オレの妹が現役JCでエロゲ声優やってます。

文芸サークル「空がみえる」

第1話「んほお!」

「んほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 隣の部屋から絶叫が聞こえてきた。食事中だったオレとユカは、同時に襖へと体を向ける。その凄絶な音圧たるや、築五五年の一度も修繕もされていない安アパートの、和室の襖なんぞを容易く粉砕しそうな破壊力であった。実際に、オレが手に持っていた椀の味噌汁が揺れている。これはオレが喫驚して手が震えたのではなく、恐らく唐突に飛びかかってきた妹の大声の所為に違いない。

 オレは食事を再開しようと思ったが、襖を二度見した。その視界の片隅では、真向かいのユカが豚肉の生姜焼きに箸を伸ばしている。

「また始まったやん、妹ちゃんの収録の稽古。仕事熱心やな」

 ユカは肉を頬張りながら言った。オレは顔の向きを戻し、若干釈然としないような相槌を打つ。手の椀が淋しそうにしていたので、取り敢えず、中身の味噌汁を一口啜る。程良い出汁と味噌の按配が喉を通ると、驚きは自分の頭から去って行った。

「何てうたんや。も思うけど、ホンマにあんなセリフあんのか?」

「さあ、知らん。ウチ、エロゲやらんから」

 キャベツの千切りを咀嚼する音を混ぜて、ユカが返事をしてきた。オレもエロゲのプレイヤーではない。一本も購入した事もない。一万円近くする娯楽商品に金を出せる分際ではない。オレは高校中退、更に無職なのだ。十年前、矢継ぎ早に他界した両親が遺してくれた諸々――動だの不動の資産だとか証券だとか生命保険だとかプレミアのついた書籍の初版だとか父が通い詰めていたフィリピーナ・パブのだとか、最後は結構な額に達していたが――を全部預金口座にぶちこみ、それに妹の稼ぎを加えて細々と送っている。あと食費は、こうして幼馴染みのユカがわざわざ晩飯を作りに来てくれているので、浮いている。

 オカンが病死し、オトンがゴリラの運転していた車に轢かれた後、オレ達兄妹は「折角だから東京に引っ越そう」と、法事を終えて新幹線に飛び乗った。それからユカとはたまたま二年前に邂逅した。都内の予備校に通っているのだそうだ。どれだけ偏差値の高い大学を志望しているのか、オレには知る由もないが、流石に三度目の桜の散華を見るのは気の毒なので、今年はめでたい結果になってくれたらいいと思う。


「あっ、あぁっ! らめぇ、らめらめ、らめぇ! らめなのぉ!」


「ごっつい熱演やん。もう心はスタジオ入りしてるやん」

 熱演なのか。わからない。妹の仕事には干渉しない態度なので、どうでもいい。豚肉を一切れ嚥下したオレは、続いて一切れ、箸の先で摘み上げる。端の縮れた肉から油色の汁が皿の上に垂れた。ふっくらと炊けた白米と合わせて口に掻き込むと。味覚の極楽が否応なしに深まる。

「せやけど、あない声出しとったら喉イワすんとちゃうか。ガラッガラで収録日とか洒落ならんで」

 灰皿を引き寄せながら、何気なく漏らした。目の前のユカは絡繰り人形のように小首を素早く傾げ、瞼にかかった前髪を払った。

「そこはプロやろお前、もうあれや、あの子、何本出とるんやって話や」

「人の妹をAV女優みたいにうなや。まだ学校行っとるっちゅうねん」

 オレは半笑いで返した。AV女優を貶している訳では決してない。たまにレンタルでお世話になる立場として、そのような不埒な意図の発言はする筈がない。もののたとえである。ある種、人体の神秘に立ち向かう勇猛果敢な職人として、そのての女性の方々には甚大なる敬意を表しているつもりだ。

 オレは一旦箸を茶碗の上に置き、煙草に火を点ける。一服めの煙を吐いた時、白く濁ったユカの顔が忌々しそうな形相に変わっていた。

「飯食うてる時に吸うな。何遍わせんねん」

「ええやんけ別に。構へんがな」

 灰を落とし、取り付く島もなく言い返す。癖になっているのだから、言葉で直せと言われても無理な要求である。ユカの刃物めいた視線をものともせず、オレは悠々とフィルターの感触を唇と歯で味わう。


「あん、あん、あん! そんなに、激しく、されたらぁ! 宇宙、宇宙がね、宇宙開闢しちゃうよぉ! わたしの感度でビックバンしちゃうぅぅ! 宇宙の起源に新説出来ちゃう! 超スケベ理論で宇宙の始まりが立証されちゃうう!」


 オレとユカは襖を三秒眺めた。きっかりと三秒だった。厳密には、オレの方はわけもなく煙草を灰皿で叩いたので、そちらに視線を向けていた間隔はあったのだが。襖を眺めたといえども、二人の双眸はその奥の有様を想像する為の装置と化していた。

 不自然な遅さで顔を正面に曲げたユカは、暫く瞭然とした沈黙に耽っていたが、左右の瞳が微かに泳いでいた。ユカはわざとらしく鼻を啜り、咳払いをする。奇妙な筋力の働きで口が固まっていた。

