第5話「んほおおおおお!」

「んほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 俺は古今和歌集の文庫本を読んでいた。古今和歌集、なんとなく猥雑な響きのするタイトルだ。更には新古今和歌集なんて代物も存在している。あるいは、新古今和歌集のほうがどちらかといえば卑猥な感じが増すかもしれない。とにかく俺は古今和歌集を読んでいる。時には採録されている詩歌を口に出して諳んじる。風流である。埃っぽい小汚いアパートの一室においても、あたかも平安貴族になったような気分が味わえる。平安貴族の多くは無職みたいなもんだ。俺もいま、絶賛中の絶賛で無職だ。コンビニのアルバイトやスーパーマーケットの品出しなど、仕事は世の中にあるといえばはある、が、俺はそうした賃金の発生することを頑なにやろうとしない。俺の腰は地盤沈下を引き起こしそうなほどに重いのだ。金のために労働なんぞというくだらない時間の無駄をやっているなら、気ままに麗らかな昼下がりにマスでもカイていたほうがよほど心身の衛生に健全ではあるまいか。

 幼馴染みで浪人生(実は小学生を留年したので年上である、勿論、嘘である)のユカが、夕飯の仕度をそつなく進めてくれている。リビングの奥の妹(現役JCでエロゲ声優をやっているらしい、俺は妹の就業に関して原則的に関知しないし、興味もないし、実は部屋で勝手に淫乱な喚き声を上げているだけなのかもしれない)の部屋では、仕事のレッスンとして、渡された仕事の台本を読んでいる。相変わらず魂のこもった「んほー」だと感心する。んほーとは何だ? エロゲとやらには、そんなにもんほーなんていう、およそ人間が一生で1パーセントでも発する確率があるかの言葉、擬音語が多用されているのか。その抑揚、調子といった微妙なニュアンスによって、様々な人物描写が可能であるというのか。わからない。肘立てて横たわっている俺は、とにかく風雅な詩歌の数々を堪能しながら、ページをさらさらとめくっていった。実は英訳版なのだ。


「あかんて! ゴム着けてないやん!」


 どうやら本意ではない中出しの場面の練習らしい。うちの妹は実際、そうした体験があるのだろうか。と考えたが、どうでもいい。


「なんで関西弁やねん」


 ユカがワンタンスープの後に中華風焼き飯(焼き飯の時点で中華も支那もあらへんがな、とツッコミを入れたのだが、やかましいわ童貞死ねボケ、と反撃をされたので、うっさいわお前が死ね、地球の公転周期とお前の生理周期が同期してしまったことが原因で死んで、それから巷に溢れるラノベみたいに異世界に転生してオレツエーやれ、ああ、お前は女やからオレツエーちゃうくてアタシツレーか、女様は昨今色々と忖度されて社会的優遇の立場にあるもんな、女性専用車両とか何とかな、そのうち女性専用ダイヤグラムとか、女性専用道路とか、女性専用国務大臣ポストとか、女性専用ナントカカントカ、裏を返せば、お前みたいなブッサイクな女は女に非ずみたいな感じで女にして女性様の枠に入れない一派も出て来るかもな、と言い返したら、うっさいわお前、ほんまに黙れ、今日で3回告白されたっちゅうねん、3回やぞ、まあ同じ野郎からやけどな、と負け惜しみめいたことを言われたので、俺はもう弁戦を張る気力が削がれてしまった)

 中華味の素を使った香りが、ハムや卵といった素朴な食材の混じった米粒の山から立ち昇ってくる。中華料理はやはり強力な火力で拵えるのが常套手段なのだが、それが中々、うちのガスコンロもそう負けたもんではないらしい。ユカの手腕なのか否かはどうでもいい。


「いただきます」

「いただきます」


 と、二人でレンゲを挟んだ手を合わせて声を重ねる。


「いややぁ! 妊娠、して、もうたらぁ、どないすんのよぉ……あんあん、あんっ、ふぁああっ、あんさんのおち×ぽが、3.11の大津波みたいにウチの陸前高田をずんずん攻め込んできてるてぇ!」


 俺は襖に首を向ける。ユカも笑っていいのかどうか、はかりかねた様子でレンゲを不自然な位置で止めた。


「いや、おもろいけどな?」

「まあ、ええんやけど、ええけど……これ書いたシナリオライター、ほんま頭おかしいんちゃうか?」

「俺はエロゲのことは全然知らん」

「不謹慎やろ」

「現役JCに濡れ場の芝居やらせてる時点で、まともな業界ちゃうのはあるけどな……」


「種づけ女やさかいに、あん! あん! あっ、あっ、ああぁっ! あんさんの種づけ女にしてやぁ!」


「関西弁やめえや……」


 俺は些か怒気を孕んだ声色で呟いた。こんな芝居の音声が商品化され、市場に流通し、誰かが数千円払って購入し、あるいはインターネットで不法ダウンロードし、オナニーのオカズにすることまで想像すると、思わず涙腺がハリウッド超大作映画を前にした全米国民のようになってしまう。しかも溢れ出てくるのは涙などのなまやさしいものではなく、恐らくもっと凄まじい何か、リンパが破裂して血液か、胆汁みたいなこれまで見たこともないような体液だろう。古今和歌集は腰元に伏せて置いてある。英訳といっても、訳者はインド人の日本文学研究者だ。


「イく、イくっ、イっちゃう、あ、あっ、うちのおま×こ、東日本大震災~~~~~~~~~~~~~~~~!」


「0点」と俺は焼き飯を頬張りながら言った。

「有情やな」と、ユカは軽く肩をすくめて囁いた。

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