第5話 青い自転車

電車は大船駅に近づいていた。

「確か、地図上では大船駅って鎌倉市?だったよな」

彼女がどの駅で降りるのかも判らず電車がホームに近づく都度緊張感が走った、電車は彼女を乗せたまま大船駅を出る。

「はぁ~大船じゃなかった・・・次は北鎌倉か」

極度の緊張感で僕は彼女のいる方向をジッと見つめていた。

北鎌倉の駅で数名の乗客が降りて行ったが、彼女は相変わらずスマートフォンを覗き込んでいた。

短いトンネルを抜けて鎌倉駅到着のアナウンスが流れる。

アナウンスを聞いた彼女は徐に、スマートフォンをバックの中に仕舞う。

「やっぱり・・・鎌倉駅で降りるのか? 」

緊張感と・・・彼女に見つからないようにしないと、その思いが交錯して車窓の一点を見つめていた。

ほどなくして、電車は鎌倉駅ホームに滑り込む、ドアが開き乗客が大勢降りて行く、彼女も最後に降りてホームに出たのを見計らって、僕も隣のドアから急いで電車を降りる。

「えっ、あっ まずい」

ホームに降りると右側から彼女が僕に向かって近づいてくる、僕は出口の階段に近い方に降りてしまったらしい。

彼女に背を向けて少し歩いてから、自動販売機の脇に立ち止まって彼女をやり過ごす。

「はぁ~危なかった」

もう少しで、彼女と鉢合わせするところだった、でもやり過ごしたはずの彼女の姿をまた見失ってしまう。

当たり前だが、今まで尾行などしたことがない・・・尾行などは探偵か刑事か、テレビドラマの世界だけだと・・・でも今、僕はその尾行をしている、それもストーカー紛いのことを。

そんな罪悪感を打ち消すほど、僕は彼女の行動に全神経を集中させていた。

「まずい、どこ?どこにいった?」

人波は改札に向かって流れ消えて行った。

「あっ水色のシュシュ・・・」

改札を抜ける寸前の彼女を見つける、僕も急いで改札を抜ける。

彼女は立ち止まって夜空を見上げていた、彼女の後ろで僕も一緒に空を見上げる。

「雨、上がったんだ・・・」

雨上がりの澄んだ鎌倉の夜空には、無数の星が瞬いていた、彼女は左の方へゆっくり歩き出す。

「あれ?バスの方じゃないのか?」

バス停の脇を通り過ぎて、細い路地へと入って行く、4、5人が同じ方向を歩いている。

「どこに行くんだ?」

そう思った時、目の前に建物が見えてくる。

「駐輪場? 自転車・・・か」

彼女は慣れた様子で駐輪場へ入って行く、僕は少し離れた場所で彼女が出て来るのを待っていた。

「やっぱり自転車か・・・」

駐輪場から自転車に乗った人が次々に私の前を走り去っていく。

「あっ」

思わず声を上げる。

赤いフレームの自転車に乗った彼女が、駐輪場を出てゆっくりと鎌倉駅の方へ戻っていくのが見えた。

自転車はロータリーを四分の一周して、商店街の前を通り過ぎ鎌倉駅入り口交差点で停まった。

僕は小走りで彼女の自転車を追いかける。

「自転車か・・・走るしか」

交差点の信号が青に変わり彼女の乗った赤いフレームの自転車は右折して、どんどんスピードを上げていく。

僕は彼女の自転車を追って走る、全力で、自分でも想像しなかった行動に自分自身が一番驚いていた。

「ダメだ・・・追いつかない・・・」

全力疾走しても彼女は遠ざかっていく、それでも夢中で追いかけていた、それでも10メートル、20メートル、50メートルと引き離されていく。

「痛っ」

すぐに左膝が悲鳴を上げる、息があがって呼吸も苦しくなっていく。

「ハァハァ、ハァ」

自分の呼吸の音だけが聴こえてくる、しばらくして、右大腿筋が痙攣する。

「ダメだ、もうこれ以上、限界だ・・・」

どのくらい走っただろうか?彼女は完全に視界から消えていた、走るのをやめ 歩き出す。

通行人の冷たい視線を感じる、立ち止まって深呼吸を繰り返す。

「ふぅ~ふぅ、はぁ、ハァ」

苦しい、 走ったのは200メートルほどだろうか? 

