ゴトウ アヤノ②

 彼女はそれから暫くの間、緑地には顔を見せず、店でも働く姿は一向に見受けられなくて、長引く不調にさすがに心配になってきた頃だった。


 それでも俺は欠かさず宝石探しに繰り出すため、ここのところ毎日入っているクローズの作業をしながら、ついつい向かいの店に目をやってしまう。今日こそ明かりが灯るのではないかと、そんな期待を込めて。

 すると案の定、久しぶりにクローズに入った広瀬さんがそんな俺を不思議そうに見やった。


「どうかした?」

「あ、いえ」


 詳細を話す気にはなれなかった。話してしまえば、人の良い広瀬さんはならば手伝うと言いかねなかったし、そうなってしまえば、二人きりの時間はたちまち終わりを迎えてしまう。

 願を掛けているのだし、必死に探す彼女にとっては、一人でも探してくれる人が増えた方がいいだろうことは分かっているのに。


「なになに」


 それでも興味深そうな瞳を向ける広瀬さんに、これくらいは良いかと、核心には触れず話すことにした。


「向かいの店のゴトウさんて店員さん、分かります?」

「んー、ああ、うん。あの感じのいい子ね。BLTサンドが好きな子でしょ?」


 そこまでは知らなかった。というか、少なくとも彼女は、知り合ってから俺がいるときに店に来たことがない。

 よく考えたら、宝石探しをするようになってからも、身の上話をするのはいつも俺で、彼女のことはほとんど何も知らないことに気付いた。


「その人、ずっとインフルエンザで休んでるらしくて。何ていうか、結構長引いてるみたいなんで、大丈夫かなぁと」

「――え? 俺、昨日見たけど」


 きょとんとする広瀬さん。

 反して俺の胸は、ザワリとさざめいた。


「え? ど、どこで?」

「どこって……昼間、向こうの店の前で」

 普通に掃除してたよ。


 少しの間、理解が追いつかなかった。でも体の方は、いち早く望ましくない事態を把握したみたいに、ドッドッと心臓が嫌な音をたて始めていた。


 彼女は……既に出勤していた? ということはつまり、治ったということだ。なのに昨日、緑地には現れなかった。

 これを俺は、どう解釈するべきなのだろう? 重い過去を背負った男となんて、面倒になってもう会いたくなくなった? 


「彼女に何か用事?」

「あ、いえ」


 その後は適当に返しながらも、俺の頭はなぜだという気持ちでいっぱいだった。

 相当変な受け答えをしていたのだろう。広瀬さんは少しすると訝しげな顔になって、とうとうついには話しかけることをやめたようだった。


 暑いのか寒いのか、変な汗をかきながら必死に考える。良い方に、良い方にと。

 そう、もしかしたら、答えは案外簡単なのかもしれない。

 たとえば失せ物が見付かったとか。……いや、それなら一言、もう見つかりましたと言いに来てくれるはずだ。じゃあ暫くは体調が悪いから、夜はしっかり寝ている? 親に深夜の外出を見咎められた? 

 どれもこれも当てはまりそうで、でもどの理由でも、彼女は俺にそれを言いに来てくれるのではないかと思った。毎日ではないが昼間だって、俺はこの喫茶店でバイトをしているのだから。

 どんなに自分にとって都合のいい理由を打ち立てたところで、今まで接してきた彼女の人柄が全てを論破してしまった。


 バイト上がりに、広瀬さんに飲みに行かないかと誘われたが、俺はそれを丁重に断った。もしかしたら、突如態度のおかしくなった俺を心配して、気晴らしにでも誘ってくれたのかもしれない。でもとてもそんな気にはなれなかった。

 それにもし、万が一、今日彼女が緑地に現れるようなことがあったら、俺は後悔してもしきれない。

 もう一度頭を下げ、広瀬さんの背が見えなくなったところで踵を返し、一目散に緑地へ向かう。もしかしたら居るかもしれないと、淡い期待を胸に抱いて。でも、やっぱりその期待は裏切られてしまった。


 それでも俺は、一人になった緑地で草を掻き分け、ちょっとだけ何やってんだろうって思いながら、懸命に彼女との繋がりを探すように目を凝らす。


 チクリとした痛みを感じ目をやれば、もう既に何匹目かも分からない、腕にとまった蚊。苛立ちながら叩き潰した拍子に、べしゃっと広がる血。

 それを見て、対照的だった彼女の真っ白な腕が思い出された。

 小さくため息をつき視線を上げる。するとそこには、今日も威嚇ポーズを取るカマキリが一匹。そんなに嫌なら隠れてろよと、言葉なんて通じるわけもなく、ましてやこちらの方が理不尽な侵略者であることは棚に上げて遭遇率の高さに悪態をついたところで、不意に彼女の台詞が蘇った。


『あなたはお父さんと、話すことができます』


 あのときは、親父に対する俺の心の葛藤を思ってこの言葉をかけてくれたんだろうけど、まさしく今の状況にも、これは当てはまるんじゃないかと思ったんだ。

 あれこれ推測しても、直接本人に訊かなければ真実は決して分からない。一人で考えれば考えるほど、どうしてもネガティブな方に思考は傾きがちになる。


 俺と彼女は同じ人間で、話をすることができる。

 もしかしたら、分かり合うことはもうできないかもしれない。それでも、納得ならどうだろうか。

 彼女が改めて教えてくれた、言語というツールを獲得した人間だけが行うことのできる、会話の大切さ。重要さ。俺は今まで大した努力もせず、それを蔑ろにしてきたけれども。


 思い立った俺は、気合を入れるように膝いついた泥を勢いよくはたいた。

 ベンチに放ってあったカバンからノートを取り出し一枚破くと、入れ違いになったときのためにと『すぐ戻ります』の文字と余白に日付と時間を書き残し、手近にあった大きめの石を乗せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る