第26話:女神と彼

 蓋は、しっとりとしていた。

 ラップで包まれていたせいだろう。

 水蒸気が水滴となり、蓋の丸い取っ手部分についてしまっている。

 だが、指先で触れてみると温かい。

 それはどれだけ保温性が高い状態で、そして素早く運ばれてきたのかを物語っている。

 そしてその熱は、俺の心に火をつける。

 我慢というものを忘れさせる。


 俺は欲望のまま、蓋をつまむようにして一気に解き放った。


 ――ああぁ……至極。


 ふわっと上がる湯気。

 鼻腔をくすぐる甘さと、醤油のしょっぱさ、そして出汁の香りが顔をつつむ。

 甘美さと切なさと奥深さを併せもつ熟女に、両頬を掌で包まれているかのようだ。

 それは誰もが幸せになれる母性愛。

 しかし、同時に欲望を駆りたてる淫靡な誘惑。


 そして誘惑の果てに現れしは、俺の視界の全てを奪う黄金の楽園。


 丼の上には、ふわりとしながらも濡れそぼった山吹色と鬱金色の大地が作られていた。

 真ん中には、黄土色と狐色に染まった丘。

 中央には生命の息吹を感じるかのように、わずかな緑がかいわれ大根で飾られている。

 むろんその下に眠るのは、とんかつ。


 その者、揚げた衣を纏いて 金色の野に降り立つべし。


 伝説の再来に、俺の箸を持つ手が武者震いをする。

 だが、躊躇ってはいけない。

 冷めてしまっては、犠牲となった女神にも申し訳がない。


 俺は意を決して箸を静かに突き入れる。


 すっと刺さる箸。

 黄金の丘に刺さる、それは罪深き十字架か。


 否。


 それは十字になどならない。

 2本のラインは並行に、少し離れて刺さっている。

 そして逢い引きする男女のように、迷いなく近づいていく。

 間にあるのは、とんかつ。

 パリッとした衣と分厚い肉は、求め合う2人を分かつ壁。


 いや、違った。

 壁などではなかった。

 2人は大した抵抗感もなく、見事に中央で抱擁を交わす。

 そう。とんかつが、箸できれたのだ。

 サクッという感触とジュワという感触のハーモニーを奏でながら。


 俺は、その切れたとんかつをまとった卵と一緒に箸で持ちあげる。

 分厚い。これが箸できれたとは、なかなか信じがたいものがある。


 厚みを十分に堪能してから、それを口に迎え入れる。


 ――衝撃。


 ああ、まさに衝撃だ。

 2種類の歯ごたえと共に口に広がるのは、甘味としょっぱさ。

 その後にくる、ジューシーな肉の旨味。

 くどくない脂には、旨味がたっぷりと詰まっている。

 サクッと、ジュワッと。

 噛みきれないなどと言うことはない。

 無駄な抵抗などしない、どこまでも従順に従う恋人のように身を任せ、とんかつは俺の口の中で隅々まで味わわれる。


 そして、下に眠る米をすくう。

 タレがしみた米は、そのままでもうまい。

 しかし肉のチェイサーとして口にすれば、その威力は最強コンボ技だ。


「美味い、美味すぎる……『た○秀』のかつ丼! ……ってな感じなんだけど、女神さん」


「うわわわわわぁぁぁん!! 酷い、酷すぎる!!」


 魔法でできた光のロープで縛られた女神は、芋虫のようになりながら床で転がり駄々をこねた。

 その横のテーブルでは、俺と拳士、そして美女がかつ丼を食べている。

 ちなみに、かつ丼はすべてで5杯。

 3杯が拳士、1杯が俺、もう1杯が女神……のはずだったが、女神分を美女に譲ったのだ。


 理由は、とりあえず事情を聞きたいので、女神を狙うのをやめてもらうため。

 まあ、かつ丼はその代償だ。

 美女もちょうどお腹が空いていたのと、女神がかつ丼を差しだすのを嫌がったのを見て、それならばと話に乗ったわけである。

 女神が悔しがるところを見たかったのだろう。


「ってか、一番酷いのはダーリンだ! なんでそんなに克明にかつ丼描写するの! 初めてでもないのに」


「いや、なんとなくね」


「なんとなくなの!? とにかく、ボクもかつ丼食べる!!」


「がまんしろ! だいたい食べ過ぎだろうが」


 怒る女神と俺の間に、元勇者が「まあまあ」と言いながら割ってはいる。


「久々のかつ丼だからね……まあ、かわいそうだけど、ここは我慢してもらおう」


 久々ってほどではないけどね。

 短期間にかなり食べているはずである。