「情けない、この程度の全力疾走で、こんなバテバテで、学生のころはこんなこと・・・」

そう思ってもこれが46歳の男の現実で限界だった。

「いたっ・・・」

大腿筋を痛めたらしく、まともに歩けない。

彼女が走り去った道をゆっくりと辿ってみる 横須賀線高架橋下をくぐり 下馬(げば?しもうま?)交差点へと差しかかる。

「自転車か、考えもしなかったな」

その交差点を右折してみる。

「こっちの方かな?」

しばらく歩くと江ノ電の踏切が見えてくる、そこからは緩やかではあるが長い上り坂が続いていた。

「もう、無理だ、帰ろう・・・」

踏み切り手前で立ち止まり今来た道を戻る、左膝も痛む 、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。 

その時 反対車線に一軒の小さな自転車店の灯りが見えてくる。

「田村自転車店・・・」

僕は何を思ったかその店の前で立ち止まる。 

「自転車か・・・」

(まさか?冗談だろ?買うつもりじゃ・・・)

店にはまだ明かりが灯っていて、店の奥には人影が見えた。

「こんばんは・・・」

「はい、いらっしゃい 」

70歳ほどの白髪の店主らしき男性が奥から出て来るのが見えた。

「自転車、お探しですか?」

(もちろん、ここには自転車しか置いてない) 

「はい・・・中古でいいんですが」

思い切って店主にそう訊いてみる。

「中古かぁ~先週まであったんだけどね、残念、売れちゃったな~」

「それじゃあ、一番安いの、で 」

店主はニコリと微笑むと店の奥から青いフレームの自転車を出してきた。

「これかな~一番安いの・・・」

「ブリヂストンって・・・」

(そんなに 高いやつじゃなくてもいいのに)

「ぉおいくらですか?」

「う~んと、ちょっと待って、37,500円かな」

(3万・・・どうしよう)

考え込む僕の姿を見て気の毒に思ったのか?

「そうだな~登録料込み 35,000円でいいよ!」

と店主は言った。

「じゃあそれで・・・お願いします」

「ありがとう ございます」

「・・・」

「じゃあこれに 住所と名前書いて 防犯登録必要だからね 」

そう言って店主は僕に考える直す間を与えず、自転車のペダルを組み立て始めた。

(住所と名前か・・・)

「お客さん 近くに住んでるの?」

自転車を組み立てながら店主が訊いてくる。

「あっ、いえ 近々引っ越してくる予定で」と嘘をつく。

一瞬偽名をと思ったが、全力疾走のダメージが抜けてなくて偽名が全く浮かんでこない、仕方なく本名を書く。

<東京都 練馬区、堤真一>書いていた手が一瞬止まる。

( 俺、なに やってんだろう?本当に、どうかしているよ・・・)

