第6話 握りしめた右手

「ふぅ~」一息ついて今来た道を戻る、帰り道は下り坂で自転車はどんどんスピードを上げていく。

今ここで自転車に跨っていること事態夢のようだった。

夜の風が心地いい、心の中も何だか清々しい?言い知れぬ充実感に満たされていた反面、彼女への罪悪感がどんどん膨らんでいく気がした。

でもなんだか少し寂しい?この複雑な感情は自分自身でも未だ理解出来ないでいた。

今来た道のりを半分の時間で戻る、またスタバ前の駐輪場に自転車を鍵をつけたまま放置する。

「もうここに来ることもないだろう・・・」

たった2回しか乗っていない青いフレームの自転車はそうして役目を終えた。

僕は役目の終えたその自転車をしばらく見つめていた。

これで彼女に永遠に逢えなくなる訳でもないのに・・・なんでだろう?また寂しさと言い知れぬ不安が込み上げてくる。

夜空にはきれいな星が鎌倉の街に降り注いでいた、駅のホームに立っていると、この数日間の出来事が思い出される。

「ホント、なにやってたんだろうな・・・ 俺は」

悩んで、悔やんでを繰り返して、今この鎌倉駅のホームに立っていたことがまだ実感できないでいた。

ぼんやりと鎌倉の空に浮かぶ月を眺める。

そして、捻り出したひとつの答えは・・・彼女が好きそれ以上の意味などなかった。ただただ、 彼女のことが好きで好きでとても愛しかった。

しばらく待って電車がホームに入ってくる、ドアが閉まり ゆっくりと 鎌倉の街が遠ざかってく。

そして暗闇の車窓の先に見える鎌倉の山々を見つめていた。

「でも、忘れよう、これで忘れなきゃ・・・」

そう心の中で呪文のように繰り返していた。

真っ暗な車窓を見つめ僕は今夜あったことを無理やり心の奥に仕舞い込もうとした。

今の僕には彼女を好きになる資格などない、そう思っていた。

「さようなら、ごめん・・・」

緊張感から開放されてまた全身の寒気と関節痛に襲われる、2時間後やっと 家まで辿り着く。

すぐに熱いシャワーを浴びてベッドに入る前パソコンを開く、彼女からの書き込みがあった。 

<堤部長 風邪辛そうでしたね、具合はどうですか?ちゃんと病院とか行きました?健康診断とか、ちゃんと 毎年受けてますか?>

(健康診断って・・・)

また矢継ぎ早に質問してくる彼女は僕のことを心底心配してくれている、

それがとても嬉しくて、とてもありがたかった。

<風邪の時は生姜湯がいいですよ(>_< )ヾ(^^ ) うちの母は風邪の時必ず作ってくれます♪今夜は早くお休みになってくださいね☆'・゜:*:・'゜☆>

(3時間前まで鎌倉で、自転車で・・・そんなことは言えるはずもなく)

彼女の優しい言葉のひと言 ひと言が先ほどまでの決意を鈍らす、そして返信する。

<ありがとう、だいぶ楽になりました。(嘘つき )生姜湯 今度作ってみます♪θωθ)おやすみなさい☆>

ベッドに入る、身体は辛くて休みたいはずのに、それを許さず、なかなか寝付けない、また彼女への罪悪感が心の奥から沸いてくる。

彼女を裏切ってしまったような、深い闇が私が眠りにつくことを許してくれなかった。

僕には生姜湯を作ってくれる人も、身体のことを 心底心配してくれる人もここにはいなかった。

僕は今、ただ ただ 寂しくて人恋しかった。

「とにかく眠らないと・・・」

罪悪感から逃れるように、僕は、無理やり目を閉じて眠りに付く。

翌朝 熱は下がっていたがまだ身体はだるかった、念のため クリニックへ寄ってから出社する。

「あまり無理は出来ないな、もう 決して若くはないのだから・・・」

そう自分を戒める。

週明けには体調も戻りいつも通り出社する、大泉学園駅までの桜並木は満開で、時折風で花びらが舞っていた。

いつも通りスタバでコーヒーをテイクアウトしてエレベーターに乗った。

「堤さん、おはようございます」

「おはよう」 デスクへと向かう いつもと変らない日常がまた始まった。

彼女からの書き込みがあった。

(1時間前か?今朝?7時過ぎか・・・早いな)  

