10.言葉がくれた未来

言葉がくれた未来①

 彼女一人が欠けてしまった、俺にとっては非日常な、それでいて世界にとっては何一つ変わらない日常が戻ってきた。


 男はきっちり仕事をしたようで、彼女のことは誰一人として覚えていなかった。

 けれども、どうしてかは分からなくとも、雰囲気が柔らかくなったとか、表情が豊かになったとか、俺がそんな風に変わったということだけは皆覚えているようで、確かに彼女はここにいたのだと、俺はそれを自分を通して感じ取れることが切なくも嬉しかったりした。

 もっともそんな俺も、また元の暗くて無愛想な俺に戻りつつあるから、周りには何かあったのかと思いの外心配されたりして、知らぬ間に広がっていた交友関係に、やっぱり彼女の影響をそんなところでも感じたりした。


 誰ともこの想いを共有できないことを少し寂しくも思うが、だからといって、記憶がなくなれば良かったなどとは少しも思わない。

 彼女はいつだって、色褪せることなく、俺の目の前で楽しそうに笑ってくれるのだから。


 もう彼女は、荼毘に付されてしまっただろうか?

 赤の他人である俺が葬儀になど出席できるわけないけれども、最後にもう一度、彼女の顔が見たかった。


 そう思って、ふと。

 それなら見に行けばいいんじゃないか? と。彼女に変えてもらった俺が、とんと背中を押した。


 俺は彼女と両想いだったのだ。あと少し時間があれば、間違いなく恋人同士だった。そんな男なら、お線香をあげに行くくらい、許されるんじゃないだろうか。


 親に何でも話すような子、という気もする。その場合、突然彼氏(予定)と名乗る男が訪ねて来て、家族は寝耳に水な来訪者に慌ててしまうかもしれない。父親に「娘にそんな男はいなかったはずだ!」とか怒鳴られたりなんかして。

 でもきっと、あんなに素敵なお嬢さんを育てた家族ならば、手を合わせたいと来た人間を、追い返したりはしないだろう。

 と、そんな妄想をして、俺は少しだけ可笑しな気持ちになった。そしてそんなことを妄想するだけの元気があることに、ちょっとだけ驚いた。

 

 そういえば先日、ドキリとする出来事があった。

 広瀬さんが、彼女の、恩田さんの話を俺にしたのだ。

 彼女あれから、来ないね、と。


 あれというのがお財布の一件のことを指していて、彼女というのが恩田さんであると気付いたときは、広瀬さんにも記憶が残っているのかと一瞬期待したのだけれども、よく考えたら、あのときの彼女はまだ“ゴトウアヤノ”ではなかっただけだった。


 広瀬さんが言うには、その日、彼女に少しだけ意地悪をしてしまったらしい。

 けれども知り合いなのかと訊けば、そうではないと言う。広瀬さんが女の子に意地悪をする、という場面がまったく想像できなくて、俺は首を傾げるばかり。

 結局その疑問に答えてもらうことはできなかったのだけれども、どうやら自分のせいで来なくなってしまったのではないかと気に病んでいるようだった。

 違うんですよ、と言えないことを心苦しく思いながらも、だからといってなぜ彼女が来られないのか、その理由を俺が知っているにはあまりに不自然で、ましてやそれを説明できるわけもなく、勘違いのままにするしかないことに、心の中でそっと謝るしかできなかった。


 ここのアールグレイが好きだったみたいなのになぁ。そんな風に零していて、やっぱり知り合いなんじゃないかと訝しげに尋ねた俺は、彼女が常連さんだったと聞いて、ほとほとあの頃の自分に呆れた。



「お先に失礼します」


 バイト上がりに、店で仕入れているアールグレイの茶葉と焼き菓子を購入した。

 彼女とあれだけいろいろ話したけれども、好きなものや興味のあるものといった話題にはそういえば及んだことがなく、何を持っていけば良いものかと悩んでいたので、朗報だった。


