第2話「んほおお!」

「んほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 オレは苛立っていた。煙草を切らしたからだ。ユカにLINEで煙草を買ってきてくれと送ったのだが、既読がついただけで返信もなく、それが更にオレの機嫌を悪くしている。はい、とか、わかった、とか、画面を表示させたのなら、一言だけでいいので片手間かけて返してくればいいものを、一体全体、どのような状況であればそれが不可能であるのか理解が出来ない。

 スマホを卓上に投げ出した。ガチャをやっていたが、ろくなものを引けず、無駄金を使っただけだった。うんざりしてくる。日が暮れて、ユカはもう直ぐ夕飯の材料を携えてこちらに訪れるだろう。隣の部屋からは、妹の仕事の練習が襖の仕切りを隔てて声だけが聞こえてくる。


「あん、あっ、あっ、らめぇ! シャッチョさん、そんなの、らめらよぉ! シャッチョさん、わたしのっ、声っ、部屋の外に漏れちゃう! 内緒だよ、内緒だから、シャッチョさん、いけないことやってるの、知られちゃうよぉ! らめぇ、シャッチョさんっ!」


「シャッチョさん?」

 オレは怪訝な顔をした。しかし、それ以上追及する気は微塵もない。煙草の空箱を両手で握り潰し、灰皿へと放り込んだ。

 少し時間が経ち、玄関が開く物音がした。荒い足音から、ユカの不穏な心境を察知する。どさっとスーパーの袋が床に落ちる音。ユカが床に、などと極寒の駄洒落が頭をよぎった。

「また痴漢された! まーた痴漢された!」

 オレの部屋に入ってくるなりユカは憤慨の声を出してきた。

「何やねんうるっさいな。煙草、うてきてくれたんやろ、はよ頂戴さ」

「ああ、せやせや。ほい」

「カートンで買えよ! 何で一個だけやねん。……お前、これ全然違うやつやんけ! オレいっつも同じの吸うてるやん、お前これ、何や――1ミリのメンソールて、あかんがな何しとんねん。オカマかいな」

