言葉がくれた未来②

「狭くて古いけどね、掃除は毎日してるから、遠慮なくどうぞ」


 スリッパを出される。花柄で、玄関マットも可愛らしい花柄だった。

 靴箱の上には逆さにされたドライフラワーが吊るされていて、そして彼女と同じ、あの穏やかで優しい香りが、家中を満たしていた。


 間違いなく、彼女が育った家だった。


「どうぞー」


 感傷に浸っていると、恐らくはキッチンの方からだろう。カチャカチャというグラスのぶつかる音と一緒に、俺を呼ぶ声が届く。


「お邪魔します」


 少しだけ張り上げた声が、恥ずかしいくらい震えていた。


 他人の家に上がるのは、物凄く久しぶりだった。

 遊びに行くと、仲睦まじい家族の写真が飾ってあったり、旅行のお土産が所狭しと並べられていたりしていて、そういうのが見たくなくて、俺は極力よその家に遊びに行かないようにしていた。

 そうこうしているうちにいろいろあって、誘われることもなくなって、それからは、気心の知れた貴志の家以外にはどこにも行っていない。それだって最近は、もう行くこともなくなっていて。


 ここは清潔で、明るくて、穏やかな空気が流れていて、だから俺はみっともないくらい緊張していた。


「あの」

「お茶でいいかしら?」


 開けっ放しになっていたドアから顔を覗かせれば、掲げられた水差しの中にパックが浮いていて、家で煮出した麦茶のようだった。

 けれどもほどよく冷やされた部屋のせいか、俺もそこそこ大人になったからか、はたまた彼女と過ごすうちに変わっていった心持ちのお陰か、そういう“家庭”を彷彿とさせるものを久しぶりに目にしても、俺の心は不思議と動揺せずにいられた。


「はい、いただきます」


 醜態を晒すことなく済んだことにそっと胸を撫で下ろす。


 すると目が合って、またにっこり。

 おばさんは、笑顔が平常運転のようだ。いや、違うか。最愛の娘が亡くなったのだ。人前ということで、今は気丈に振る舞っているだけなのかもしれない。

 俺には哀しい素振りなど微塵も見せず、寧ろ少しばかり楽しそうにお茶を注ぐと、ちょっと待っててねと席を勧め、そのままどこかへと行ってしまった。


 ため息をつく。大人って凄い。家族という絆で繋がれていて、俺よりもはるかに長い時を一緒に生きてきた大切な人を亡くしても、笑顔を忘れずにいられるのだから。

 今は無理でも、俺もいつかそうなれるだろうか。


 しんと静まり返った家。今はおばさん以外、誰もいないようだった。

 少しだけ部屋に視線を走らせる。ソファはそこだけよく座るのか、僅かにへこんでいる箇所が見てとれた。その窪みに彼女が収まっている姿が妙にしっくりくる気がして、あそこはきっと彼女の指定席だったに違いないと、俺は勝手に想像して微笑ましくなったりした。

 サイドボードの上には何かで表彰されたのか、色の褪せたリボンのついたトロフィーが一つだけ誇らしげに飾ってあって、その横には、なぜか信楽焼の、わりと大きな狸の置物が飾られていた。よく見るとその狸の下には無造作に置かれた一万円札が見え隠れしていて、思わずぎょっとしてしまう。

 恐らくは宅配や何かで急に現金が必要になったときのために、ということなのだろうけれども、認識してしまうと、俺は途端に落ち着かない気分になった。

 これ以上きょろきょろとよそ様のお宅を眺めまわすのも気が引けて、注がれた麦茶に視線を固定させる。

 突然何の前触れもなく来た俺がこう言っちゃなんだが、危機感が薄すぎやしないだろうか、と唐突に心配になったのだ。俺とおばさんは、彼女を通してしか知り合いではない。そんなよく知りもしない、はっきり言ってしまえばまったく知らないに等しい男を自分しかいない家にホイホイ上げて、しかも席を外すなんて。俺が何かしらの邪な考えを抱く男だったら、どうするつもりだったのだろう?

