第1話 始まりなよ予感
耳元で鳴り響く爆音に目を覚ます。
薄汚れた白い天井。紐の垂れ下がった蛍光灯。
横を向けば、五時半にセットされた目覚まし時計がけたたましい音を立てて尋を覚醒へと促す。
何の事はない。まだ朝日の射し込んでいない、薄暗い自室だった。
少年――前ちか道のり尋じん――はまたか、と溜め息をつきながら目覚ましを止めた。
寝癖でボサボサの髪をかきむしりながら洗面台に向かい、顔を洗う。
最早見飽きてしまった自分の顔の映る鏡の前で歯を磨きながら、尋は先程見た夢の内容を思い出した。
昔の記憶を夢に見るのは、別に今に始まった事じゃない。
遠い昔の記憶、前道尋じぶんという人物を形成している最初の記憶を。
顔を洗ってから台所の冷蔵庫を開け、昨日作り置きした肉じゃがと保存用御飯をレンジで温める。
一人で生活する尋にとって、朝食はいつも簡素なものだった。
尋の両親は、いない。
というか、両親がいたかすら覚えていない。
それ以前に、四歳より前の一切の記憶が無い。
記憶が始まっているのは、尋が四歳の時から。
その時既に、尋の両親はいなかった。
だから尋は、記憶が始まってから今に至るまで、『家族』というものを知らない。
自分を引き取りに来る大人もいなかったので、とっくに死んだのかもしれない。
(……やっぱキツいもんだな、独り身の生活も)
この独り生活を始めてから五年になるが、未だに慣れない。
学費や生活費は尋が卒業した孤児院のシスターに出してもらっているが、生活は一人だ。
自炊自体は出来るが、テレビ以外に誰の声も聞こえない薄暗い部屋の中に一人で何時間も過ごすのは、まだ寂しさがある。
テレビをつけ、何の変哲も無いニュースを聞き流しながら、尋は質素な朝食をとった。
「……次のニュースです。昨夜午後八時半頃、神奈川県横浜市神奈川区の一軒家にて、火災が発生しました。近隣住民からの通報により現在は消火されましたが、出火元の一棟が焼け、焼け跡からは、この家の住人と見られる相島秀川さん四二歳の遺体が発見されております。目撃者からの情報によりますと、『音も無く家全体から炎が上がった』との事です。今月に入ってから既に七件目の火災となっており、警察はこの一連の事件を『不能事件』と断定し、同一犯による犯行として捜査を進めています……」
「おっはよー!」
尋の住むアパートの一室のドアを閉めた時、高く澄んだ馴染みの声が後ろから聞こえてきた。
「よう、愛」
「はい、これ」
そう言って紺のブレザーに身を包んだツインテールの少女――悉みな代しろ愛あい――は、ピンクの花柄のハンカチにくるまれた弁当箱を尋に渡した。
「悪いな、いつも」
「いいっていいって。尋君一人暮らしで大変なんだし、何だったら住み込みで手伝ってもいいんだよ?」
「いや、流石にそこまでは……」
頭の両脇で結んだ長い黒髪を揺らしながらあっさりとそう言う愛に、尋は苦笑いで返す。愛が尋に世話を焼きたがるのは、昔からずっと変わらない。
愛は、親のいない尋が孤児院に引き取られた頃からの幼馴染みだ。記憶が無く、家族もいない、という不安定な状況に悩む尋にとって、人見知りせず接してくれる彼女は唯一の心の支えだった。
今でも彼女は隣に住んでいて、こうしてよく尋に弁当を作ってくれる。
……自分はそんな事をされるべき人間ではないというのに。
「それより、最近部活はどうなんだ? こないだ昇段大会あったんだろ?」
愛は現在、尋達の通う多里沢高校空手部の主将を務めている。
昔から運動神経も良く、武術の習い事をしていた。そのせいなのか……。
「え? 普通に優勝したけど?」
……とんでもなく強くなってしまっているのが現状だが。それも男子よりも。
入部の際、力量を量ると称して挑んできた先輩を一撃で昏倒させたのは今でも語り草となっている。
尋はいつも愛を見ているが、こんな華奢な体のどこにそんな力があるのか、どうしても分からない。
その整った顔立ちと端整な体は、むしろバレエ部とかの美しさを重視した部活か、あるいは文化部と言った方が合っているような気がする。少なくとも、運動系の部活には似合わない。
改めて愛を見てみる。
愛は、一言で言うなら『綺麗』というより『可愛い』という印象だ。
身長は一六三センチとこの間の身体測定で言っていたし、女子としては平均的な部類だろう。体つきも痩せすぎても太ってもおらず、極めて健康的で平均的だ。何がとは言わないが。
頭の横で揺れるボリュームのあるツインテールは黄色のヘアバンドで留められている。どちらかと言えば童顔である愛の目もとは可愛らしくクリッとしており、頬は薄く赤みがかっている。