「それが人に使いっ走り頼んだ男の言う事なんか。ウチ煙草吸わんから、そんなん知らへんやんけ」

「こんなもん、1ミリなんかお前、吸うた気にならへんがな。しかもメンソールて……」

「二本吸え」

「あッ?」

「二本同時に吸え」

「アホか。アホ言いなや」

「それか鼻でも吸え。刺せ、刺せ、煙草、鼻の穴に」

「ンフ……まあそれは割りと好き」

 オレは渋々、煙草のビニールを破り、早速一本を口に持っていった。


「シャッチョさん! シャッチョさん! シャッチョさん奥さん、いるのっ、にっ、らめらよぉ! わたしっ、結婚してる人と、こんな、あぁっ!」


「社長さん?」

「ああ、社長さんか。何でカタコトやねん。出稼ぎか。まあええわ、ほいで、痴漢のくだりは続きあんのかいな」

「ああ! そや。帰りの電車で痴漢されたんや」

 オレは腹が減っている。出来れば話を短く済ませて、晩飯にありつきたい。

「内回りと外回りで一回ずつされたんや」

「お前なんでそんなわけわからん乗り換えしてんねん。嫌いちゃうけどな」

「せやろ。お前、昔のあれ覚えてるか? 二人で日本橋のアニメイト行った帰りに鶴橋で」

「あったあった、あっははははは」

「地下鉄降りて環状線乗り換えよかーって、階段上がってったらホルモンの臭いうわーって」

「もうオレら即座に階段降りたもんな」

「あれはたまらん、JRと近鉄、あれホンマ防臭対策なんかせなあかんで」

「もう昼間っから臭いもん。昨晩の宴の余韻が密に漂ってるもんな。それはええがな。何やねんお前、痴漢されたんかいな。車掌にうたんか」

えへんがな。お前なあ、ウチが乗る時間帯の山手線とんでもないんねんぞ。東南アジアの人間なら中に乗らんわ。上に乗るわ」

「うん……」

「せやからもう鮨詰めで身動きも取れへんしやなあ、そんなもん何も出来へんやんけ」

「そないうてお前、ちょっと気持ち良かったりしたんちゃうんか」

「ア・ホ・か、AVの見過ぎじゃボケ。殺すぞ」

「口でそないうても乳首立っとんのやろ」

「立ってへんがな。何も乳首立つ事あるかいな」

「お前ちゃんとわなあかんで。やられっぱなしやんけ」

「二回目」

「何?」

「二回目はな、キリンにされたんや」

「……え、え、えっえっ、キリン? キリンて」

「あ、ちゃうわ、外回りやって、急いで乗り換えたらやな、ウチの後ろからもキリンが無理矢理駆け込み乗車してきたんや」

「ちょっと待って、ごめん、お前が何をうてんのか全くわからん」

「せやからキリンに電車で痴漢されたーうてんねん」

「キリン!?」

「どう考えてもキリンやろ! 首めっちゃ長かったぞ。そんでめっちゃ近いねん、顔と顔が」

「……。ああ、あっ、キリンは首がごっつ長いからな、電車の天井収まりきかんわ。無理からお前の方に曲げとったんや」

「そうやねん」

「痴漢ゆうか、それ満員でたまたま密着してただけちゃうんか。女ってそういうとこ自意識過剰やねん」

「お前なあ、キリンのべろ知ってるか? 気持ち悪い色したべろで首筋べっろー舐められたんやぞ」

「何や。尻やら乳やらやられながらかいな」

「気分悪いわー」

「お前それもう立派な犯罪やんけ。その場でちゃんとうたらええがな」

「何もわかってへんねんな、お前、ウチがいきなりキリンに痴漢されたんです! って叫んだら、こっちが完全に頭おかしい女や思われるやんけ」

「……痴漢されてんのは事実なんやろ」

「ちゃうねん、しかも単なるキリンちゃうねん。体に模様がない版やったんやそいつ。絶対ヤバイやん」

「……」

 腹が鳴った。


「シャッチョさん! あんあんあん! シャッチョさん! 潤してぇ! ワタシの中ぁ、ワタシのファミリー、潤してぇ! 潤してぇマネーって言って!」


 オレが味もへったくれもない煙草を吸いながら襖に目をやると、それと同時にユカもそっちに視線を向けていた。

「あいつもあいつで頭おかしいんとちゃうか」

「自分の妹を頭おかしいうな」

「あんな芝居がゲームになって流通してるってこの国色々終わっとるな」

「何もせんと食わせてもろてるお前がうても、何も説得力ないな。痴漢やけどな、あれは鉄道会社も悪いと思うで、ウチは。駅に貼ったあるやろ、痴漢防止のポスターとか。あれがあかんねん。ああいうの見るとな、わかるやろ」

「逆にな」

「逆にな。普段はそういう願望があるようなオッサンがな、まあ大体ハゲ散らかしとるわ、頭。そういう願望のオッサンは」

「いや頭は知らん」

「ハゲ散らかしてるきったないオッサンが、駅でそないな痴漢は駄目、みたいなポスター見ると、知らず知らず自分のやってる事が制御出来んくなるねん。何かあるんやと思うで、心理学の用語か何かで。ウチは詳しくないけどな」

「あるんやろな。一回目の内回りでやってきたんはずんべらのハゲやったんかいな」

「いや。一回目はゴリラ」

「……」

「野性味溢れる手ぇでがっしーケツ触られたわ。がっつり肉食系やったで」

 ゴリラ、肉食か?

「わかったわかった、腹も減ってるし、何やもうわからへん。都民わからへん」

「ウチもわからへん。予備校の授業も全然わからへんねん。せやから今日、ホンマに何もわからんから、さっき気付くまで服の上からブラジャー着けてたんや」

 オレは五本目の煙草を半分くらいで消した。

「はよ飯作ってくれ」

 世の中わからへんな……と呟きながら、ユカは台所に向かっていった。


つづく

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