書き終えて、店主が自転車を組み立てているのをぼんやり眺める。

「はい 出来ましたよぉ」

「あっ、はい」

財布から40,000円を渡し5,000円のおつりをもらう。

「じゃあこれ、保証書ね ありがとうございました、お気をつけて、調子悪かったらいつで寄ってくだい」

「あっ、はい、ありがとうございます」

店を出て駅まで今来た道を自転車で駆け抜ける、高いだけあって僕がいつも乗っているボロ自転車より何倍も乗り心地がいい。 

「あっ これっ3段変速 じゃないか・・・」

夜になって、冷たい風が頬を刺す。

時計はもう21時を回っていた、あっという間に 鎌倉駅が見えてくる。

「どうしよう?この自転車・・・ 」

いまさら 自転車の置き場所に困ってしまう。

閑散としたロータリーを一周してみるとスタバ前に駐輪場を見つける。

「よし、とりあえずここに置いて帰ろう・・・」

自転車を置き 鍵をかける、痛む脚を庇いながら駅へと歩く、震災の影響で湘南新宿ラインは運休していた。

「東京行きか」

ホームで電車を待つ人は私の他に数名しかいなかった、程なくして東京駅止まりの電車が入ってくる。

「はぁ~疲れた・・・」

思わずため息が漏れる。

ガランとした車内、疲れきった身体をシートにもたれ掛かる。

「はぁ~疲れた 」

遠ざかっていく鎌倉の街にまた雨粒が落ちてくる。

「桜、散らなきゃいいけど、自転車・・・ホント買っちゃったんだ・・・どうしよう」

「でも次は・・・大丈夫・・・ちゃんとついて行ける」

次?諦めていない自分自身にまた驚く。

「ホントこれじゃ・・・ストーカーだよ」

「じゃあ 何で自転車なんて、買ったんだ?」

( いたっ 膝、痛い、まずいな・・・)

頭の中の整理がつかないまま電車は終点 東京駅に到着する、丸の内線に乗り換えて、家に着いたのは午前0時を過ぎていた、シャワーを浴びて膝と太ももにシップを貼る。

「あの程度の全力疾走で、まだいけるって思っていたけど歳・・・だよな 」

パソコンを開いて見ると彼女から書き込みがあった。

<堤部長☆今どちらですか?何していますか? 信州の「野沢菜」とても美味しく頂きました、残りのご飯 お茶漬けにして食べました(゜д゜)メチャウマ やっぱり本場の野沢菜は違いますね~θωθ)おやすみなさい~☆ >  写真には旨そうな野沢菜茶漬けの写真が添えてあった。

