第5話 ノット

「さぁ、どうぞ中へ」

「あ、あぁ」

 楓によって開かれたドアを健一が通る。

 ずっと暗い所にいたせいか、健一は中の光がとてもまぶしくてつい目をつぶってしまった。

 だが、それも一瞬のこと。視界は徐々に晴れていき、中の様子がしっかりと健一の目に映り込む。

 そこは現代の若者に人気なおしゃれなカフェではなく、昔の雰囲気が漂う大人のカフェだった。カウンター、テーブル、それぞれの席に使われている椅子すべてが焦げ茶色のきれいな木でできている。また、電球の黄色い光がこの空間をいっそ引き立てていた。そして壁には洋風の古時計が飾られている。

 健一がその光景に見とれていると、右のほうから男性の声がした。

「ん?あぁ、例のお客様か。よかった。楓ちゃん、ちゃんと仕事したんだね」

「ちょっとマスター。私がいつも仕事してないみたいに言うのやめてくださいよ」

「あはは。ごめんごめん」

 その声に答えたのは楓だった。

マスターと呼ばれてたその男性は身長が高く、髪は黒髪のベリーショートだが所々に白髪が見える。体は鍛えているのか歳を感じさせないたくましさがあった。年齢は50歳くらいだろうか?

 健一はいまいちその場に溶け込めずにいたが、それに気づいたマスターが気を使って健一に声をかけた。

「やぁ、湯川 健一君だったかな。ようこそ『ノット』へ。私はこの店のマスター、好きなだけくつろいでいきなさい」

「ご、ご丁寧にどうも。そう、私は湯川 健一……なんで俺の名前知ってるんですか?」

「あはは。まぁ、小さいことは気にしないで」

「……」

 そう言ってマスターは健一に笑顔を向ける。

 健一は少し不気味に感じたが、きっと病院の人に教えてもらったのだろうと思った。いや、思うことにした。

 そんな健一に一杯の温かいコーヒーが差し出された。

「はい、どうぞ。そんなところに突っ立ってないで、こっちに来てコーヒーでも飲みなさい。健一君」

「あ、いえ。俺金持ってないですし」

「あれ?楓ちゃん言い忘れたのかな?患者さんは皆無料で飲めるんだよ」

「私言いましたよ!?健一さんがちゃんと聞いてなかっただけです!」

 健一は確かにそんなこと言っていたなーと思い出す。病院のサービスとかなんとか。

 楓が少しむくれているのを横目に、健一は苦笑しながらマスターがいるカウンターの席に着いた。

「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」

「あぁ、めしあがれ。うち特性のブラックコーヒーだ」

 無料なのは健一にとって嬉しいことなのだが、そんなことしてて赤字にならないのかと疑問を抱きながら健一はコーヒーをすすった。

「ん、おいしい」

「あはは。それはどうも」

 健一の称賛にマスターは嬉しそうに微笑む。

 健一はもう一度コーヒーをすする。

 ミルクや砂糖など何も入っていないが、苦みが強すぎない。味も薄すくなく、コーヒー独自の深みとコクが舌に伝わる。そして飲み込んだ後に鼻に残るかすかな芳香。それらはコーヒーをあまり飲まない健一にも、充分おいしいと感じさせた。

