第33話 堕ちた最強の男

 渋滞で身動きが取れなくなった車と、オーロラを眺める人々を横目に、僕は自転車をこいだ。

 首都高速の下に入り、オーロラの光がさえぎられるとかなり暗くなったが、目を凝らして僕は進んだ。

 もう冬が始まったというのに、すぐに体は上気し、しばらくすると汗が噴き出してきた。

 交通事故が起こって、車が道をふさいでいる場所が何ヶ所かあった。自転車で正解だったようだ。

 自転車に乗りなれてない僕は、すぐに息は上がり、足が張ってきた。

 止まって休みたいという気持ちが、首をもたげてきた。

 ルフォンさんの顔を思い出した。僕を待っている。自転車をこいだ。

 また休みたくなってきた。

 此原の顔を思い出した。そう思いたくないが、もう此原は駄目かもしれない。でも此原だったら、休まず進むだろう。自転車をこいだ。

 信号は消えているし、オーロラを眺める野次馬達は邪魔だし、ただ自転車をこぐ以上に疲れる。だが、裏道に入ってしまったら確実に迷う。先程通った道を通るのが無難だ。

 井の頭公園で発見された手足は、生きたまま切り取られていた。松崎邸に行き、そのまま捕まり、悪魔の生贄にされる。そんな恐ろしい想像が頭に浮かんできた。自転車をこぐ速度が落ちた。

 レリの顔を思い出した。レリが松崎の家にいるという証拠はない。だが、嫌な予感はする。父や母の人生を無茶苦茶にしてしまったことに気付いた僕を慰めてくれたのに、僕に好意を寄せてくれたのに、彼女を疑ってしまった。あの時、レリを疑ったりしなければ、レリをあのまま抱いていたら、レリを危険にさらすことは無かったのではないか。こんな状況で後悔ばかり浮かんできた。

 ここで止まったら、さらに後悔する。僕は自転車をこいだ。

 ちらりと車のナビで示されただけだったが、一度も迷わず松崎亨士郎の家に着いた。高く堅牢な塀に囲まれた松崎邸は、もはや要塞のようなたたずまいだった。まわりの家はどこも停電しているのに、松崎邸には薄っすらと電気が付いていた。自家発電も備えていたようだ。

 大きな門が開いていた。自家発電でセキュリティは復活させていないのか。誘い込まれているのか。とにかく入ってみるしかない。正面の門から邸内に入った。

 入ってみると、番犬のドーベルマンが倒れていた。死んでいるのか、気絶しているのかはわからなかった。起きたら怖いので近付かずに玄関に向かった。

 門から玄関まで石畳の道が伸びており、結構な距離があった。道の脇の彫像にカラスがとまっており、僕が通ると、「オマエハノロワレテイル」と一声発し、オーロラ輝く空へ飛んでいった。

 屋敷の扉は分厚い頑丈な作りになっていた。弾丸も弾き返しそうだ。音も通しそうにない。大きな扉を引くと、音もなく開いた。入って少し進むと広間になっていた。悪魔や怪物の像は見当たらない。薄暗い電灯の下、高級そうな調度品が備えられていた。

 広間は静まりかえっていた。しかし、広間にいくつかあるドアの向こうから人の気配がする。一人や二人ではなく、たくさんの人の気配がする。心臓が締め付けられるような恐怖を感じた。

 ドアの一枚が開いた。中から素っ裸の男が出てきた。肌は青白く、目は血走っている。明らかに正気ではない。

 男は変な叫び声を上げて、僕に向かってきた。そこにあった高級そうな壺をつかみ、男に向かって投げつけた。壺は男の顔面に命中し、男は仰向けに倒れた。

 いくつかあるドアが一斉に開いた。中からは生暖かい異様な臭気が噴出してきた。その後に全裸の男や女が出てきた。全員目は血走って焦点が定まっていない。口からはよだれをたらし、股間が怒張している男もいる。女の中には、股から血と精液を垂らしている者もいた。儀式の真っ最中だったようだ。全員悪魔の刺青が入っていた。