「そういえば、腹減ったな」

<旨そうな 野沢菜茶漬けですね、写真見ていたらお茶漬け食べたくなってこれからお湯沸かします。 では また明日~(=^‥^)ノ☆ >

キッチンに降りていって、冷蔵庫にあった残り物のご飯にお茶漬けの元をかけてお湯を注ぐ。

僕は、見えない鎖でつながれていた平凡な日々が、彼女との出会いを境にして少しずつ輝きを取り戻しているように感じていた。

同時にさっきまで鎌倉にいたことなど告げることは出来ず、また鎌倉に行ってしまったことを・・・彼女を追いかけてしまったことを後悔していた。

「なんであんなこと、してしまったんだろう?」

自分の行動が全く理解出来ずにいた、今まで押さえ込んでいた、ストッパーが外れれてしまったかの様に自分の心がコントロール出来ないでいた。

もう終わりにした方がいい・・・頭でわかっていても心が言うことをきかない。

お茶づけをかっ込んでベッドにもぐりこむ。

そして翌朝、全身の痛みで飛び起きる。

「いったぁ、なに?これ筋肉痛か? あれだけの全力疾走で?」

改めて日頃の運動不足を痛感する、この痛みが昨晩のことが現実だったのだと思い知る。

シャワーを浴びてスーツに着替える、膝がまだ痛む家の鍵をかけようとスーツのポケットに手を入れる。

「ん?何だこれ?」

見知らぬ鍵が指に絡みつく。

(自転車か)昨晩の出来事がフラッシュバックして また自分を責める。

それを振り払うかのように自転車に跨って駅へ急ぐ、もちろん いつも乗っているボロい自分の自転車、3段変速など付いていない。

駅までは下り坂 春風が心地いい、深呼吸をすると春の匂いがする、駅まで続く桜並木も5分咲きほどで、満開が近かった。

いつものようにデスクでパソコンを開くと彼女からの返信があった時間は、今日の深夜1時23分。

「こんな遅くまで、起きてたんだな・・・」

<春らしくなってきましたねヽ(*^^*)ノ 鎌倉の桜はもう少しで満開です♪..堤部長の方はどうですか?>

<今朝は自転車で桜並木を走って来ました、こちらももう少しで満開です♪>

「おはようございます~」

返信を書き込むと同時に突然声が聴こえる、彼女がデスク脇に立っている。

「堤部長はいつも早いんですね~これ、鎌倉のお土産です よかったら食べてください 」

そういって彼女は黄色の手提げ袋を僕に手渡す。

「私、ここのサブレ 子供のころから大好きなんです! 」

彼女はそう言うといつもの様に 零れそうな笑顔でそう言った。

「ありがとう・・・」

僕は緊張と恥ずかしさで、顔が赤くなっていないか?心配だった。

それだけ彼女の笑顔は眩しかった、手提げ袋には「鎌倉 豊島屋」と書かれていた。

「鳩サブレか」

彼女は自分のデスクに戻るといつもの様に淡々と仕事を始めていた。

僕はコーヒーを一口飲み彼女の方に目を向ける、彼女の姿を見ながら、ふたりの静かでゆっくりとした時間が過ぎていく、彼女のキーボードを叩く音だけが微かに聴こえてくる。

程なくしてオフィスの中が騒がしくなってきて、幸せな時間は一瞬で終わりを告げた、今日はミーティングが3つも入っていた。

13時過ぎ、デスクに一旦戻る、15分後また別なミーティングが始まろうとしていた。

「今日はお昼抜きだな」

そう思った時、彼女から今朝もらった黄色い手提げ袋が目が止まる。

(あっ鳩サブレ)箱から1枚取り出して食べてみる、サクッサクッとした食感と優しいバターの風味に癒される。

「旨い、もう1枚食べとこ・・・ 鳩サブレって鎌倉か」

残っていたコーヒーを飲み干し彼女の方に視線を向ける、彼女もこちらを見て微笑んでいた。

「見られた?食べてるとこ・・・」

パソコンを持ってミーティングルームへ急ぐ、16時過ぎやっと開放され、デスクに戻ると受信BOXには30件以上未読メールが溜まっていた。 

メールの返信や電話対応をしているとあっという間に18時近くになっていた、彼女も淡々と仕事をしている、昼抜きでさすがにお腹が空いてきた。

スタバに行きテイクアウトする。

「ブルーベリークリームスコーンとチャイ ラテ グランデ、ホットで」

「堤さん残業ですか? お疲れ様です」

「いや、今日はお昼抜きだったから」

そう告げてデスクへと戻る。

エレベーターを降りると彼女がひとり立っていた。

「あっ、堤部長 お疲れ様でしたぁ 」

そう言って 彼女は笑顔でエレベーターに乗って降りて行った。

デスクに戻ってとりあえず買ってきたスコーンを口に入れチャイティラテで流し込む、スコーンが喉に詰まる。

僕はパソコンをシャットダウンしバックに入れる、そしてエレベーターを待つ、こういう時に限ってエレベーターはすぐに来なかった。  

急いでスカイウェイを抜けて自由通路を足早に駅へと急ぐ、彼女の姿はもうどこにもない、改札まで来たが彼女を見つけることが出来ない。

「もう電車に乗ったのか・・・なにやってんだ?戻ろう」

そう呟いてオフィスへ引き返す。

「あっ」スタバの前を通ると彼女が店の中から出るのが見えた。

彼女はまだ僕に気づいていない、彼女はスマートフォンを見ながら駅へとゆっくり歩き出した。

僕はまた懲りもせず、彼女の後を追う、今来たスカイウェイをまた抜けて自由通路から改札を通り15番線ホームに降りていく。

ホームに立っていると少し風が出てきた、横須賀線 久里浜行きの電車が入ってくる。 

彼女は前と同じポジションで、車窓から街をぼんやりと眺めてる。

車窓から見える風景にも少し慣れてきた、横浜駅に近づくと窓に雨粒が当たってきた。

「また雨か?」

春先の天候は変わりやすい、大船駅に着いた時は雨は本降りになっていた、電車の窓に雨粒があたる。

僕たちを含め 傘を持っている乗客はほとんどいなかった、鎌倉駅に着くと乗客は足早に改札へと流れていく、そんな中彼女はマイペースにゆっくりと改札へ向かって歩き出す、その後を僕もゆっくりとついていく。

