした高台の上に建っている。眼下には広い公園が広がり、その周囲には住宅が建ち並んでいる。

 光を発していたのは、その住宅の一角だった。

 いや、光だけではない。それとは違う何か別の……。

 微かに感じた違和感に、尋は足を止める。

「……何だ?」

 違和感の正体を突き止めるため、尋は五感に意識を集中させた。

 妙な音は聞こえない。

 地震のような揺れもない。

 これは……匂いだ。

 どこかで嗅いだ匂いがする。まるで……。

 ――何かが焼け・・・・・ているような・・・・・・。

「……っ!」

 その匂いの正体に気付いた時、尋は反射的に匂いの元へ駆け出していた。

 そう、あの時・・・嗅いだのと同じ、肉の焼けるような匂い。

 人の焼ける匂い・・・・・・・。

 校門を飛び出し、公園の方へと向かう。

 公園に近づくほど、匂いは強くなる。

「ここか……っ!」

 そこに広がっていたのは、絶望的な光景だった。

 家だ。家が燃えている。

 燃え盛る庭の木々。

 黒煙の立ち上る家屋。

「か、火事……!?」

 それを見た尋は、ある事を思い出した。

『神奈川県横浜市神奈川区の一軒家にて、火災が発生し……』

「これって……今朝のニュースの……?」

 そして……。

「……あれは……?」

 玄関の前に、何か黒い大きな物体がある。近づいてみると、それは頭を抱えて踞る一人の男だった。

(まだ、生きてる……?)

「お、おいあんた! 大丈夫か!? しっかりしろ!」

「うう……」

 近づいて肩を揺すったが、男は呻くばかりで何も答えようとしない。

「おい、ここは危ねぇ、離れるぞ!」

「……ない……」

 俯いたまま、男が何事か呟く。

「え?」

「俺じゃ……ない……」

「……は?」

 尋が手を離すと、その男は怯えた目を尋に向けた。

「俺に……近づくなあぁぁぁぁぁっ!」

 その叫びと共に……。


 尋の足下が、音もなく燃え上がった。


「なっ……!?」

 考える間もなく、空気から一瞬にして水分が失われるのを肌で感じる。その次の瞬間尋を襲った感覚は、キャンプファイヤーもかくやという程の灼熱。

 あまりに突然の、あり得ない出来事に頭の処理が追い付かない。為す術も無く炎に捕らわれる。

 懸命に振り払おうとしても、炎の手は容赦無く尋に絡み付く。

「くそっ……何だよこれっ!」

 身体中を業火の殺意が包み込む。

「違うっ、違うんだ、俺はぁっ!」

 男は何かから逃れるように手を振り払い、その度に尋を取り巻く炎が激しさを増す。

(この男が……燃やしてんのか!?)

「何がどうなって……くそっ、離れろよっ!」

 熱い。命を一つ燃やし尽くすには十分過ぎる程の熱が、未だ事態を飲み込めていない尋を死へと一歩づつ手繰り寄せる。

(今度こそ・・・・死ぬのか、俺は……)

 熱と痛みで次第に薄れていく意識の中で、あの時の事を思い出す。あの臨死体験を、あの永遠の暗闇の恐怖を。

(でもまあ、しょうがないか……)

 だが不思議と、死への恐怖は感じていなかった。

(どうせ俺は……)





(『人殺し』だからな……)





 薄れ行く意識の中、尋は思った。

(やっと……償えるのかな)




