第一話「階段から落ちたら異世界だった」
1.階段と地面の間に
「ウゲェェェ……頭いてぇ……」
二日酔いで重い頭を振りながら、なんとか万年床から起き上がる。
若い頃はいくら深酒しようと全然平気だったんだが……アラフィフともなると無理がきかないもんなんだな、と今更ながら思い知る。
やだやだ、歳は取りたくないもんだね。
日課である朝の軽いトレーニングも、このコンディションじゃ無理だろう。
少し急がないと仕事に遅刻するし。
バイトとはいえ仕事は仕事。俺の歳じゃまともに雇ってくれる所の方が少ないんだ。真面目に勤めないとな!
――丁度ひと月前、俺は失職の憂き目にあった。
長年バーテンダーというか雑用係というか用心棒というか……まあ、そんな仕事をやっていた歓楽街のバーが潰れてしまったのだ。
頭にヤの付く職業だったオーナーが何やら警察に捕まってしまって、経営を続けられなくなっちまったんだ。参ったね。
世の中じゃ有効求人倍率が上向きだとかそんな明るいニュースが流れてくるが、俺のような素性の怪しいオッサンにまともな仕事が回ってくるほど景気が良い訳じゃない。
運よく倉庫整理のバイトにありつけたが……若い連中に混じって肉体労働というのは、中々精神的にきついものがある。
早いところ、居心地のいい職場を見付けておきたいもんだね。
「っと、遅刻遅刻……」
時計を見るといつの間にやらギリギリの時刻だった。
おぼつかない足取りのまま手早く着替え、髭剃り、寝癖直し、歯磨きを済ませ玄関を出る。
さらばオンボロアパートの我が部屋よ。夜までしばしの別れだ……。
「……まぶしい」
部屋の中が薄暗かったからか、それとも二日酔いの影響か。今日の太陽はやけに眩しく感じられた。
目がチカチカして仕方ない。足元もまだフラフラしているので、気を付けて歩かないとな……。
何せ築ン十年のオンボロアパートだ。通路はそこら中痛んでいるし、鉄階段も上り下りする度に何とも味わいのある音を奏でてくれる。
いつか通路や階段を踏み抜くんじゃないかって心配で仕方がない。こんなことなら二階じゃなくて一階にすれば良かったな――等と、まさしくその階段を下りながら考えていた、その時だった。
「――あっ」
ズルリと、足が滑った。
それはもう何かのお手本みたいに、見事に階段を踏み外してしまっていた。
普段の俺ならば、素早くバランスを取ったり手すりにしがみついたりして難を逃れていたはずだが、あいにくと二日酔いで体も頭もフラフラ状態。視界も太陽の眩しさにやられてチカチカしている。
手すりに伸ばした手は空を切り、体はそのままバランスを失い――視界が回転した。
「ガッ!? ゴッ!? ギッ!?」
三度、階段に体を打ち付け、そのたびにみっともない呻き声をあげながら転げ落ちた。
これが映画の撮影だったら、「カット! みっともない! やり直しだ!」と監督の叱責が飛んでるんじゃなかろうか?
色んな意味で泣けてくる。
「……イテテテ」
階段の途中から落ちたのが幸いしたのか、まともに受け身も取れなかった割に、大きな怪我はしなかったようだ。
それでも全身が痛い。頭もちょっと打ったようで、眩しさとは別の意味で視界がチカチカしている。骨折とかしてないだけ、運が良かったと思うべきなのだろうが……一日の始めからこれでは、何とも幸先が悪い。
それに、まだ老人でもないのに自宅アパートの階段を転げ落ちるなんて、隣近所の人に見られていたら恥ずかしいな、等と周囲を見回して――その時、ようやく異常に気付いた。
「……ここ、どこだ?」
独り言が多いのは勘弁してほしい。歳を取ると人間こうなるのだ。
まあ、それは置いとくとして……。
――周囲には、見知らぬ光景が広がっていた。
アパートの周りに広がる住宅街、その景色が一変していたのだ。
どの家々も、近代日本の一般的な住宅ではなく、ヨーロッパの古い町並みで見かけるような石とレンガで造られたそれに変わってしまっていた。
もしやと思いアパートの方へ振り返ると、そこにはやはり石造りの立派な建物が鎮座していた。
どこからどう見ても築ン十年のオンボロアパートには見えない。
俺が今落ちてきたはずの鉄階段も、年季の入った石の階段になっちまっている。
「昨夜の酒でも残ってんのかな……」
ボリボリと頭を掻きつつアパートだったはずの建物の壁に触れてみる。ヒンヤリと冷たい。正真正銘、石壁の感触だ。
酔っ払っていようが寝ぼけていようが、この感覚は本物だろう。どうやら俺の目がおかしくなっている訳ではないらしい。
では、一体何がどうなっているというのだろうか?
とりあえず、そこら辺にいる人をつかまえて話を聞いてみたいところだが――。
「ヘイ! お困りみたいだねそこのオジサン!!」
「――ん?」
その時、不意に何者かに声を掛けられた。若い……というよりは幼い子供の声にも聞こえる。
だが、周囲をきょろきょろと見回しても人影は全くない。
もしや幻聴か何かだろうか? 俺は本格的におかしくなってしまったのだろうか? 等と不安に思っていると――。
「こっちこっち、こっちだよ!」
また声がした。今度は出所がはっきり分かったので急いでそちらに向き直るが……やはりそこには誰もいない。
精々、季節外れのアゲハチョウがひらひらと飛んでいるくらいのものだ。
――いやまて。このアゲハチョウ、やけに大きくないか?
俺の顔くらいの大きさがあるし、しかも何やら体がぼやけて見えるような……?
「あ、ようやく気付いてくれた! ……って、ごめんごめん。この状態じゃオイラの姿が見えないよね。ちょっと待ってて」
今度こそはっきりと、アゲハチョウがしゃべった。そして――。
「ん~ッホイ!! っと、これでどう?」
何やらアゲハチョウが気合いの声を上げると、先程までぼやけて見えていた体の部分に可愛らしい人型の姿が現れた。
背中からアゲハチョウの羽を生やし、体には薄絹のようなゆったりとした服を纏い、昼間だというのにその周囲は淡い光に包まれているように見える。
それは、昔絵本で見た「妖精」そのものの姿だった――。
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