駅を出た彼女はこの前の様に、また空を見上げていた、雨は少し小降りになっていた。

彼女は駐輪場の方へ歩き出す、私はスタバの前の駐輪場においた自転車を探しに走る。

ポケットから鍵を出し 自転車を見つけロックを外す、自転車に跨り急いで駅へと戻る。

すると 雨脚がまた強くなってきた。

駅へ戻るとタクシー乗り場に並んでいる彼女の姿を見つける。

「えっ自転車じゃ・・・まさか、タクシーで 」

次々とタクシーは乗客を乗せ走り去っていく、すぐに彼女の順番がくる、そして躊躇なくタクシーに乗り込んだ。

タクシーはロータリーを半周して赤信号で停まった、そのタクシーを買ったばかりの青い自転車が追っていく。

すぐに信号は青に変わり右折するとスピードを上げていく、すぐにまた引き離されてしまう 自転車、真っ黒な車体はそんどん視界から遠ざかって行く、諦めずに必死でペダルを漕ぐ・・・雨で眼鏡が濡れて視界が曇る、しばらく走ったタクシーが赤信号で停止する。

「よし、そのまま停まってろ・・・」

自転車のスピードを上げ真っ黒な車体に近づいていく。

「あと少し、あと少しだ」

僕は何かに憑りつかれた様に必死にペダルを漕いでいた。

信号が青に変り彼女の乗ったタクシーと引き離される、自転車は水しぶきを上げて追って行く。

( あ~ もう、ダメだ)

ペダルを漕ぐ音が雨に消されていく、タクシーは横須賀線の高架橋を抜けて

視界から完全に消えていった。

冷たい雨が容赦なく降り続いていた、程なくして追うのを諦めてペダルを漕ぐのを止める。

「戻ろう・・・ 」

全身びしょ濡れでスーツの色が黒く変わっていた。

「ハァ、ハァ、ハァ」

呼吸を整えようとするがなかなか収まらない。

春雨に濡れた鎌倉の街を自転車は駅へと戻って行く、頬を伝う冷たい 雨粒、眼鏡を外しハンカチで目を拭って、ゆっくり ゆっくりとペダルを漕ぎ始める、脚が鉛のように重い。