「宇宙って何や」

 オレは眉根を顰める。まさしく、宇宙という単語に疑問符を付けたい気分であった。

「宇宙なんやろ」

 ユカはオレの独り言を反芻した。神妙に頷きながら、自分の中の思考の隘路を突破しようと試みている。しかし、オレもユカも妹の仕事を具体的に詳しく把握しているわけではない。どれだけ頭の中で状況を構築したとて、それは部外の素人の絵空事に過ぎない。

「宇宙やぞ」

「ま、宇宙……お前、次の妹さんの役、どんなんか知ってんの?」

「知っとるわけないやろ。オレ別にあいつの仕事に口出しせえへんから」

「ほいでも、宇宙が出て来たからな。ちょっと気になるんやけどな」

 オレは煙草を吸い終えると、味噌汁を空にした。豚肉と白米も平らげ、残るはキャベツの千切りだけになった。空の食器を重ね、最後となった一皿を間近に引き寄せる。

「気になるんなら訊いてみたらええがな。オレはエロゲの事は全然知らん。縦しんば宇宙が始まるんやうて、エロゲやったらそれもアリなんかもしれへんやんけ」

「せやな……」

 ユカが服の上から横乳を掻きながら思案する。

「乳を掻くな乳を。オバハンかお前」

「そんなんええねん、ちょっと教えてもらうわ」

 ユカが卓上に両手を置いてバネにすると、立ち上がる。


「んほおお! おほっ! 素粒子ビュンビュン! わたしのっ、中でぇ、天体物理学とミクロ物理学が衝突してりゅうぅう! その摩擦しゅきいぃぃ! NASAもCERNも度肝抜かれるくらい気持ちいいの量子が観測出来るよぉ! あひぃ! そんなに、ズンズンされちゃうと、わたし、わたしぃ、一五〇憶光年の彼方まで飛んじゃううう! あなたのっ、固くて熱いソレがっ、わたしのぉ、いやらしいお股のブラックホールの事象の地平面を突破しちゃうう!」


 襖に手を伸ばしかけたユカが、湯を被った鼠のような声を漏らした。それに釣られてオレは吹き出した。肺に残っていた煙が喉につかえ、大袈裟なまでに噎せ込んでしまった。

 オレは俊敏に険呑な顔付きでユカを睥睨する。

「お前、笑うなや!」と怒鳴った。

 ユカも少し前屈みになって発作めいた咳をしていた。何度か深呼吸すると、脱力気味に肩を落とす。

「事象の地平面、うたで。はっきりうたで、噛まんと流れるように一息で」

「そら声優やからえるやろ! 事象の地平面ぐらい!」

「あんな綺麗にう思えへんがな! 事象の地平面て! イントネーションもどっぷり標準語やし」

 オレは眉間に皺の山脈を作り、捻り上げるように顎をしゃくった。

「どっぷりって……使い方間違まちごうてんねんお前。もうええからよ訊けや! はよう!」

 ユカが漸く襖を開ける。しかし、隙間は顔を覗かせられる程度の幅でしかなかった。オレは理由もないのに無言で、音も立てずにキャベツを黙々と口に運ぶ。妹の稽古が止まり、ユカの背中が部屋の中の人間と何かを話しているのが見て取れる動作に揺れている。そうしてせせこましく会話をされると、輪の中にいないオレまでもが威儀を正してしまいそうな圧迫感を強いられてしまう。

 あ、そうなんや、邪魔してごめんな、ごめんごめん、うん、それ検索したらええんやんね、わかったわかった、ほな頑張ってな、ユカが恐る恐るといった具体の声色でそう締め括ると、そっと襖を閉じる。オレはキャベツを全部食べ終わり、かけ忘れていたドレッシングの容器を彫像のように静止して見詰めていた。

 ユカが手早く食器を纏めると、台所へと持ち運んでしまった。何かに後を追われるような違和感があったが、オレは言及する事はないだろう。2Kのこの自宅は、オレが日頃布団を敷くこの部屋が丁度真ん中の間取りになっており、奥に妹の部屋とベランダ、外に向かって水回り、トイレと浴室、そして玄関となっている。

 ユカは直ぐに戻ってくると、元の位置に腰を下ろした。座卓の前に腰を着ける動作で、襟元からちらりとパステル・ブルーのブラ紐が覗いた。オレは新しい煙草に火を点け、肺活量の限界に挑むかの如くたっぷりニコチンとタールを吸引した。

「ほいで?」

 オレは改めて確かめるのも倦んでいたが、そうする以外に術はなかった。一方のユカはフィールズ賞に選ばれる数学者の頭脳を持っているめいた表情で、オレが煙草を吸い終わるまでの間、口を開こうとしなかった。

 決心が付いたようにオレを見詰め、ユカが声より先に呼気を吐き出した。

「『銀河でギンギン、宇宙で夢中にあのもそのも犯しちゃえ』」

 短い煙草を揉み消す手が反射的に乱れた。卓上に突っ伏したい気持ちに陥ったが、辛うじて耐え、上半身の決死の痙攣で抑える事に成功した。



【つづく】

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