何度見ても、本当に空手部かと疑いたくなる容姿だ。
「相手の選手、男子の癖に弱すぎるもん。勢い余ってコテンパンにしちゃった」
「……そうか」
現在空手三段。多分、彼女なら女子日本一も狙えるだろう。正直、実績があまりに凄すぎて、昔から彼女を知っている尋としてはあまり実感が湧かない。彼女を怒らせないようにしようというのが、周囲の暗黙の了解だ。
「尋君も何か部活すればいいのに」
「もう俺ら高二だぞ? 今更遅いって」
「むぅ。それもそうね」
因みに尋は絶賛帰宅部である。
「というか尋君、何で部活しなかったの?」
「まあ、やりたい事も無かったしな」
「ふーん……」
愛は意味ありげに呟いて、尋の顔をまじまじと覗き込んだ。
「何だよ、何か悪いか?」
「ううん? ただ、尋君が何かしたいって言った事、そういえば一度も聞いた事無いな、って」
「あー、まあ、な」
確かに、言われてみればそうだ。尋が自分から何かをしたいと思った事など、今まで一度も無いような気がする。
「まあ、人それぞれなんだろうけどさ。したい事する人生の方が、絶対楽しいよ?」
「……ま、考えとくさ」
他愛ない会話をしながら学校へ向かう、何の変哲もない日常。
だが、尋にとって、その日常の始まりは少し特殊だった。
それは、あまりに突然の出来事だった。
二〇〇五年七月一二日午前一一時二八分、神奈川県横浜市神奈川区に突如として隕石が飛来した。
天体望遠鏡や衛星による観測もされずに飛来した直径約一メートルのその岩は、大気圏の摩擦で高温になりながらも完全に溶ける事無く、神奈川区の一角にあった保育園に直撃した。
結果、保育園は跡形も無く焼き尽くされ、預けられていた子供だけでなく保育士達もほとんど死亡した。
――たった一人の生存者を除いて。
尋が目を覚ました時、最初に視界に入ったのは病院の白い天井だった。
そしてすぐに、自分がそれ以前の一切の記憶を失っていると気付いた。
事件による物理的衝撃の所為か、はたまた心理的ショックの影響か……原因は不明だが、いずれにせよ尋の記憶は戻らなかった。
覚えているのは、炎に包まれる友人達の姿と、永遠に続くかのような暗闇だけ。後になってその暗闇が、所謂臨死体験だと知った。
その後、身元引取人のいなかった尋は、教会の運営する孤児院に引き取られた。
あれから一二年。尋は高校二年生になり、ここ横浜で普通の生活を送っている。自分の部屋を持ち、高校にも通っている。
今の尋の名前は自分を引き取ってくれた孤児院を切り盛りするシスターがつけてくれたものだ。
『尋』という名前は『引き継ぐ』という意味があるらしい。『自分の出生を尋ねる』というだけでなく、『死んでしまった被害者の無念を引き継ぐ』、という意味で。
最も、尋が覚えている被害者など、友達や親も含め一人もいなかったのだが。
『……殺し』
「えっ?」
突然、尋の背後から声が聞こえてきた。
驚いて振り向くが、案の定後ろには誰もいない。
「……分かってるさ」
「ちょっと尋! 何してるの? 遅れるよ!」
「あ、ああ、今行く」
そう言って尋は先に行く愛に追い付こうと走って行く。
尋が今日常を送れるのは、自分を引き取ってくれたシスターが、孤児院の友人達が、そして愛がいてくれるからだ。
やっと手にしたこの日常を、失いたくはない。
だが、その平穏な日常が、間もなく終わりを迎える事を、尋はまだ知らなかった。
* * *
……違う。
俺じゃない。
人気のないとある路地裏で、彼は座り込んでいた。
言い様のない恐怖……自分自身への恐怖に怯えながら。
(そうだ……仕方なかったんだ。あれは事故だったんだ。俺は何も悪くないんだ……!)
『違う』
彼の頭に再びあの声が響く。彼に罪を認めさせようとする男の、低い声。
『お前は罪を犯した』
「う……うるさいっ! 俺は……」
彼はその声を振り払うように腕を振り回すが、腕は空しく空を切るだけで――『周囲には誰もいない』。
『そして今なお罪を犯し続けている』
彼の意思に反して、声は更に続ける。
『このままお前が罪を受け入れなければ、お前は更に罪を犯す事になる』
「うるさい……っ! お前には関係無い……!」
やり場の無い怒りに苛まれながら、彼は逃げるようにその場を走り去った。
彼の去った後には、黒焦げた壁だけが残っていた。
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