「また、ホント・・・なにやってんだろ?俺は 」

またしても自分でも理解不能な行動に呆れる、自転車を元の場所に戻して駅に向かう。

「なぜ?なぜこんなことをしてるんだ? 」

自分自身見つかるはずのない理由を探す。

冷たい雨に打たれなら鎌倉の 雨空を見上げる。

「明日、晴れるかな?」

(明日も鎌倉に?)もう僕は引き返せないところまで来ていた。

「もう一度 、もう一度だけ・・・」

びしょ濡れのスーツ姿の僕を見て、乗客が怪訝な顔をする、その後家までどうやって帰ったのか?覚えていない。

家に着き、濡れたスーツを脱ぎ捨てて暑いシャワーを浴びて、すぐベッドに横たわる、明日も朝からミーティングが待っていた。

「早く、寝なきゃ」

眠りつこうとするが、寒い・・・寒気がしてなかなか眠れない。

翌朝、身体がだるくて起きることができない、体温計で熱を計ると37.8℃の表示。

「会社・・・行かないと」

とりあえず起きてトマトジュースを一杯飲んでから熱いシャワーを浴びる。

「なに?まだ 居たの?」

妻が私を見て冷たく言い放つ。

「あぁ・・・今行くよ」

毎朝家族が起きてくる前に家を出ているので、珍しく妻と顔を合わす。

家から会社にメールを送る。

「体調不良で、病院に寄ってから出社します 申し訳ありませんが午前のミーティングは午後に変更してください。」

食欲もなく水を一杯飲んで駅前のクリニックへ向かった 悪寒がとまらない。

「まさか、インフルエンザ ?」

また寒気が襲ってくる、待合室での時間が長く感じられる。

「堤さん 診察室へどうぞ~」

やっと名前が呼ばれる。

「 堤さん、そうされました?」

「今朝起きたら身体だるくて、 熱も少し」

「念のためインフルエンザの検査もしておきますか」

結果は、幸いにもネガティブだった。

「風邪ですね・・・ 」

「最近 疲れ溜まっていたでしょ~ 」と主治医が続ける。

「抗生剤も出しますから飲みきってくださいね 」

薬局で薬をもらいその場で全種類を飲む。

(よし、行ける)気合で自分にそう言い聞かせる。

絶対出席しなければならないミーティングではなかった、ただ 彼女に早く逢いたかった。

空は、昨晩の雨が嘘のように晴れ上がっていた、春の優しい日差しが濡れた桜の花びらに照り付けて眩しかった。

12時少し前 品川駅に着くecuteで豆狸のお稲荷さんと、お茶を買ってデスクへ向かう。

「部長、大丈夫ですか?顔色悪いですよ、今日は休んだほうが・・・」

天谷が心配そうな顔をして訊いてくる。

「あぁ、大丈夫だ 問題ない!午後はスケジュール通り進めてくれ」

本当は 全身の関節が痛くてしかたない、きっと熱も出てきている。

買ってきたお稲荷さんをお茶で無理やり流し込む。

「今日はスタバに行けないな・・・」

皆、お昼に出ているのかオフィスの中は閑散としていた、彼女の姿も見えない。  

しばらくデスクに座って目を閉じる。

「部長、堤部長、ミーティングのお時間ですよ 顔が熱っぽいですよ、やはり帰った方が ・・・」

また 天谷が心配して声をかけてくる。

「大丈夫だ・・・ 」

ミーティングルームへ向かう、その後のミーティングの記憶は途切れ 途切れしかなかった。  

16時過ぎにデスクに戻ると、冷えたポカリスエットが1本置いてあった手にとって周りを見渡す。

「ん?だれ?、これ・・・」

「えっ?」

彼女がこちらを見て微笑んでいる。

「彼女か?」

僕はボトルを持ち上げ彼女に伝わるように「サンキュ 」と口を大きく開け、小声でつぶやく。

すると彼女はまるでCAが機内でするように、右腕を大きく上げ親指を立てるOKサインで応えてくれた。

僕が熱を押して出社して来たのを誰かに聴いたのだろうか?

彼女は、その原因が昨夜の鎌倉の雨にあることを知る由もなかった。

しばらくデスクから彼女を眺めていた、ただ近くで見ているだけで幸せな気持ちになる、しかし彼女にストーカーまがいの行為をしていることについてただただ申し訳なく思っていた。

でも僕はもう1度だけ彼女を追って、これで最後にしようと心に決めていた。

「今夜もしたどり着けなかったら、その時は潔く諦めよう」

(たどりつく?何に?彼女の自宅に?)

その行動には明確な理由や、目的などなくて・・・

17時30分 僕は帰り支度をしてスタバに入る。 

「チャイラテ、ホット、ショートで」

「堤さん、顔色悪いですよ~調子悪そうだし・・・」

「あぁ風邪引いちゃったみたいで」

「働きすぎですよぉ 少し休んだ方がいいですよ」

「だよな、ありがとう」

そう言って外を見やすい窓側の席に座る。

「ふぅ~」

薬が効いたのか、関節痛はだいぶ収まってきていた、熱も下がっているだろう、たぶん。

チャイティ‐ラテを飲み終えエントランスで彼女が降りてくるのを待つ。

「今夜で最後・・・だ」

(今夜、今夜で何かを断ち切らねばならない)僕の残りの自制心はそう警告していた。

40分ほどして彼女の姿が見えた、ベージュのスプリングコートにブーツ、この前と同じ髪には水色のシュシュが結んである、その姿を頭に焼き付ける。

彼女はエレベーターホールからこちらへゆっくりと近づいてくる。

僕はエントランスの柱の陰に隠れて彼女をやり過ごす、そして品川駅へと向かう彼女をまた追う。

彼女はいつものようにゆっくりと自由通路から改札の方へ歩いていく、 僕は彼女との距離感を保ちながら 見失わないようについていく。

僕の中に潜む別の人格が必死になってその暴挙を止めようとしていたがもはやそれも叶わない。

「今夜が、これで最後だから・・・」

彼女はゆっくりと15番線ホームへ降りていく、少し風が出てきて肌寒い、ホームから空を見上げる。

「今夜の雨は大丈夫そうだ 」

久里浜行きの電車がホームに入り彼女と同じ車両の隣のドアから乗る、全身がだるくて 思わずつり革を両手で掴む。

左側に目をやる 車窓から遠くを見つめている彼女が目に入ってくる。

見慣れた風景が車窓から流れる、僕は最初から彼女と向き合う覚悟がなかった、ゴールを探すのを怖がっていた、僕は彼女に恋する資格があるのだろうか?お世辞にも器用じゃない僕は 見えるはずもないゴールに向かって迷走しているようだった。