 こいつらは、前に悪魔の儀式で会った奴らとは違う、さらに先に行ってしまった奴らだ。本当に悪魔に心を奪われてしまった人間達だ。

 一斉にうなり声を上げて襲い掛かってきた。

「圭介」

 呼ばれた方を見ると、鎖島さんが立っていた。来てくれたのか。鎖島さんの方に走った。

「ここは逃げるぞ」

 僕と鎖島さんは何人かを蹴散らし、広間の奥の階段を上がった。全裸の男女達は、僕達を追ってきた。変な叫び声を上げて追ってくるその姿は、もはや人間には見えなかった。

 階段を上りきり、前の扉を開けた。ドアを閉め、前に机を置き、ドアを開かなくした。

 悪魔教徒達は、外側からドアを激しく叩きつけてきた。素手で叩いているようだ。道具を使うという思考すらないのだろうか。完全にいってしまっているのか。

 入った部屋は大きな部屋だった。この部屋は悪魔教団らしく、悪魔や怪物の像が並べられ、拷問道具が壁にぶら下げられていた。

 部屋の奥に一人の男が立っていた。ほっそりとした体躯に黒い服を着ていた。そげた頬に落ち窪んだ目。死神のような男だった。この男が元自衛隊の殺し屋郷崎か。

「たった今、宇宙人の格好した奴がここを通り過ぎていった。通せとの命令だったからな。お前らの仲間だろ」

 ルフォンさんがここを通って行ったようだ。

「お前らを通せとは言われていない」

 鎖島さんが懐から拳銃を取り出した。構えて撃とうとした瞬間。苦痛の声を上げて、鎖島さんは拳銃を取り落とした。見ると右腕にナイフが突き刺さっていた。

「逃げろ圭介」

 そう言いながら鎖島さんは左手でもう一丁拳銃を取り出し、郷崎に向かって撃った。

 郷崎は悪魔の像の陰に隠れ、弾を避けた。

 逃げろと言われても、後ろのドアの向こうにはゾンビのような悪魔信者達が待ち構えている。出るに出られない。

 郷崎は像の陰から像の陰へと移り、徐々に近付いてきた。

 鎖島さんが懐から出した短刀で突きを見舞った。郷崎は軽く横にかわし、鎖島さんの顔面を殴りつけた。

「どうした。この部屋の拷問道具は飾りじゃないぞ。死ぬ気で戦え。そうじゃないと死ぬより苦しい目にあうぞ」

 鎖島さんが短刀を振り回した。郷崎は上体を反らしただけで攻撃を避け、鎖島さんの腹に前蹴りを食らわした。鎖島さんは後方に飛ばされた。

 僕も加勢しようと郷崎につかみかかろうとしたが、郷崎はこちらを見ることも無く、僕の胸を蹴り飛ばしてきた。僕は呼吸が出来なくなり、その場に崩れ落ちた。

「さすが最強の自衛官と言われただけあるな」

 鎖島さんの言葉に、郷崎はおどけたような顔をした。

「昔の俺知っているのか。そう、昔はお国為に働いていたんだぜ」

「それが今じゃ悪魔教団の用心棒か。随分と思い切った転職したものだ。ハローワークで紹介されたのか」

 郷崎は微笑みを消し、大きく息をついた。

「一九九九年に起きた富士山麓墜落事故。俺は最前線で救助に当たっていた。そこは地獄だった。生存者どころか、まともな死体すらありゃしない。五体バラバラなんて当たり前、二つの死体が一つにくっついて目が三個ある死体もあった。そんな状況で俺の心は削り取られ、PTSDと診断された。そんな俺を自衛隊はお払い箱にした。他に行き場所が無かったんだ…」

 郷崎がうつむいた。

「なーんて言うと思ったか。このゴミ共。墜落現場は死体いっぱいで楽しくて楽しくて仕方無かったぜ。芸術品のオンパレードだ。血の池と木に引っかかった内臓で酒池肉林だ。しばらくすると死体にウジがたかり始めるんだ。死体を真っ白に埋め尽くす程にな。白米みたいに見えるって、仲間がゲロ吐いている横でご飯を三杯もお代わりしちまったぜ。その頃の俺はうぶだったから、楽しいっていう自分の感情を受け止められなくて、一人で苦しんでしまった。しかも俺が助けた唯一の生き残りがあの悪魔だ。俺は自分の感情を否定する為、悪を阻止する為、松崎亨士郎を殺しに行った。でも殺せなかった。それどころか気付かせてもらった。この感情を否定することは無いってな。自分の心がおもむくまま生きれば良いってな。自分の心がおもむくまま殺せば良いってな。俺は鍛えられた体で、人を救いたいのではない、人を殺したかったんだ」

「そんなに人が殺したければ、戦争している国にでも行け」

「そうじゃない。俺は遠くの他人を殺したいわけではない。身近な人間を、日本人を殺したい。お前達を殺したいんだ」

 郷崎がよだれを垂らして笑った。

 鎖島さんが短刀を振るった。郷崎は紙一重で見切ってかわしてしまう。

「おら、どうしたやくざ。体中の関節外して、爪の間に針ねじ込んでやるからな」

 武器を持った人間相手に素手でこんなに戦うなんて、本当に人間離れしている。郷崎は遊んでいる。本気を出したら、鎖島さんは一撃でやられてしまうだろう。どうすれば良い。

 郷崎の攻撃で鎖島さんは少しずつ削れていった。口は切れ、鼻血を垂らし、足を引きずっていた。もう駄目だ。

 鎖島さんの動きが止まった。終わりか。

「息が苦しそうだな郷崎」

 やられまくっているのに、この余裕発言は何なのだ。だが、確かに郷崎の呼吸は乱れている。

「お前、ただのやくざじゃないな」

「気付くのがおせえよ」

 鎖島さんが短刀を振るった。郷崎が上体を反らしてかわそうとする。その瞬間、鎖島さんの短刀の刃の部分が飛び出し、郷崎の胸に刺さった。郷崎は目を剥いて数歩下がり、その場に崩れ落ちた。