『それが、お前の『罪』か?』

「えっ?」

 意識を手離そうとした尋の耳に突然、男の声が響いた。

 目を開いた尋の目の前に広がっていたのは、尋を殺そうと一層燃え盛る炎などではなく……一面暗闇の空間だった。

「……ここは、どこだ? 俺は……死んだのか?」

『違う。ここはお前の精神世界だ。現実のお前はまだ生きている』

 再び、尋の耳に声が響く。それも、先程よりはっきりと。

 暗闇に慣れてきた尋の目に見えてきたのは、全身黒ずくめの一人の男だった。

「生き……てる……?」

『そうだ。現実のお前はまだ死んではいない。それで……お前はその『罪』をどうする?』

 男はくぐもった声で尋に告げた。……どこかで聞いた声のような気もする。

「『罪』……?」

『お前は『罪』を犯した。お前はそれを償うのか?』

「……いきなり何なんだよ。訳分かんねえ」

 口ではそう言いながら尋は、男の言葉が引っ掛かっていた。

 『罪』。それは恐らくあの時・・・の事を言っているのだろう。『人殺し』と呼ばれたあの時の事を。

 あの事件・・・の時、あの人・・・に言われた言葉。

 『人殺し』というその言葉だけが、今なお耳にこびりつき、暗い影を落としている。

 自分が『罪』を犯したという事は、とうの昔に受け入れたつもりだった。耳から離れないあの言葉の苦しみから逃れるには、そうするしかなかった。

 だが、その『罪』をどう償うのか。それが尋には分からなかった。そもそも、簡単に償う事が出来ないという事など、最初から分かっていた。

 だから、尋は「責任を取る」事にした。

 世話になった孤児院を出て迷惑を掛けないようにして。

 誰かが役割を放棄した教室掃除を引き受けて。

 出来る限り誰の力も借りないようにして。

 些細な事かもしれないが、それを積み重ねていけば、いつかは償えるんじゃないか。

 自分よりも、誰かのために。

 そうやって自分を押し殺していれば、いつかはこの声は聞こえなくなるんじゃないか。

 尋はそう思っていた。

「……俺はどうすれば良いんだ?」

『……む?』

 気付けば尋は、そう尋ねていた。

「俺はこの『罪』を……『人殺し』の『罪』を……償えるのか?」

『……それはお前がどの『道』を取るかだ』

「『道』?」

『そうだ』

 そう言って男は何も無い暗闇を見上げて手をかざし、数えるように指を折った。

『『罪』を拒絶する『道』。『罪』を犯し続ける『道』。そして……』

 男が尋の方に向き直る。

『『罪』を乗り越える『道』だ』

「乗り……越える……?」

『『罪』とはいわば山のようなものだ。人の犯した『罪』は山のようにその人の目の前に現れては、行く手を阻む。その山を登る苦労を避け、自らの『罪』に怯え恐れながらその一生を終えるか、その『罪』を登り、償う事で先に進むか……どちらを選ぶかは、その人の進む『道』によって決まる。『罪』を認め、『罪』を犯したという事実を乗り越え、その『罪』を償い続けるという、『罪』の先に進む茨の『道』だ』

「先……」

『お前は『罪』をどう受け止める? そしてどう『償う』?』

「俺は……」

 この『罪』から逃れるつもりは無い。

 償えるのなら、償いたい。

 けれど……。

「どう償えばいい?」

 尋がそう尋ねると、男はフン、と鼻で笑った……ような気がした。

『私は『道』を尋ねるだけだ。それを選択し、決めるのはお前自身だ。そこから先は、私には関係無い』

「無責任な話だな……そもそもお前は誰なんだ?」

『それはお前が一番良く知っている』

「知らねえから聞いてんだけどな……」

『私の事など、どうでもいい』

 そう言って男は再び暗闇を見上げた。

『償うと言うのなら、もう行け。『罪』を償う場所はここでは無い』

「何だそりゃ、人の事こんな所に呼び出した次にはもう行けって……ってああっ!」

 その瞬間、尋は現実で自分の身に何が起こっていたかを思い出した。

「あ、あの男! いきなり炎出してきて……」

『あの男はお前と同じ、『罪』を背負った者だ』

 男は、何でもない事のようにそう言った。

「俺と……? それなら、俺もあいつと同じようになるのか?」

 尋は思い出す。あの男の怯えた目を。

 あの目は見た事がある。自らの『罪』に怯える目だ。

 あんなものが、人を傷つけ、『罪』を犯し続ける事が、『罪』の償いだと言うのか。

『……一つだけ違うのは、あの男は『罪』を受け入れなかった、という事だ』

「受け入れ……なかった?」

『そう。あの男とお前との相違は、『選んだ道』だ。自らが犯した『罪』を受け入れられず、否定すれば、その『罪』を犯し続ける事になる』

「『罪』を犯したから……あんな力を手にしたって事か?」

『私は『罪』に応じて力は授ける。だが、その『罪』を受け入れて償うために使うか、『罪』を否定し暴走するかは、本人次第だ』

「……理不尽な話だな」

『お前はどうする? 自分の『罪』を受け入れた後、お前はあの男をどう裁く?』

「…………」

 辺りの暗闇が薄らいできた。男のシルエットが揺らぎ、声も遠退いていく。

「そんなの……」





 決まってるだろ。





「…………」

 目を開けると、目の前には僅かに赤みがかった空が広がっていて、尋はその下で仰向けになっていた。辺りでチリチリと炎が揺らめき、燻った炭が空を漂う。

 例の・・……隕石事件・・・・の時のように。

「お、お前……」

「……ん?」

 声がした方を見ると、先程の男が怯えた目で尋を見ていた。

「な……何で燃えない……?」

(……ま、そう思うよな)