<堤部長、おはようございます、もう出社されていますか?鶴岡八幡宮の桜は今 満開ですヽ(*^^*)ノこの桜が散ってしまう前に、桜を見に鎌倉へ来ていただけませんか>

「え?鎌倉に・・・」

彼女からの書き込みを何度も 何度も読み返す。

(鎌倉、桜って・・・これって誘ってくれてるのか? )

「もう行くことはないだろうと思っていた鎌倉・・・忘れようと思っていた鎌倉に・・・また」

彼女からの誘いは、素直に嬉しくて、心 ときめいていた、彼女のことも、鎌倉も忘れられる訳もなかった。

僕にとって鎌倉は忘れることの出来ない特別な街になっていた。

考えた末彼女に返事を送る。

<ありがとう、鎌倉の桜 楽しみです。鶴岡八幡宮も案内してください >

僕は嬉しさを隠すように、一行だけ返信した。

自然と顔が紅潮してくるのがわかる、もう熱はないはずなのに。

「おはようございま~す」

「おはよう・・・」

「堤部長もう大丈夫なんですか?お身体、顔、まだ 赤いですよ」

天谷がつっこんでくる。

「えっ?あぁ、もう大丈夫 問題ない」

パソコンを持ってミーティングルームへ上がる。

30分ほどして ミーティングから戻りデスクから彼女に視線を向ける、いつものようにパソコンと向かい合っている。

(彼女・・・返信、見てるのかな?)

一瞬、目が合うも 彼女はすぐさまパソコンに目を向ける。

午後からは人事部と内々に転勤に関してのヒアリングが行われる、家族も僕のスウェーデンへの転勤の話は知らなかった。

今週は水曜日からは大阪出張も入っていた。

体調も食欲も回復して、昼食は本格インドカレーDevi Coumerに入る。

昼食はいつもひとりだ、お店に近づくとスパイスの香りが漂っていて食欲をそそる。

「チキンカレーと豆とほうれん草のカレーを」

「はい、かしこまりました」

人事部からは5月の連休明けまでに正式な返事が欲しいと言われていた。

しかし 今の僕には転勤のことよりも 彼女との鎌倉の方が、心の中を支配していた。

回復した身体にインドカレーは旨かった、帰りにチャイティ‐ラテをテイクアウトしデスクへと戻ると彼女からの返事が届いていた。

<ありがとうございます、桜が散る前に来ていただけますか? 今週は無理、ですよね?金曜日とかでも平気です♪>

(今週は、水曜日から大阪か・・・)

