ゴトウ アヤノ③
自分でも信じられないくらいの行動力に少しの戸惑いが頭をもたげたが、それを振り切るように、一度下った喫茶店からの坂道を駆け足で上り直す。
彼女は空が白み始めると、必ずこの道を通って帰っていく。もう少し上った高台のようになっているところに住んでいるらしかったから、取りあえずはそこを目指すことに決めた。
こんな非常識な時間に彼女の家を訪ねようとか、そんな大それたことを考えたわけじゃない。というか、ほとんど何も考えずに飛び出てきてしまった。
闇雲に彷徨って会えるわけでもないけど、もし彼女が今日こそはと思ってくれていたら、暗い夜道で怖い思いなどしていないかと、今更になって心配になったのも本当だ。
最後の日に会ったとき、不自然に転んだ彼女の姿も気になった。もしかしたら足を悪くしているとか、そういうことだったのかもしれない。それなら尚更。
などとつらつら色々なことを考えつつ、けれどもいつの間にか全速力になっていた足に、結局はどう言い繕っても、全ては俺が彼女に会いたいというただその口実に過ぎないのだと気付いた。
もし今夜会うことができて、ここまで来た俺を気持ち悪がられたりしたら、それはそれで思いを断ち切る良いきっかけになる気がした。
直接、とにかく直接会って、否定でもいい。肯定だったら嬉しいけれども、何でもいい。本人の口から、何らかの言葉を聞きたかった。
そして、そして俺は――俺にもまだ、重たい石にも負けず、これほどまでに波立つ感情が抱けるということを教えてくれた彼女に、きちんとお礼を言いたかった。
上り切れば今度は慎重に、『ゴトウ』の表札を探す。“ゴトウ”と聞いてまず思い浮かんだのは『後藤』だけれども、もしかしたら『梧桐』かもしれないし、『五嶋』かもしれない。あらゆる読み方の可能性を考えながら、首を巡らせる。
前方にマンションが見えてきて、彼女の家がそうでないことを願った。オートロックの場合、一戸一戸の名前を確認することは不可能に近い。もし運よく入れたとしても、常駐の管理人がいるかもしれないし、そうでなかったとしても、じっとポストを確認する男なんて、警察に通報されかねない。
すぐに解決策の見付からない問題は後回しだ。
とりあえずはと、先に戸建を回り切ろうと歩を進めたところで――しかしどこからか、微かに男女の言い争うような声が聞こえてきた。
時計に目を落とせば、零時をちょうど回ったばかり。
こんな深夜にはた迷惑な。俺の気持ちに同調したのか、どこからか鬱陶しそうな犬の遠吠えが一つ。
そしてそれは、思いもよらない、一方通行の細い十字路を右に折れてすぐのことだった。
二十メートルほど先だろうか。
俺は咄嗟に、近くにあったゴミステーションの陰に潜り込んだ。
辺りはひっそりと闇に沈んでいる。こちらの姿は見えなかったと思いたい。
そんな遠くまで聞こえるはずもないのに、激しく脈打つ鼓動に、鎮まれ鎮まれと念じながら、もう一度どうしても確かめたくて、意味がないことと知りつつも息を殺し、そっと頭を出した。
薄暗い街灯の下、それでもやっぱり間違いなかった。
言い争いをしていたのは、ゴトウさんと、そして彼女が勤める店の店長、逢坂と名乗ったあの男だった。
「もう…………って……ない…………」
「き……め……こと…………」
どんなに耳をそばだてても、詳細までは聞き取れない。かといって、これ以上近付くことも無理だ。
必死な彼女と、厳しい顔をした逢坂さん。縋り付くように、彼女は逢坂さんの胸のあたりの服をぎゅっと掴んでいた。
頭を引っ込め、俺も自分の胸の上で拳をきつく握りしめる。
震える吐息を肺から全て絞り出すようにして、体を小さく縮こまらせた。
あの距離感――もしかして彼女と彼は、恋人同士だったのではないだろうか。
毎夜毎夜、自分の彼女が別の男と会っていたら、そりゃあ浮気も疑われるだろう。俺のせいで、俺が手伝うなんて言ったせいで、彼と喧嘩になってしまったのだろうか? 優しい彼女は、他人の親切を無下にできなかったに違いない。それに甘えたせいで、彼女たちの関係をダメにしてしまったのだろうか?
いや、もしかしたらまだ間に合うかもしれない。
一度しか話したことはないが、あの日の逢坂さんは彼女のことを心配していて、俺から遠ざけたように見えた。ならば、俺を避け始めた彼女の態度は正解だ。
このまま、二度と親しくなど振る舞わなければ、俺が一方的に彼女に付きまとっていたと納得してくれる。
時間はかかるかもしれないが、もう二度と、顔を合わさなければ――……
自分で願ったというのに、ひどく哀しくて、ひどく切なかった。
湧き上がる胸の痛みを抑え込むように、一つ大きく深呼吸。そんなことで簡単に気持ちなど切り替えられるわけなかったけれども。
それでも回らない頭でだって、ここにいるべきではないことははっきり分かった。見付かりでもしたら、二人の仲はますますこじれてしまう。
俺は物音を立てないようにゆっくりと中腰になり、そのままの姿勢で速足に、曲がり角へと身を滑り込ませた。
ダメだと思いつつも少しだけ振り返ってしまって、ほっとしなきゃいけないのに、後悔ばかりが胸を刺した。
見えた彼女は、辺りをはばかることなく大きな声で泣いていて、彼は、そんな彼女の髪を、優しい手つきで撫でていた。
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