 体を炎に包まれながら、ゆっくりと立ち上がる。不思議と、熱さや痛みはもう感じなかった。

「……お前も、辛いだろ」

「……?」

 男の方へゆっくりと歩きながら、尋は続ける。

「人間だからな、受け入れたくない『罪』もあるのは分かるさ」

「……う、うるさい! 俺は、俺はただっ……!」

 『罪』という言葉を聞いた瞬間、男は顔を歪めてわめき散らし、再び手をかざした。

(やっぱり、この男もあいつに『罪』を問われたのか……)

 そしてこの男は『罪』を受け入れられなかった。そしてそれは今も同じ。

(なら、俺が出来ることは……)

 再び、炎が轟音を上げて襲って来る。

(『罪』を償わせる事じゃない)

 灼熱の殺意が迫る。

(俺に出来るのは……この男に『罪』をこれ以上犯させない事だ)

 尋も手をかざす。

 その瞬間、尋の中で何かが弾けた。

「俺はその『罪』を……『引き継ぐ』」

 刹那。


 尋の体を、黒い霧・・・が包み込んだ。


 その霧は尋にまとわりついていた炎を弾き飛ばし、襲いかかる炎をもかき消す。

「な……」

(これが……俺の『罪ちから』か)

 暗闇が尋の体を覆い隠す。だが不思議と、尋はそれが居心地良く感じられた。

「……背負いたくない『罪ちから』を無理に背負わなくていい」

 尋はそう言うと、再び男に向かって一歩づつ歩き出す。

「や……やめろ……来るなあぁぁぁぁぁッ!」

 男は恐怖に怯えて何度も炎を打ち出すが、尋の闇がそれを悉く弾き、無慈悲に拒絶する。

「……その『罪ちから』は、代わりに俺が背負ってやる」

「や、やめ……」

「けどな、あんたは一つだけやっちゃいけない事をした」

 男の前に立つ。男はもはや戦う気力を失い、その場にへたりこんだ。

「……あんたは、人を殺した」

「お……俺は……」

 尋は男の頭に手をかざした。

「それはあんたが、『死』を知らないからだ」

 隕石事件での事を思い出す。永遠に続く闇。周りに何も無い、『死』の恐怖。

 あの臨死体験で、俺は生きたい、と思った。だから俺はここにいる。

 あの恐怖を知ったから、人の命が失われるのを黙って見ている事など出来ない。

 もう、これ以上は。

「……まあ、口で言っても分かんないだろうからさ」

 尋を取り巻く闇が尋の腕に集中する。

「教えてやるよ……『死』を」

 尋の掌の闇に、金色の目が開く。その目に宿る感情は何も無くて。

「た……助け……」

 その時ふと、尋の頭にある一つのフレーズが浮かんだ。

 とても柔らかな声で、優しく教えてくれたあの言葉。

 あの日・・・、あの人が教えてくれた、死の意味を。





「怖かったの?」

 夜の暗闇に包まれた白く広い部屋で、あの人は幼い日の尋を抱き締めてそう言った。

「ぼ、僕は……」

 泣きじゃくる尋はその人の胸に顔を埋め、襲い来る恐怖に耐えようと必死になっていた。

 だが、目を閉じても脳裏に蘇るあの出来事は、尋に否が応でもあの恐怖を思い出させた。

 あの何も無い暗闇――臨死体験の恐怖を。

「……分かりました」

 しばらくして、泣き止まない尋の頭を撫でながら、その人は呟いた。

「あなたがその悪夢に苦しむなら、あなたの悪夢は私が受け止めます。ですから、もう心配はいりません」

 優しく語りかけるその人の言葉に、尋の涙は次第に収まっていき、尋は目を赤く腫らしながら彼女を見上げた。その目は部屋を照らす蝋燭で淡く光っている。

「でも……」

 優しくも強い口調に変えて、その人は続けた。

「あなたがその恐怖を知ったなら、その恐怖を他人に与えてはなりません。分かりますね?」

 いつしか月の光が部屋の中に射し込み、その人の優しい笑顔を明るく照らし出した。

「あなたがその事を忘れる事が無いよう、あなたにこの言葉を授けます」





 その時の言葉は、今でもよく覚えている。その言葉が今まで尋を支えて来たから。

 その言葉が、尋を人間でいさせてくれたから。

 だから、その言葉を迷わず口にした。




『死をメメント、・想えモリ』




 その瞬間。

 闇が、男の全てを支配した。





(ここは……)

 気が付いた時、男――橘煉司――は真っ暗闇の中にいた。

(俺は、さっきまで……そうだ、あのガキに……!)