すぐに返信する。

<じゃあ、金曜日にしよう♪ 時間は午後でいいかな?>

大阪出張の予定を変更する、今 僕の中での最優は仕事ではなく彼女だった。

20時近くまでデスクワークをして帰り際にフェイスブックを開くと彼女からの返信があった。

<ありがとうございます ♪ 金曜日 私お休み頂いてるんです。じゃあ 午後3時に鎌倉駅の改札の前でお待ちしていますヾ(@^▽^@)ノ > 

なにがあってもこの日は鎌倉へ行くそう決めて、手帳の15日金曜日に花丸を描き入れる。

僕たちはお互いの携帯電話の番号も知らない、唯一の連絡方法はフェイスブックだった。

彼女にいまさら携帯番号を訊くのも不自然に思えた。

<わかりました 金曜日 午後3時必ず伺います>

彼女と幾千の言葉を重ね、ふたりの距離は近づく。

でも近くなればなるほど もどかしさは募っていく。

水曜日からの大阪出張を延期してスケジュールを日帰りで戻れる山梨と群馬に変更する。

金曜日の天気が気になって、15日の鎌倉の天気をチェックする。

予報は晴れ降水確率は10パーセントだった。

「よし・・・晴れ」

4月15日金曜日 朝 駅まで続く桜並木は花が少し散り始めて歩道は桜色に染まっていた。

「鎌倉の桜もそろそろ散り始めているのだろうか?」

僕は、桜並木をゆっくりと歩きながら大きく深呼吸する。

「桜か、そういえば 彼女 だいぶ前から桜って言ってたよな」

そう呟いて、青空を見上げる。

午後からは横浜方面への外回りの予定にしていた、もちろん鎌倉へ行くために、強引に入れたスケジュールだった。

デスクから彼女へ視線を向ける。

(あっそうか、彼女今日は 休みか )

午前中のデスクワークは退屈だった時間ばかり気になる。

「まだ11時か・・・」

今日に限って時間が経つのがすごく遅く感じてしまう、やっと昼、ビルの中にある寿司屋でバラちらし丼を食べる。

(少し、早めに出よう・・・)

デスクに戻って 残っていたデスクワークを急いで片付ける。

「部長、もうお出かけになりますか?」

天谷が不意に訊いてくる。

「えっ、あぁ、今日はたぶん直帰するから・・・」

「はい・・・わかりました 」

急いでパソコンをバックに入れて部屋を出る。

逸る気持ちを抑えて自由通路を抜ける、改札口を通り15番線ホームへと降りていく。

(あれから、そんな時間は経っていないはずなのに、この15番ホームが懐かしく思える)

程なくして久里浜行きの電車が入ってくる、この前と同じドアから乗り込む、ドアが閉まり電車はゆっくりとスピードを上げていく。

車窓からは見慣れた街並が見えてくる、いつも見ていた夜景とは少し違った街の空気を感じる。

平日の昼過ぎで車内は空いていて、シートに座る、窓からは春の穏やかな日差しが街を包んでいるのが見える。

横浜駅に近づくと、ランドマークタワーがビルと空の隙間から見えてくる。

横浜駅では仲睦まじい老夫婦が入ってきて、僕の隣に座った、鶴岡八幡宮に参拝にでもいくのだろうか?

老夫婦は楽しそうに話 笑っていた、電車の中でゆっくりとした時間が流れる。

戸塚、大船、北鎌倉そして鎌倉駅もう来ることはないと思っていたこの街に僕は再び降り立った。

夫婦同士 友達同士、みんな楽しそうに改札へ向かって歩く、その一番後ろをスーツ姿の僕はゆっくりとついていく。

改札を通り抜ける、時計を見ると13時57分、待ち合わせの15時まで1時間近くあった、僕はスターバックスの方へ向かった。

「あった・・・あの自転車」

店の前の駐輪場には真新しい青いフレームの自転車がまだ置いてあった。

「この自転車、どうしようか?」

店内に入ってチャイティラテを注文する。

バックからパソコンを取り出してメールをチェックする、急いで処理しなければならない用件は入っていない。

(待ち合わせをするのなんて何年ぶりだろう?)

僕は待ち合わせの時、いつも相手より先に着いて待っていた、昔からこうやって好きな人を待つ時間が好きだった。

「そろそろ行くか」

14時46分、チャイティラテを飲み終えて、鎌倉駅の改札へ戻って行く。

改札の前に立ちまわりを見渡す、ホームから降りてくる乗客、 彼女はどこから現れるのだろう?

