告白と、さよならと④

「――これで、仲直り、できますか?」

「え?」


 しゃくりあげ、途切れ途切れになった声。汚れた手で涙を拭った彼女の頬に、黒い泥の跡が一筋走った。


「私のせいで、本当に、本当にごめんなさい」


 悲痛な声音。深々と下げられた頭。

 私のせいってなんだ? 仲直りって誰と? どれもこれも、いったい何なんだ。


 彼女の肩に手を掛けた。上を向かせたい。謝罪が欲しいわけじゃないんだ。

 ただ、こちらを見て、目を見てきちんと説明してほしかった。

 きみが貫き通した壮大な嘘には、何かのっぴきならない理由があった、そうなんだろう? 


 掴むとより一層華奢な肩。笑ったときに小さく揺れた、あの可愛らしい肩が、今こんなにも震えていて、俺に許しを求めている。

 泣きじゃくる彼女は、必死で何かを言葉にしようとしてるようだったが、止まらぬ嗚咽に、それはことごとく失敗に終わっていた。


 居た堪れない思いが頭をもたげる。

 なんで俺は、こんな守るべき象徴であるかのようなか弱い女の子に謝られていて、頭を下げられているのだろう? と。

 何も解決していないことは分かっている。でも、ひどく打ちひしがれた女の子を目の前にしてあれこれ言い募るなんて、そんな父親みたいな男の風上にも置けないような真似、俺にはできなかった。

 代わりに湧き上がるのは、ただただ、儚げで驚くほどあえかな存在である彼女を、女の子を、初めてこの腕に抱きしめてやりたいと思う気持ち。

 知りたいことは山ほどあるはずなのに、必死な彼女の姿が痛いほどに胸を打つ。もうそんなのどうでもいいと、すべて投げ出してしまいたい衝動に駆られた。


 思考を放棄し、小さな体を、思いのままに引き寄せる。スローモーションのように倒れ込んでくる彼女を、この胸に掻き抱こうと、腕に力を込めた。


 そのときだった。


「――――今度は、誰よ?」


 冷水のように浴びせられた、またしても震える声。

 はっとして先に振り返ったのは、彼女の方だった。


「違うんですっ!」


 どこにそんな力があったのか、突き飛ばさんばかりの勢いに腕は弾かれ、思わずたたらを踏む。よろけた俺には目もくれず、彼女は怒りの形相を浮かべる声の主、朝比奈さんへと小走りに寄って行った。

 でも。

 その途中で、盛大に躓き転んでしまう。拍子にガシャンと奇妙な音が響き渡った。


「信じられない。柊司先輩って本っ当に最低!」


 地面に伏した彼女を一瞥し、吐き捨てるようにして踵を返す朝比奈さん。

 待って待ってと叫びながら、立ち上がれないほど足を捻ったのか、懸命に手を伸ばす彼女。


「追って! 追ってください! 早く、早くっ!」


 説得は聞き入れてもらえないと悟ったのか、今度は俺に向かって、最後は悲鳴に近かった。

 どうして彼女が、そんな鬼気迫ったようになってまで、朝比奈さんを追うよう懇願するのだろう。彼女と朝比奈さんは、顔見知りなのか? 


 困惑すると同時に、なぜだか俺はふと、そういえば似たような台詞を似たようなシチュエーションで、以前にもかけられたことがあったことを思い出した。

 どうしてだろうか。急に記憶の引き出しをこじ開けた、この台詞。

 なぜ唐突に、そんなことが気になったのだろう?

 記憶をたどるように瞳を伏せ、そして。


 ……そうか。記憶を呼び起こしたのは、この声だ、と。


 思い至った瞬間、俺の全身には、びっしりと鳥肌が立っていた。

 ――そうだ、この声は、あの日の彼女の声で間違いない。


 でも、そうと気付いたところで、それはそれでまた新たな混乱を呼び起こした。

 だってこんなの、普通に考えたらありえない。顔だって全然違う、髪型だって背格好だって、何から何まで違っていて、同じ所を見付ける方が難しいくらいだ。

 何がどうしたら、こんな事態になり得る?