 周りを見回してさっきの少年を探すが、目を開けている筈なのに暗闇しか見えない。

(くそっ、どこなんだよここは! あのガキはどこだ!)

 全く、ついてない。何で自分だけがこんな目に遭うのか。

 そもそも、一週間前のあの事があってから、煉司の人生は狂い始めたのだ。あの事件さえ無ければ、煉司がこんな目に遭う事も無かった筈だ。

(何とかしてここを……って、ここはどこだ?)

 そこで煉司は、はたと気付いた。

 この場所は、何も無い。

 右を向いても、左を向いても。

 上を見ても、下を見ても。

 何も、無い。

(……『下を見ても』?)

 驚いて下を向く――少なくとも煉司はそうしたつもりだった――が、そこにはある筈の物が無かった。

 自分の体が無い。

 それだけではない。腕の感覚も、足の感覚も、体を動かす感覚も、否、体の感じるべき感覚すら……全てが無い。

(嘘だ……嘘だ!)

 煉司は叫ぼうとしたが、声がでない。

 否、口すらも無い。

 ここには煉司の意識しか無い。

 あるのは、どこまでも続く闇と、絶望的な孤独感。

 そこで、煉司は思い出した。先程の少年が最後に言った言葉を。




『教えてやるよ……『死』を』




(これが……『死』……)

 この永遠の暗闇が。この言い様の無い恐怖が。

 『死』。

(嘘だ……誰か、誰かっ!)

 煉司は虚空に向かって声も無く叫んだ。

(助けてくれえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!)





「あ……か……」

 男は口から泡を吹き、白眼を剥いて仰向けに倒れた。

 胸に手を置くと、心臓がまだ弱々しく脈打っているのが感じられる。命に別状は無さそうだ。

「……さて」

 尋は立ち上がり、今なお燃え盛る家を見上げた。

(『償う』には程遠いかもしれないけど……)

 尋は先程と同じ様に意識を集中させた。背中から黒い霧が再び、羽根のように発生する。

(あの男の炎を弾いたこの闇なら……)

 この炎を消す事が出来るかもしれない。

 確証は無い。この闇の霧は、弾くことは出来ても、打ち消す事は出来ないかもしれない。

 だが、だからといってこのまま何もしない訳にはいかない。

 この『罪』の連鎖を終わらせるのが、俺の『償い』だ。

 他の誰でもない、この俺が。

 尋の背中の闇が、家全体を包み込める程に広がる。

 頭の中で、家を覆い尽くす闇の形をイメージする。

(……イメージした通りに動かせる!)

「これならっ……!」

 その途端、地面がグラリと揺れた。

「なっ……!?」

 否、揺れているのは地面ではなく、尋の視界だ。

 それだけでは無い。視界が歪み、家全体が捻曲がって見える。

 辛うじて体勢を保つが、同時に尋は激しい頭痛を感じ始めた。

 鼻から、汗ではない生暖かい液体が滴り落ちる。

 力の使いすぎなのか、尋自身の体が力に耐えられないのか、尋の体力は限界に近付いていた。

 足が自身の体重を支えられず、尋はその場に跪いてしまう。

(くそっ……まだ、持ってくれっ!)

 燃え続ける家に向けて再び手をかざし、必死に闇をコントロールする。

(もう……少しで……!)

 闇の霧が、家をすっぽりと包み込んだ。

(この炎を吸収……いや、喰らうイメージで!)

 懸命にイメージを働かせ、炎と家との間に闇の霧を割り込ませて炎を闇の中に取り込んでいく。

「っく……、このままっ……!」

 だが。

 刹那、尋は感じた。

 首筋を狙う、刺すような殺意を。

「……っ!」

 咄嗟に右腕に残りの闇を纏わせ、振り向くと同時に頭上に突き出す。

 ガキィィィィィン! という、金属同士のぶつかり合う様な高い音が鳴り響いた。

 鉄製のバットで思い切り殴られた様な、重たい衝撃が腕を襲う。

「ぐっ……!」

 辛うじて家に向けられた闇への意識を保ちながら、尋は突然の闖入者を見上げた。


 それは、一人の少女だった。

 少し大人びたその顔から察するに、恐らく尋と同じ位の年だろう。

 胸まで伸ばした真っ黒な髪にネイビーブルーのカチューシャ、高校生風の紺のブレザー。

 髪の間から覗く、殺意の籠った茶色の瞳。

 そしてその少女の手には、血のように赤い、西洋風の剣のような物が握られていた。その先端からは赤い液体がポタリ、ポタリと滴り落ちている。

(……血?)