 お疲れさん、広瀬さんに肩を叩かれたので、軽く会釈をして店を出た。

 強い陽射しに、うるさい蝉の洗礼が降り注ぐ。


 通りの向こう、マネキンが目に入った。

 あそこから彼女はいつも、俺を眺めていたのだなと、何だかくすぐったい気持ちになって見つめる。俺がここで広瀬さんと騒いでいたことも、訪ねて行って聞かされた後藤彩乃さんのインフルエンザのことも、そりゃ知ってるわけだ。

 そういえば彼女は、転ぶと服の汚れを気にしていたように思う。今ならそれが一大事だと分かった。売り物なのだから、汚すわけにはいかなかったのだ。


 思い至る要素はたくさんあったのかもしれない。けど、まさかマネキンに魂が宿っているなんて、やっぱりもう中二じゃない俺には、どんなに飛躍させても想像の遥か斜め上だった。


 坂道を、えっちらおっちらと上っていく。情報をくれたお礼に、広瀬さんが申し訳なく思っていることも一緒に伝えてあげよう。


 目指しといてなんだが、彼女の家がどこにあるのかは、実はまだ分かっていない。

 とんでもない行動力を身に付けたものだと、自分で自分に笑ってしまう。でも俺だってもちろん、当てずっぽうでこの炎天下の中をうろうろ歩き回ろうというわけでもない。

 いつだったか、彼女と男が口論していたあの一通の十字路。もしかしたら、家はその近辺なのではないかと、そんな気がしたのだ。

 一番の未練があのピアスだったとしても、寝ている家族の顔を見付からないようにこっそりと見に行く。普通の関係を築けている家族ならば、別れを惜しんでそんな行動に出るのではないかと、そんな風に思ったのだ。


 俺が咄嗟に隠れたゴミステーションを過ぎると、足を緩め慎重に、今度は『恩田』の表札を探し始める。

 すると、何の悪戯か『後藤』の表札が見付かった。柵越しに庭を覗くと、人の良さそうな老夫婦が何事かを話しながら庭仕事をしているのが見える。

 彼女と男の口論を聞かずにここへと辿り着いていたら、俺はもしかしたらこのお宅へ突撃していたかもしれないと、あのときの自分ならやりかねない行動に肝を冷やしながらも、そんな事態にならなくて良かったと小さく笑った。


「……あら?」


 と、前方から、声がかかった。

 振り向けば、白いレースの日傘を差した優しそうな、でも、おばさん、と呼んでも恐らくは失礼にあたらないような年齢の人と目が合った。念のため後ろを確認するが、今この通りにいるのは、この人と俺の二人だけ。ということは、今の言葉は間違いなく、俺に向けてのものだ。でもいくら見つめても、記憶の引き出しからは出てこない。

 そもそも“おばさん”というような年代の人で俺が知っているのは、貴志のお母さんと、小さい頃にやたらと俺を励ましてきたあのおばさんくらいだ。もちろんこの人は、そのどちらでもなかった。


 けれども、ふと。誰かの面影がよぎる。

 そして俺は、思い至った瞬間息を呑んだ。もしかして、と。


「あなた、あの喫茶店の男の子じゃない?」


 おばさんは、嬉しそうに声をあげた。

 笑うと、目元がますますそっくりだった。


「は、はい。香月柊司と言います。あの、あなたは……凛さんの?」

「あら、分かるの?」

 頬に手をあて、もっと嬉しそうに。

「もしかして、あの子に会いに来てくれたのかしら?」

 と。


 俺はごくりと唾を呑み込む。


「はい」

「あらあら、ふふ。私今からね、実はあなたに会いに行こうと、あの喫茶店へ向かっているところだったの。そしたら向こうから本人が来るんだもの。驚いちゃった。さあさあ、是非うちに寄っていってちょうだい」

 暑いものねぇ。


 どうして俺に会いに? とか、何だか思ったより歓迎されている感じとか、何でか俺のことを物凄く知っている感じとか、訊きたいことはたくさんあったけど、おばさんは結構さっさと一人で歩いて行ってしまって、俺は宙ぶらりんな疑問を抱えたまま、その背を追うこととなった。

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