 ちなみに暴れようとする女神を抑えるのは、元勇者に協力してもらった。

 魔法でできた光のロープは、元勇者の力である。

 やはり事情を知っているようで、「女神への罰はこれでもかるい」と言って積極的に手伝ってくれていた。

 しかし、女神を縛れるとは恐ろしい力である。


 とりあえず女神は、元勇者の言葉でシクシクと泣き出した。

 騒がれるよりは話しやすいかと考え、俺は女神をそのまま放置して本題の口火を切ることにする。


「さて。食べながらでわるいけど、事情を説明してもらいたいんだけど……」


 俺が美女と元勇者を順番に見ると、2人が目をあわせてから元勇者が開口した。


「なら彼女は食べていることだし、僕から話そう。実はここに来る前に、異世界神々協定本部に行っていたんだ」


「そりゃまたなんで?」


「もちろん、かつ丼を届けに」


「ですよねー」


 どんだけかつ丼が好きなんだ、異世界の神々。


「で、そのついでにある依頼を受けた。それは元勇者としての僕への依頼だった」


「そんな依頼を受けて、『た○秀』の店長に怒られないの?」


「異世界神々協定はお得意様だから」


 だから、どんだけかつ丼が好きなんだ、異世界の神々!


「それで5年ほど前に、彼女は日本のある場所で記憶喪失になって倒れていたところを保護されたんだ。だけど少し前に記憶が戻って、この女神が管理する世界にいたことがわかった。勇者候補として、女神により異世界へ送られたらしいとね」


「それがまたなんで日本に戻っていたの?」


「どうやら次元の狭間ができて、そこに落ちたらしい」


「次元の狭間?」


 俺はそんなことがあるのかと、女神の方を見た。

 すると女神も驚いたのか、泣き止んで目をパチクリさせている。

 ただし、縛られた芋虫状態で横になったままだが。


「変ですね。5年前……というか、20年前に魔獣王が転移してから、わたくしの世界で時空震動なんてありませんでしたけど……」


「そうなのか。しかし、それしか考えられないんだ。神以外の者が自分の意志で異世界転移なんて簡単にできるもんじゃないからね」


「…………」


 女神が珍しくまじめな顔で考えこむ。

 芋虫のままだけど。


「それでなんで彼女は、女神をそんなに憎んでいるの?」


「さっきも言ったけど、彼女は勇者候補として日本で記憶喪失になる18年前に転生していた。転生記録もあるからまちがいない。ただね……」


「ただ?」


「彼だったんだ」


「……はい?」


 俺は理解できず、どこかまぬけな顔で聞きかえす。


「彼……って誰?」


「彼は彼女」


「……はい?」


「つまり、彼女は転生前は男だったんだよ。40代後半の極道者だったんだ。それが女神の勝手で、美少女の赤ちゃんとして転生させられてしまったんだ。もちろん記憶を保ったままね」


「…………」


「そのまま23年間、女性として生きてきた。しかも、そのうち5年は男の記憶が完全になくなっていた。おかげで、かなり精神的にギャップができてしまってね。ほとんど二重人格になってしまっている。普段は女性なんだけど、ふとした瞬間に男に戻ってしまうんだ」


「…………」


 俺は女神をジト目で睨んだ。

 すると、それに気がついた女神が、ヒューヒューと鳴らない口笛を吹き始める。


「おい、女神さんや……本当かい?」


「え、えーっと……ほら、ね? なんというか、18年前って生まれたばかりのかわいいかわいい赤ちゃん姿だったし……」


「でも、記憶はあるんだろう?」


「あ……あります……」


「なんでそんなことした?」


「い、いや、その当時、女性の勇者が少なかったし、二枚目がお薦めというのに、見た目そのままのおっさんで転生させてくれなんて言うので……ほら、美女の方がいいかな~なんて♥」


「…………」


「…………」


「あんた、罰が『かつ丼1杯分』ですむと思うなよ……」


「――えっ!? じゃあ、何杯分!?」


「別に『かつ丼に換算しろ』とは言ってねーよ!」


 やっぱりこいつはポンコツかもしれない。



 ただ、俺もポンコツだったかもしれない。

 この時点ではまだ俺も、「大きな矛盾」に気がつくことができていなかったのだから……。


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