 ……でもなんだか、そんな家庭で育ったからこそ、彼女のような純粋な女の子になったのかと、微妙に納得もしてしまった。


「お待たせしてごめんなさいね」


 ほどなくして戻ってきたおばさんは、何かを大切そうに握り締めていた。すっと俺の正面に腰かけると、


「これ」


 差し出されたそれは、見ると螺鈿細工が施された小さな箱で、目で問いかければ開けるよう促される。

 大層古めかしく、良く言えばアンティークっぽい。俺は壊しやしないかと恐る恐る手を掛ける。値打ち物じゃ弁償できないぞとそっと押し上げた蓋は、見た目と違い何の抵抗もなくすんなりと開いた。


 そして――中から現れた意外な物に、俺の目は釘付けになった。


「これ、あなたが作ったんですってね」


 そこには、真っ赤な色をした、とんぼ玉のピアスが鎮座していたのだ。


「こ、これを、どこで?」

「あの子が買ってきたのよ」

「うちの大学の、学祭ですか?」

「そうそう、そりゃあもう嬉しそうにしてたもんだから。よく覚えてるわ。一昨年の秋にね。あなたに売ってもらったんですって」


 俺が、彼女に?


「覚えてないわよね。あの子、いい感じに周囲に溶け込む顔だから」

 私に似ちゃって。ふふっと笑って。

 でもね、と。

「あの子にとっては、忘れられない出来事だったみたいなの」

「何か俺と、話をしたんですか?」

「ええ」

「どんな、話を?」


 おばさんは、そうねぇ、と暫くの間考え込むようにしてから、真っ赤なとんぼ玉に目を落とした。


「あの子の病気のこと、あなたご存知?」


 知っていると言っていいのか、判断に困った。知ったのは、彼女の身体が、病院のベッドで寝ている間だからだ。


「はい。心臓が悪いということだけですが」


 しかし躊躇いつつも、するりと肯定の言葉が口を突いて出てしまった。

 純粋な人を前にすると、嘘というのは非常につきにくいものらしかった。


「あの子の心臓にはね、産まれつき、穴が開いていたの。激しい運動もままならなくて、手術も何回もしたし、なんで自分だけって」


 健康な身体を持って産まれてくるのが当たり前だと、きっとみんなどこかでそう思っている。

 子供にとって、両親とは無条件に愛してくれる存在であると信じて疑わないのと同じように。

 それが崩れればやっぱり、どうして自分だけと疑問を持ち嘆くのは、彼女も俺も同じだと思った。


「私もね、健康に産んであげられなかったことが、すごく凛に申し訳なくて。でも、このピアスを買って来た日に、あの子、この心臓も悪くないかもって」

「え?」

「このピアス、気泡がたくさん入ってるじゃない?」


 おばさんが一つ手に取り、窓辺から射し込む光にかざした。


「真っ赤で、穴がたくさん開いてて、自分の心臓みたいだとでも思ったのね。失敗作じゃないんですか? って、あの子あなたにそう訊いたそうよ。本当に、失礼な子でごめんなさいね」


 覚えてはいない。でも確かに、レジンで作られた他の子のピアスと比べると、俺のは断然気泡が多くて、失敗作に見えないこともなかった。


「そしたらあなた、持ち味だって言ったんですって。そのときもこうやって持ち上げて、陽にかざして、光がたくさん屈折するから綺麗だろ? って。これがあるから世界で一つ、唯一無二になれるんだって」


 俺がそんな臭い台詞を口にしていたことにまず驚いた。貴志じゃなくて本当に俺が言ったのだろうか? もしそうなら、失敗作だと言われたことにムッとなり、むきになっていたのかもしれない。


「そのときのあなたはもちろん、凛の病気のことは知らなかっただろうし、特に意図してその言葉を言ったわけではなかったのだろうけど、あの子にとっては、きっと何よりも慰めになったのかもしれないわね」


 知らなかった。本当にまったく、何も覚えていない。

 けど、俺が何の気なしに放った言葉によって救われた気持ちになった人がいたというのも、また事実だった。

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