「マスター。私のももらえますか?」

「もちろん。ほら、今できたところだ」

「さすがマスター!」

 健一の姿を見て羨ましく思ったのか、楓もコーヒーを注文して隣に座る。

「はー、やっぱりマスターのコーヒーは絶品ですね!」

「ありがとう、楓ちゃん」

 眼鏡を曇らせながら称賛する楓に微笑みで返すマスター。その二人の姿は、健一が将也や家族と接する時のとはまた違う温かさを感じた。

 健一はまたコーヒーをすすろうとする。

「あ……」

 しかし、気づいたらカップの中のコーヒーはなくなっていた。健一がすでに飲み干してしまったのだ。

 それを見たマスターが静かにおかわりを用意する。

「お気遣いありがとうございます。でも、こんな時間に長居するのもいけないのでこの一杯を飲んだら病室に戻ります」

「時間のことなら気にしないでくれていい。ここは深夜にしか営業していないから」

「は……?」

 深夜にしか営業していないという不可解な発言に、健一は一瞬言葉を失う。そして今更ながらこの時間にカフェが病院内で営業していることに疑問を抱く。

 健一の様子を見て、マスターは不思議そうな表情を浮かべる。

「あれ?もしかして今度こそ言い忘れちゃった?」

「う……」

 マスターの指摘にびくりとする楓。それを見た健一が首をかしげると、楓が恐る恐る口を開いた。

「あははー。嫌だなマスター、そんなわけ……言い忘れました」

 マスターの目力に勝てなかったのか、楓が早々に自白する。それと同時にマスターは大きなため息をついた。

「はぁ。ごめんね健一君」

「あ、いえ。それよりどういうことなんですか?」

「そうだね、話すとしよう。このカフェはちょっと特別でね、夜遅くまで残っている看護師や寝付けない患者さんのための場所なんだよ」

「はぁ……。でも俺、楓ちゃんに無理やり起こされたんですが」

「そ、それを言っちゃいますか!?」

 健一は病室での出来事を思い出す。

 確かに健一は熟睡していた。なのに背中をくすぐられて起こされたのだ。これを無理やりと言わずになんというか。

 二人の言動にマスターが反応し、楓に笑顔で問い詰めた。

「楓ちゃん?」

「う……だって最近お客さん来ないし……」

「はぁ、お客さんなら文さんと茂さんがいるじゃないか」

「だって、私と年が近い人まだ来たことがなかったし……」

 マスターの目力により楓はまたしても自白した。少し拗ねたのか、楓は小さい声で文句をぶつぶつ言い始めた。

 確かに、今このカフェには健一以外の客はいない。最近客が来ないという話も本当かもしれない。

 さっきマスターの口から出た文さんと茂さんというのはこのカフェの常連客だろうか。楓の口調からして健一からも歳はかなり離れているのだろう。

 今どきの女子高生が同年代の話し相手がいないという寂しさは健一にはわからないことでもなかった。事実、健一も将也と会うまではそうだったのだから。

(俺がカフェに行くって言った時すごく喜んでたしなぁ)

 健一は心の中で楓を不器用だがやはり素直な子だと思い、見ててほほえましかった。

「ごめんね健一君。今はさっきの話の続きをしよう」

「あ、はい」

 それからマスターは健一に『ノット』の営業目的や従業員などについていろいろ話した。

 現時点では従業員はマスターと雨宮 楓の二人。マスターはだいぶ前からだが、楓の方は二年ほど前からここで働いているらしい。仕事ができているかどうかは別として。そして、この深夜営業だがしっかりと病院にも許可をもらっているらしい。逆に昼間はマスターも楓も忙しくて店を開けないだとか。

 普通は昼間に営業すべきなんじゃないかと思った健一だが、あえて言うのも気が引けたのでそれで納得した。

「でもマスターはともかく楓ちゃんはいいの?まだ女子高生だよね?」

「あー。まぁ、私もう高校辞めてますから」

「……そうなんだ」

「あはは。優しいですね、健一さんは」

「……臆病なだけだよ」

 健一はその理由を聞くことはしなかった。

 見たところ、楓は高校二年の女子高生ぐらいだ。その時期に学校を中退するということは何かあったのだろう。その何かが悲惨なもの、そうでなかったとしても健一は触れるべきではないと思った。

 楓はそれを優しいと言ったが、健一にはそうは思えなかった。

「じゃあそろそろ失礼します。コーヒーごちそうさまでした」

「あ、もう行くんですか?」

「うん、もう遅いしね」

 そう言って健一は席を立つ。

 壁に掛けられた時計を見たらすでに深夜の2時を過ぎていた。

 すっかりこの場になごんでしまった。あの後マスターが気を利かせてくれて、コーヒーを結局四杯も飲んだ。そのため、少しトイレに行きたい気もあった健一だった。

 健一がドアの方に向かうとマスターが声をかけてきた。

「健一君」

 健一は足を止めて振り返る。するとマスターは笑顔で言った。

「ここには君の力になってくれる人がたくさんいる。だからいつでも来なさい。温かいコーヒーと一緒に迎えてあげるから」

「?……はい、わかりました。また来ます」

「あぁ」

 健一にはマスターの言葉の意味が分からなかった。しかし、歓迎されていることは伝わったので自分も笑顔で答えた。

 健一がドアを開ける。

 店内に響く鈴の音。そしてドアの先にはいつも通りの病院の廊下があった。

 健一は再度お礼を言ってカフェを出る。

 

 健一はゆっくり病室を目指した。

流石にこの時間で廊下を歩いているのは健一ぐらいしかいない。そのため、誰にも見られずに病室に着くことができた。

ベットの中に入り健一は寝る前にマスターに呼び止められた時のことを思い出す。

振り返った時に見えた楓の顔。その顔が少し悲しそうだったのは、きっと気のせいだろう。


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