「スタミナを奪いつつ、パターンを読ませてもらった。お前の負けだ」

 郷崎は言葉を詰まらせながら苦しそうに話した。

「俺がこんな手に引っかかるとはな…。素人ばかり殺していると弱くなる。強い奴と戦わないと駄目だな。昔の俺だったらお前なんぞに負けなかった」

「そうだろうな」

 郷崎は咳き込んで血を吐き出した。

「今からでも引き分けに持ち込む手はあるが…。まあ良い。先を見て来い。悪は存在する。奴は存在する」

 鎖島さんは床に落ちていた拳銃を拾い上げ、郷崎の脳天を撃ち抜いた。

「全然訓練しなくて、薬に溺れて、これだけ強い。全盛期はどれだけ強かったんだこいつは…」

 ため息混じりに鎖島さんはつぶやいた。そして、脇腹を押さえてうずくまった。

 僕は目の前で人が死ぬところを目撃して、体の震えが止まらなかった。少ししてようやく正気を取り戻し、鎖島さんのもとへ駆け寄った。

「大丈夫ですか」

「鼻と肋骨が折れて、膝もいっている。腕の血も止まらない。大丈夫ではないが、死にはしないな」

 鎖島さんの腕の傷を布切れで縛った。かなり出血していた。

「圭介。俺は潜入捜査官だ」

 鎖島さんの言葉に、僕は反応出来なかった。

「びっくりするのも無理はない。でも本当だ」

 鎖島さんは、苦しそうに顔を歪ませ、血が混ざった唾を吐いた。

「麻薬の流れを追うのが最初の目的だったが、悪魔崇拝やら、バラバラ殺人やら、いろいろとひっかかっちまった」

「本当に鎖島さんは、警察なのですか?」

 鋭い目つきに黒い雰囲気、やくざそのままだ。

「とりあえず公務員だ。まあ、警察とやくざなんて一緒だ。体制か反体制かの違いだ」

「鎖島さんからかっているのですよね」

「違う。信じられないのも仕方ないけどな。本物の鎖島は刑務所で刺されて死んだ。体格が似ていた俺が選ばれて、顔を変えて組に潜入した。組長が殺されてごたごたしていたのに乗じて潜り込んだ。組は潰れかけていたが、警察が裏で糸を引いて潰さないようにした。表立った力だけだと都合が悪い事もあるんだ。とにかく、本物の鎖島が刺青を入れていないやくざで助かった。本当は痛いの嫌いなんだ」

 鎖島さんは肋骨を押さえて少し呻いた。

「押収した麻薬はしっかり処分した。司祭やら錬金術師やら、捕まえた悪魔教団の奴らもしっかり捕まえてある。殺しちゃいない」

 そうだったのか。少し安心した。

「ルフォンさん、いや、猛さんも捕まえるのですか?」

「猛さんを捕まえるのは難しい。刑法三十九条ってのがあって、精神障害を持っている人は、刑法で裁けないからな。それに、本当に捕まえなければいけないのは、松崎亨士郎だ。松崎も刑法で裁けるかわからないが、とにかくやらねばならない」

そう言って鎖島さんは大きく息を吐き出した。

「しかし、猛さんも大したたまだ。宇宙人とか言って気が狂った振りをしているが、ありゃ正気だ。おかしくなった振りをして、内外の抗争を上手くかわしつつ、虎視眈々と復讐の機会を狙っていやがった」

 そうだったのか。いや、さすがにそれは無いだろう。あの人は宇宙人だ。いや、冷静に考えればそんなこと無いか。復讐を遂げても、刑法で裁かれない為、自分が宇宙人だなんて言っているのか。それに、そんなことを言っていれば、相手も油断してしまう。恐ろしい男だ。完全に騙された。

「俺も最初は本当に狂っているのだと思っていたが、ありゃあ演技だ。もしかすると俺が潜入捜査官だと知っていて利用していたのかもしれない」

「猛さんは、松崎は宇宙人だと言っていましたが、それも嘘なのでしょうか」

「嘘に決まっているだろうが。俺も少し信じそうになったが、そんな訳無い。松崎は宇宙人だ、悪魔だ、と言われているが、飛行機事故のせいでおかしくなっちまった、ただの人間だ」

 本当にそうなのか。どれが本当に本当なのだ。

「今は悩んでいる場合じゃない。俺の傷は思ったよりひどい。お前は先に行け。俺は後から行く。刑務所に行かないようにしてやる。容赦なく撃て」

 鎖島さんは拳銃の安全装置を外し、それを僕に渡した。前にもこんなこと言われた。容赦なく撃ったが、一発も当たらなかった。前のリボルバーとは違うオートマチックだ。銃の知識は無いので、それくらいしかわからない。威力は強そうだが前にルフォンさんに渡されたやつより使い辛そうだ。

 剣と鏡と銃を持って、僕は先へ進んだ。

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