年甲斐もなく、胸が高鳴って心臓の鼓動が聞こえてくるほど緊張してくる。

(場所、ここで間違いないよな? ) 

しばらくして また人波がホームから改札に押し寄せる、まだ彼女の姿は見えない。

「ホントここでいいんだよな?」

時計を見る、15時ちょうど 周りを見渡してみるが彼女の姿は見えない、少しだけ不安になってくる。

でも好きな人を待つのは嫌いじゃない。

( 学生時代もよく待たされたっけ)

しばらくして時計を見ると15 時10分あっ携帯が震える。

「はい堤です・・・あぁその件なら天谷に指示してある、あぁわかった、それで問題ない」

(良かった、処理できそうだ・・・)

そう思った瞬間、不意に左肩を叩かれる。

(あっ、白・・・)

「堤部長、本当に来てくださったんですね、鎌倉に」

振り返ると 膝丈の真っ白なワンピースを着た 彼女が春の日差しの中で、微笑んで立っていた。

「遅くなって、すみません、待ちました?」

彼女があまりにも眩しすぎて・・・僕は彼女をすぐには直視できないでいた。

「いっいや、今、着いたところ・・・」

「そうですか、よかったぁ」

そういって彼女はこぼれるような笑顔をみせる。

私は間近で見る彼女の笑顔に、すでに心奪われていた。 

「お仕事、大丈夫なんですか?」

彼女は僕の顔を覗き込むようにして、心配そうに訊いてきた。

(ち・・・近い)

「あぁ、大丈夫 問題ない」

「堤部長の口癖、大丈夫 問題ない」

そう言って彼女がまた笑う。

(口癖?)

「そうか?」

「そうですよぉ 会社ではいつも、気づいてなかったんですか? 」

僕は少し照れくさくて、でもそんな風に話せることが嬉しくて口元が自然に緩む。

「あぁ~ 笑ったぁ、堤部長 会社じゃ怖い顔ばかりだから」

「そんなこと・・・」

(思えば、最近笑ったこと?記憶にない、会社でも、家でも) 

「じゃあ、行きましょうか 」

「あっ、う、うん」

僕たちはは ゆっくりと歩き始める。

駅を背にしてロータリーを左方向に回る、彼女が使っている駐輪場の方角だった。

僕はふたりで肩を並べて歩くことが何だかとても嬉しくて、でも少し恥ずかしくて、そんな気持ちを彼女に悟られない様にわざと遠くに視線を移す。

「堤部長」

「んっ?」

「本当は私、少し前に駅に着いてたんですよ」

「 えっ?」

「 少し離れたところで 、堤部長のこと見ていたんです 」

「・・・」

(なんでそんなこと?)僕は、そう質問するのをためらった。

「なんだか、恥ずかしいな・・・」

彼女の方から優しい 春風が吹いてくる。

(あっいい匂い・・・ヴァーベナ?)

彼女から爽やかな柑橘系の香りが春風と共に通り過ぎる。

ホワイトディのプレゼントを選んでいた時、丸ビルのロクシタンで店員さんに勧められた香りを思い出す。

(確か、恋を呼ぶハーブの香り・・・だったかな?)

「ごめんなさい」

「いっいや、問題ない」

「あっ」

僕たちは顔を見合わせ 彼女は慌てた顔の僕を見てまた微笑んだ。

(こんなに・・・笑うんだ・・・)

僕はそんな時間を愛おしむ かのように 表参道をゆっくりと歩いていく。 

彼女は僕の左側、僕は左に振り向きたい気持ちを抑えて、一点を見つめて歩く。

「堤部長は 鎌倉は初めてですか?」

不意にまた質問される。

「 えっうん、 小学生の時以来かな? 」

(また、 嘘をついてしまった・・・)

「 鎌倉って、いい街だね 」

「堤部長もそう思いますか?私も生まれ育ったこの鎌倉の街が大好き! 」

そう言って僕の方を振り返る、真っ白なワンピースの裾が春風に靡いてヴァーベナの香りがほのかに通り過ぎる。

「堤部長」

「会社じゃないんだ、 堤でいいよ・・・」

堤部長って呼ばれると、いつまでも彼女に近づくことが出来ないような気がして思い切ってそう告げる。

「はい、じゃあ堤、さんご出身は?東京ですか?」

(堤さん、そう呼ばれると少し照れくさい)

「 山形・・・県」

「山形かぁ~」

「あぁ山形の鶴岡 、山と川に囲まれた小さな街、もう何年も帰ってないなぁ 」

「鶴岡ですか、堤さんの生まれ育った街 一度行ってみたかったな 」

彼女は小さい声でつぶやいた。

(行ってみたかった?)