「この風景を見るのも今夜で 最後だ 」

そう自分自身に言い聞かせるように呟く。

彼女はドアの脇に立っていつものようにスマートフォンを見ていた。

エッフェル塔のストラップがまた揺れている、頭の中がボォ~っとして彼女が霞んで見える。

横浜駅を過ぎるとスマートフォンをバックに入れてまた遠くを見つめる彼女の横顔はなぜかいつも悲しそうでとても寂しそうだった。

「この前もこんな悲しい顔 してたっけ」

自分の歪んで醜い顔が車窓に映し出される。

「ふぅ~」

大きく息を吐く 電車は鎌倉駅のホームへと滑り込む。

人波は改札へ流れていく、彼女はいつものように、最後尾をゆっくりと歩き出す。

僕も気力を失わないようにその後についていく。

改札を抜けて左折する(今夜は 駐輪場か)僕は右折してスタバ前の駐輪場へ急ぐ、まだ2回しか乗っていない新品の自転車に跨り駅のロータリーへ向かう。

緊張からかハンドルを握る手に力が入る、心臓の鼓動が早くなっていくのがわかる、不思議と身体のだるさは取れて意識もはっきりしている。

ロータリーで彼女を待っていると駐輪場の方から数台の自転車が出て来るのが見える、彼女の姿はまだ見えない。

「あれ?そんな・・・ここに来て、見失ってしまったのか?」

辺りを見渡すが彼女らしき人は見えない。

また数台の自転車が走ってくる。

(あっ... )最後尾に赤いフレームの自転車に乗った彼女の姿が目に飛び込んでくる。

彼女からの視線を避けるように、自転車を端に寄せて待つ、彼女はロータリーを抜けて駅入口交差点で停止する。

信号が青に変ると自転車はゆっくりと走り出す、レストラン、ミスタードーナッツなどが建ち並ぶ商店街を自転車は軽快に駆け抜けていく。

(最初はこの辺りで、ギブアップだったよな・・・)

しばらく行くと横須賀線の高架橋が見えてくる、( 昨夜はタクシーをこの辺りで見失ったんだ )今まで挫折した記憶が鮮明に蘇ってくる。

彼女の自転車は高架橋をくぐり交差点を右に曲がっていく、この自転車を買った田村自転車店の脇を通り緩やかな上り坂を進む、江ノ電の踏切が見えてきた。

ここから先は初めての道、踏み切りを超え 彼女は慣れた様子で坂道を上がっていく道行く車も人も少なくて、周りはいつの間にか僕と彼女だけになっていた。

静けさの中で、ふたりの自転車が一定の距離を保ちながら緩やかな坂道を登っていく。

六地蔵を過ぎて、左手に由比ヶ浜郵便局が見えてくる。

(由比ヶ浜?海が近いのか?)

どこまで行くのだろう?しばらくすると自転車はスピードを落としていく、文学館入口交差点を左折し細い路地に入って行く。

10mほど路地を入ったところで彼女は自転車を降りる、僕も自転車を停めて、彼女を少し離れたところから見守る。

大型犬だろうか?犬が彼女に甘えるように吠えているのが聴こえてくる。

門を開け自転車を入れる彼女の影が遠くで見える。  

彼女が玄関に入ったのを見計らって自転車をゆっくり近づけていく、心臓の鼓動が早まる。

「ここか彼女の・・・やっとたどり着いた」

白壁の大きくて 立派な家、よく手入れのされた生垣が家の周りを囲っていた。

その家の中からは、暖かい明かりが外に洩れている。

間違いなく、今 彼女はここにいる、生垣の奥にいた秋田犬がこちらに走って来てしっぽを振っている。

「お前、番犬なんだから、吼えなきゃダメじゃないか、彼女のこと守っているんだろ」

僕はその犬に語りかけてその場を後にした。

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