 けれどもたくさんの否定を並べながら、それでも俺は、あの日の彼女と目の前の彼女が、なぜだか重なって見えるような気がして仕方がなかった。


「きみは――」


 すると、


「チッ、やっぱり来てんじゃねぇか!」

「だから言ったじゃない」


 立て続けに現れる、貴志と篠崎さん。


「……貴志? どうして?」


 唖然とした瞳を向ければ、


「どうしてもこうしてもない。性懲りもなく、お前のとこに行こうとするから、柊司は柊司で、もう別の道進み始めてるって説得してたのに、途中で逃げられて、巻かれて」


 懸命に探し回ってくれたのだろう。はあはあと、二人は肩で息をしていた。


 貴史は泣いている彼女に目を向けると、もう一度だけ朝比奈さんが走り去った方角をちらりと見やり、腰に手を当て苛立たしげに舌打ちをした。


 両手で顔を覆うようにして蹲る彼女。その服は、転んだ態勢で朝比奈さんを追い縋ろうとしたからなのか、スカートが腿のあたりまで捲り上がっていた。

 露わになった、その脚。目のやり場に困り、慌てて視線を逸らそうとして――でも俺は、そうすることができなかった。


「まったく、なんであんなに執着してんのかね」


 呼吸を落ち着かせるためか、呆れの入り混じった嘆息か、そんな貴志の吐息を聞きながら、フラフラと彼女に近付く。


 転んだとき、確かに変な音がした。何か固いものが、勢いよく倒れたときのようなそんな音だった。

 よく転ぶ、彼女。

 近付けば、それはより一層はっきりと。


「どうなってるん、だ……?」


 思わず凝視してしまったその先。見えていたのは、ロボットのような、人工的な白い皮膚に走る継ぎ目と、剥き出しになった関節。

 義足、だったのか? でも俺はその考えに即座に首を振った。彼女がこの緑地へ向かう後ろ姿を何度も目にした。走っていたことだってあったし、しゃがむことも立ち上がることも、彼女は難なくやってのけていた。その動きが不自然だと思ったことも、一度もない。

 いくら精巧に作られていたとしたって、これだけ近くにいて見抜けないほど、自然に動けるものなんて、聞いたことがなかった。

 それに俺は、女性の脚をじろじろ眺めるなんて失礼だと注意されたあの日に一度、彼女の脚をこの目でしっかりと見ているのだ。そのときは、確かに普通の脚だった。


 一歩、また一歩と吸い寄せられるように彼女に近付く。

 分からないことばかりで、でも全てを知りたいと願うには、理解できる範疇を超え過ぎている気がしてならない。

 踏みしめる雑草がくしゃりくしゃりと音を立てる。まるで自分の心が踏み荒らされているようで、嫌な痛みが胸の中に広がっていった。


 話すようになって、彼女のことを、少しだけど分かったような気になっていた。

 でも今の俺は、彼女の本当の名前も、彼女が本当はどこの誰なのかも知らない。今がどういう状況になっていて、彼女の体にいったい何が起こっているのかも分からない。

 思考回路がパンクしそうなほど頭を巡らせているのに、俺の中にある知識ではどう足掻いたって何一つ回答ははじき出せなかった。

 求めるように、あと一歩の所にある、彼女の肩に手を伸ばす。


 ――パキン。


 そのときだった。

 底冷えする冬の早朝、池に張った分厚い氷が何かの拍子に勢いよく割れたような、そんな音が突如耳の奥で響いた。キンとした甲高い衝撃に鼓膜が痛みを感じ、耳を押さえながら反射的に瞼を閉じる。


「いって」


 けれども声を発して、その異常さに気付いた。

 不自然なまでに、全てが静まり返っていたのだ。

 恐る恐る瞼を上げれば、俺は信じられない光景に目を疑った。


 この瞳に映る世界全てが、瞬き一つの短い間を経て、一斉に動くことを止めていたのだ。


 そよぐ風に揺れる草も、横断歩道の間抜けな電子音も、歩く人も、車も、貴志も篠崎さんも。舞い散る落ち葉は重力を無視し、俺の目の前で宙に浮いたまま。


 慌てて首を巡らせ、彼女を確認する。どうなったのだろうかと、無事なのだろうかと。

 しかしその姿を瞳に収めた瞬間、俺の身体はぎくりと強張った。


 ゆっくりと顔を上げる彼女。そう、彼女は無事だった。

 でも、その隣には――いつの間にか男が立っていたのだ。


「あんた……」


 逢坂と名乗った、でも実際は得体の知れない、あの男だった。

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