彼女の一言は、もう行くことが出来ないかの様に聞こえた。

「子供のころは、ガキ大将でしょ」

「そう、あの頃は 楽しかったなぁ」

「今は、今は楽しくないんですか? 」

「今か・・・ 」

彼女の質問に言葉がつまる。

「ごめんなさい、また変なこと訊いちゃって」

「そうだ、いつも美味しいお土産 ありがとうございます、オフィスじゃ面と向かってお礼も言えなくて、母といつも言ってるんですよ~なんで堤さんのお土産はこんなに美味しいものばっかりなんだろう?って」

「遺伝、なのかな? 僕の父もそうだったから・・・」

「ふ~ん そうなんですか」

彼女はそれ以上のことを訊くこともなく表参道に向かって歩き出した。

表参道に出ると、平日でもお花見客と参拝客で賑わっていた。

ホテル鎌倉の前からは 鶴岡八幡宮の朱色に聳える二の鳥居が見えてくる、僕たちはその鳥居に向かって、またゆっくりと歩き出す。

「・・・」

会話が続かず、少し左を向いてみると、微笑んだ彼女もこちらを向いて視線が合う。

僕は、すぐに前を向き鳥居に目をやる。

「フェイスブック・・・いつも、ありがとう 」

「私の方こそ、ありがとうございます、堤さん顔文字とか上手くなりましたね」

そう言って、また僕の顔を覗き込んで悪戯っぽく笑った。

「あぁ練習、したからな」

僕は真面目にそう答える。

それを聞いてまた彼女が笑った。

「私は娘に勧められてスマートフォンにしたんですよぉ、でも まだ使い方よくわからなくて、フェイスブックもスマートフォンからなんです、堤さんは?」

「僕はパソコンから出張の時も手放せないから、スマートフォンにしたいって思っているけど・・・」

「そうなんですか」

「・・・」

まだ 少しぎこちない会話、そんなふたりのやりとりが続いて、二の鳥居の前までやってくる。

「人力車 記念にいかがですか~」

体格のいい日焼けした車夫が声を掛けてきた。

「すみませ~ん写真撮ってもらっていいですか?」

(えっ? 写真って、 僕たちの?)

そう思っていると、彼女はバックからスマートフォンを取り出していた。

「はい!いいですよぉ」

そう言って車夫が僕たちに近づいてくる、見覚えのある赤いエッフェル塔のストラップの付いたスマートフォンを車夫に手渡す。

「堤さん 写真撮りましょ!」

「えっ あぁ 」 

「えっとぉ ~もう少し近くに寄ってもらえますかぁ~」

スマートフォンを片手に 車夫が身振りで指示を出す、 彼女は言われる通り僕の左に寄り添ると、私の左腕を掴んできた。

「・・・」

「じゃあ撮りますよ~ハイチーズ」

たぶん、僕の顔は緊張で引きつっていた。

「ありがとうございましたぁ」

彼女はまるで何もなかったかの様に車夫からスマートフォンを受け取ってバックに入れた。

「・・・」 

「ごめんなさい、写真、嫌でした?」

「いや、問題」僕はまた、そう言いかけてやめる。

「あっ、またぁ」

ふたりは顔を見合わせ 笑った。

春の日差しがふたりをやさしく包みこむ、そして朱色の鳥居をくぐって行く。

僕たちの周りを、春風に吹かれた花びらが舞っている。

「キレイ・・・」

彼女は小さな声でつぶやいた。

彼女の言っていた通り 段葛の桜並木は見事だった、しばらくふたりは桜に見とれていた。

肩を並べて歩くふたりは、まるで初めてデートする恋人どうしのようで、まだどこかぎこちなかった。

ふと、僕はなぜか?彼女が何か悩みを抱え、無理して振舞っているように思えてならなかった。

「大丈夫? 」

「はい、平気です・・・」

彼女は気丈にそう答えた。

舞い散る花びらが、ライスシャワーのように降り注ぐ、それはまるで、ふたりを祝福しているかのようだった。

(この段葛が永遠に続けばいいのに・・・)