 まさか俺の……?

 驚いて腕を見るが、男の炎すら弾いた闇に守られた右腕は傷一つ付いていなかった。

 ともすれば、この少女の方か。

 そう思って少女を見るが、目立った外傷は無い。

 ……いや、そもそもこの剣の色は。

(血の……剣?)

「……折られた?」

 少女が初めて口を開いた。女性特有の、凛とした高い声だ。

「あんた……何をしたの?」

「……は?」

「まあいいわ。とにかく答えて」

 少女はそう言うと、手に握られたその血の剣の折れた切っ先を尋の喉に突き付けた。

「あんたが燃やしたの? その黒い霧は何? あんたは……」

 捲し立てるようにそこまで言うと、少女は尋の目を見据えて告げた。

「『罪』をどう・・したの?」

「……!」

 その一言に、尋は驚きを隠せなかった。

 今、この少女は何と言った?

 『罪』。

(この女も、『罪』を……?)

 だが見た所『罪』を否定して暴走しているようには見えない。つまり……。

(俺と同じ、『受け入れた側』か)

「……受け入れたよ」

「……そう」

 そう言うと少女は目を伏せ、剣を尋の喉から離した。

「なら、炎を消して。自分が出した炎なんだから、自分の意思で消せる筈よ」

 少女は尋にそう命令した。どうやら尋が燃やしたものと思い込んでいるらしい。

「……違えよ。やったのは俺じゃねえ」

「……あんた、まだそんな事言って……?」

 そこまで言った時、少女は尋の隣に横たわる男を見て言葉を切り、目を見開いた。

「こいつ……まさかあんたが……?」

「そ。そこで伸びてるのが燃やした張本人。俺は通りすがっただけだ。それと……」

 そう言って尋は家に向き直り、手を伸ばした。

「少し離れててくれ、集中したい」

「……何をする気?」

「決まってるだろ」

 答えながら、闇の形を必死にイメージする。

「この罪ほのおを……消す!」

 炎を包み込んだ闇を家から切り離し、空中に浮かべた。

「炎を散らす! 離れろ!」

 尋が叫ぶと、少女は了承したというように飛び退き、右手を頭の上に掲げた。すると、その手が赤色の光を発したと同時に、赤い塊が掌から音もなく生えた。その塊は次第に、花の形をした赤い板状のもの――血の盾だろうか――に形を変えていく。

「自分の身くらい自分で守るわ。やるんならさっさとやって」

「……ああ」

 答えると同時に、尋は闇に包まれた炎を一気に解放した。

 燃やす対象を失った炎が、火の粉となって尋達の頭上に雨霰のように降り注ぐ。だがそれらは、尋達の体を焼くには遠く及ばなかった。その情景はまるで音の無い花火のようで、『罪ちから』により起きた現象であることを忘れさせる程だった。

「…………」

 舞い落ちる火の粉を呆然と眺めた後、尋は改めてその名も知らぬ闖入者を見た。

 背丈は一七〇センチ位だろうか。女子としては背の高い部類だ。鼻筋はすらっと通っていて、顔立ちも整っている。カチューシャに束ねられた髪は、首から胸にかけて垂れ下がっている。