僕はその時本当にそう願っていた。

三の鳥居をくぐり境内をゆっくり進む、彼女はしばらく黙ったままだった。舞殿の奥高くに緑の木々に包まれた美しい本宮が見えてくる、石畳の上をゆっくり進んで行く。

「初めて出逢った日のこと、覚えていますか?」

彼女が突然話を切り出す。   

「初めて、出逢った?」

(彼女と初めて出逢ったのは確か、1月8日? 年末からのトラブルを解消するために休日出勤してきた時だった・・・よな)

「確か、1 月8日じゃなかったかな」

僕は、自信を持ってそう言った。

「違いますよ、もっと前、去年の12月24日、クリスマス イブ」

「クリスマス イブ?」

(そんなはずは・・・)

「私、その日会社の面接に来ていたんです、その時スタ-バックスの中で」

(スターバックス?会社の?)

(1月8日じゃなかった? 12月24日?)

「堤さん ものすごく怖い顔して、パソコン見ていて、この人 クリスマス イブなのに、って」

(去年のクリスマス イブ・・・)

「堤さん、すごく悲しそうな目をしていて、なんだか、気になっちゃって」

(悲しそうな・・・)

「そして、年が明けて会社に行ってデスクの先に堤さんがいて、 驚いちゃって」

(僕が見たのが初めてじゃなかったのか・・・)

「そうだったのか」

僕はそう言って空を見上げた。

(僕たちはクリスマス イブに出逢っていたんだ)

ふたりは出逢う運命だった?彼女がどう思っていたかは知らない、でも僕はそう思いたかった。

彼女は舞殿の前で立ち止まって、突然歌を詠み始める。

『吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき・・・』

「静御前が義経への想いを歌にして、ここで舞ったんですよ 」

(静御前・・・義経)

彼女がまた僕の顔を覗き込んで微笑んだ。

「詳しいんだね」

「だって私、鎌倉生まれ 鎌倉育ちですよ~」

彼女が腕組みをして少し怒った顔で微笑んだ。

僕たちはまるで、高校生のように初々しかった、僕はただ 彼女をこうして

近くで見つめているだけで本当に幸せだった。

本宮に上がる大石段脇の大銀杏で彼女は立ち止まる、彼女の表情は見る見る悲しみに包まれていった。

彼女は大銀杏の切り株に向かって静かに手を合わせた、それを見て僕も一緒に手を合わせる。

「昨年、倒れちゃったんですよね」

彼女は悲しい声で、そうつぶやいた。

(確かニュースで)

「大銀杏、堤さんに見せたかったな~」

彼女は涙を隠すように、潤んだ瞳で真っ青な空を見上げてそう呟いた。

(彼女、泣いているのか?)

そんな姿を見てなぜそんなに悲しいのか、その時は理解出来なかった、でもそんな彼女のことも心から愛おしく想った。

真っ白なワンピースが春の光に照らされて眩しかった。 

ふたりは 大石段を一段 一段ゆっくりと登り始める、61段の階段を登りきると桜門その奥に本宮がある、ふたりは何も言わずにただ上を見て登っていく。

「堤さん 着きましたよぉ」

最上段から振り返ると、そこには美しい鎌倉の街が広がっていた。

(ここが、彼女の生まれ育った街か)

春の光に包まれた鎌倉はとても美しくて、そしてふたりをやさしく迎えてくれた。

今歩いてきた、段葛の満開の桜がピンク色の帯となって表参道に伸びている。

「堤さん、ここが私の生まれ育った街ですよ」

そう言って彼女は両手を空に向けて大きく広げた。 

「来てよかった」

僕は小さい声でつぶやいた。

「いつか、鶴岡の桜、見せてくださいね」

そこには彼女の溢れそうな笑顔があった。

それからふたりは並んで本宮に参拝する、来年の春もまた彼女とここに来ることが出来ますように、と僕は願う。

左を振り返ると彼女はまだ瞳を閉じて手を合わせていた。

(彼女はいったい、なにを願っているのだろう?)

参拝を終えて、石段を一歩一歩ゆっくりと下りていく、ふたりはしばらく黙ったままだった。

左下に大銀杏の切り株が見えてくる、彼女はそれをじっと見つめていた。

舞殿の脇を通り境内を並んで歩く、振り返ると美しい本宮がもう遠くに見えていた。

彼女は何度も振り返る、まるで、もうここに来ることがないかのように。

境内から三の鳥居を ふたりでくぐり、段葛の満開の桜の下をゆっくりと歩き出す、左隣の彼女との距離が、ふたりの距離が前より近くなっている気がしていた。

僕の左手が彼女の指先と一瞬触れ合った。

(あっ )

その時、彼女は僕の左手を強く握りしめる、僕は思わず彼女の方を振り向いた、彼女の瞳は遠くを・・・遥か遠くを見つめていた。

そして僕も彼女の手を強く握りしめる。   

握りしめた彼女の、その手のひらの温もりは痛いくらいに愛おしかった。

ふたりはゆっくりと 段葛の桜並木を歩いて行った、 桜吹雪がふたりを包み込むように舞っていた 。

「ありがとう」

今にも消えそうな声で確かに彼女は確かにそう言った。

僕は彼女を思い切り抱き締めたかった。

「ひとりじゃないから」

僕は心の中で そうつぶやいた。

手を握り結ばれたふたりの時間は、ゆっくりと流れていった、その時、もう逢えないと知っていたなら、僕はその時繋いだ手をいつまでも離さずにいただう。

二の鳥居に戻った時、ポケットに入れていた携帯が振動する、僕はそのまま歩き続けた。

「堤部長、出てください 」

彼女は俯いたまま静にそう言った。

「あぁ、うん」そう言われて僕は渋々携帯に出る。

天谷の切迫した声が聴こえてくる。

「堤部長 今どこですか?すぐにオフィスに戻れますか?」

「あぁ、わかった」

それは明らかに僕じゃないと処理できないであろう問題だった。

(こんな時に、なんで?)

「お仕事ですね、オフィス戻ってください」

彼女は笑顔でそう言った。

「でも」

「いいんです、問題ない」彼女はそう言って また笑った。

「今日は、ありがとうございました、本当に楽しかったです」

「あぁ、僕も楽しかった」

「じゃあ、行ってください」

「じゃあ、また」

僕は駅に向かって歩き出した、少し歩いて 彼女の方を振り返る。

真っ白なワンピース姿の彼女が二の鳥居の下で大きく手を振る、僕も手を振り返して彼女の姿を目に焼き付ける。

まだ50メートルも離れていないはずなのに、彼女の存在がすごく遠くに感じられる。

僕はそんな 不安な気持ちを振り払うかのように鎌倉駅に向かう、鎌倉駅の改札でまた振り返る、彼女の姿などもう見えるはずもないのに。

(ダメだ、このままじゃ・・・)

僕が表参道に引き返えそうとすると、再び携帯が振動する、天谷からのメールだった。

<部長、状況が一段と深刻になっています、急いで帰ってきてください!>

鎌倉駅前で立ち尽くす、仕方なく改札を抜けてホームに立つ、救急車のサイレンの音にアナウンスが掻き消される。

「また来週 逢える、また来よう鎌倉に・・・」

電車を待つ間 自分の左手をじっと見つめる、彼女の手の温もりがまだ残っていた。

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