 彼女を見た人は誰でも、美少女と判定するだろう。

「……何? 私の顔に何か付いてる?」

「あ、いや……」

 そこまで言った尋は、再び頭に激痛が走るのを感じた。

「ぐっ……!」

 万力で頭を締め付けるようなその痛みに耐えきれず、その場に倒れ込んでしまう。

「どう……な……」

 少女の声が聞こえたが、尋の意識は吸い込まれるように暗闇へと落ちていった。





 夢から目を覚ますイメージは、いつも同じ。

 暗闇から目の前の小さな白い光へと手を伸ばす感じだ。

 そのうちに手足の感覚が、体を動かす感覚が舞い戻り、周囲の風景が色付き始める。

 そして目を開ければ、いつもと変わらぬ天井が目の前に現れ――。

「……え?」

 そう、いつもと同じ天井。

 だが、その光景に一瞬違和感を覚える。何か、大事な事を忘れているような……。

 うまく働かない頭をフル回転させ、漸く尋は昨日起きた事を思い出した。

 学校から見えた炎。燃え盛る家。発狂し、尋を不思議な力で燃やそうとする男。無意識下で出会った男。そして、尋を包んだ闇。

「……あっ」

 そして気付いた。

 自分は道のど真ん中で仰向けに倒れ伏したのでは無かったか。

 だが。

 尋が今寝ているのは、自分の家のベッドだった。

「……いや……は?」

 自分の意思で立ち上がった記憶も無いし、ましてベッドで寝た覚えも無い。

 それとも、あれは全て夢だったのかとさえ思ってしまう。

 試しに意識を集中させると、背中がゾワリと泡立つ気配がする。

 振り向けば、そこには確かに昨日のあの闇の霧が背中から生えている。

 つまり、昨日の出来事は夢では無かったという事だ。

 ともすれば、あの少女か。

 尋が自分で家に着いたのでないなら、そうとしか考えられない。

「……どうやって鍵開けたんだ?」

 鍵は財布と一緒にズボンのポケットに入れていた筈だ。

 そう思って自分の服を見た時、尋は更に驚いた。

 服が変わっている。

 今の尋の服は、あの男の炎でボロボロになった制服では無く、普段尋が着ている部屋着だった。

 そう言えばスマホも無い。財布も。

 盗られたのだろうか。あの少女に。

 だが、それならこうやって自宅まで運んだ上に着替えさせる筈が──。

(……待て)

 そこまで考えて、尋はある事に気付いた。

 着替えさせ・・・・・られた・・・のか、俺は。

 慌てて服の中を見るが、幸い下着は変わっていなかった。

「……いや、そういう問題じゃなくて」

 部屋を見渡すと、テーブルの上に見馴れない紙袋が置いてあった。

 ベッドから這い出て確認すると、中に入っていたのは新品の制服と鍵、財布、ケータイ、そして一枚のメモ。

 そのメモには、女性らしい丸文字でこう書かれていた。

『部屋を勝手に物色した事は謝るわ。制服は新しい物を調達したからこれを使って。事情は今日中に話す。それと、昨日の事は誰にも言わない事』

「……何だそりゃ」

 部屋の中を漁られた事は腹が立ったが、その厚意に甘えてその制服を使う事にした。





「うーし、じゃあ授業に入る前に、少し知らせがある」

 一限目、鍋島先生は何やら妙な笑いを浮かべてそう言った。

「今日から転校生が来る」

 そう言った途端、教室中がどよめいた。

「マジで? いきなり?」

「誰? イケメン?」

「女子か? 美女か?」

「下心出し過ぎだろお前ら」

(本当に急だな……)

 そう思ったが、昨日の出来事を真剣に考え込む尋は特に気には止めなかった。どうせ自分には関係無いと。の少なくとも、この時までは。

「はいはい、実は昨晩急に決まったんだが、まあそこは大人の事情って事で気にしないように。じゃあ、入ってー」

 そう言って扉が開かれた時、教室の人間全員が息を飲んだのが聞こえた。

 尋はその少女を見ても、さして驚かなかった。昨日の奇妙な出来事のせいで感覚が麻痺していたのか。或いはこうなる事を心のどこかで予期していたからなのか。

 どちらなのかは分からないが、少なくとも尋は驚いていなかった。

 入って来たその少女は、尋の知っている人と殆ど変わらなかった。ただ、着ている制服が多里沢高校のものになっているという点を除けば。

「あ……」

 いつ、と思わず声を上げそうになったが、すぐにその言葉を喉に押し込んだ。

 感じたのだ。あの視線を。

 昨日も感じた、あの鋭い殺意。

 それを発している人間が誰なのか、最早探す間でも無かった。

(あいつ……)

 少女は尋に向けていた視線を下げると、クラスメイト達に笑顔を向け、あの凛とした高い声で言った。

「えっと……三みつ原はら翔しょう子こです。趣味は読書で、運動はちょっと苦手です。家庭の事情でこの町に昨日引っ越してきました。突然の転校で私自身も戸惑っていますけど、これから皆さんと頑張って、仲良くしていきたいと思います。宜しくお願いします」

 そう言ってニッコリ笑い、翔子と名乗ったその少女はペコリと頭を下げた。物静かな、おしとやかな女性という印象を与えるには十分な自己紹介だった。

「へー、結構可愛い娘だな、なあ、尋?」

 隣にいた晃が、尋の胸中も知らずにそう言う。

「あ、ああ……そう、だな……」




 こうして。

 尋の日常は、終わりを告げた。

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