8.ゴトウ アヤノ

ゴトウ アヤノ①

 ふと、視線を感じた気がして振り返った。

 厚く垂れ込めた雲が空を覆い、まだ昼過ぎだというのに気味が悪いほど暗い屋外に目をやれば、けれども煌々と明かりのついた向かいの店舗は、前面がガラス張りで中がよく見渡せた。

 と、一際強く、紫の閃光が瞬いた。きゃっという誰かの微かな悲鳴。ほぼ同時に雷鳴が轟き、通りのアスファルトには、急速に大量のドット模様が描かれ始めた。

 一瞬にしてけぶるように変化した視界の向こう、ショーウィンドウに立つマネキンの装いは、最後に会ったあの日に、彼女が着ていたものと同じだった。


 ため息をついて頭を振る。だから何だと言うのだ、仕事に集中しなければ。


 俺は拭いていた灰皿を脇に寄せると、中途半端になっていたオーニングを張り出すべく外に出た。

 こんなときにわざわざデッキ席に座る酔狂な人もいないかと思ったが、世の中にはいろんな嗜好の人がいる。以前テレビで、雷を見るとうっとりすると言っていた女優がいたのを思い出し、それならば一つくらい、そんな人のために席を用意しておいたほうがいいのではないかと、まあ店が暇なもんだから、万が一の可能性に備えてとか思ってしまったりしたのだ。


 けれども当然というか、いざ外に出てみれば、一粒だってかなりの大きさの雨粒がシャワーのように降り注げば、途端にびしょ濡れになる。おたおたする俺の姿を見かねた広瀬さんが俺の意図を汲んで先回りしてくれたのか、見事な上背に見合った立派な膂力に物を言わせて二脚ずつ、机と椅子をあっという間に引っ張り込んでくれた。


「ありがとうございます」

「何やってんの」

 オーニングは中でも操作できるでしょ。振り返れば、苦笑した店長がカウンター脇にあるスイッチを押していた。手動で回して出すこともできるが、中のスイッチで出すことも可能だ。

 思い出しもしなかったなんて、思ったよりも身が入っていないらしい。


「うっかり忘れてました」

「何やってんの」


 さきほどと同じセリフを、さきほどより苦笑を強くして、ちょっとばかり呆れたように繰り返す。


「雷好きの人がいたときのために、席を用意しようかと……」

「え? 雷好き? よく分かんないけど……見たけりゃ窓際の席に座ればいいんじゃないの?」

 上からは凌げても、これだけ降ってりゃ跳ね返りでびしょ濡れでしょ。視線を辿れば、少しの間だったというのに、俺も広瀬さんも、ズボンの裾は水を吸って重たく変色していた。

 今しがた張り出したばかりのオーニングからはもう、ちょっとした滝のようになった雨水が勢いよく落下していく。


「……確かに」

「ははっ。どうしたの? 何か疲れてる?」


 体は確かに連日の徹夜で疲れているけれども、近頃の不調の原因がそれでないことは、もう明確だった。


「二人とも着替えておいで。今ちょうどお客さん少ないし」


 夏といえどもクーラーの効いた店内に戻れば、雨を吸って張り付いた制服は気持ち悪いし寒いしで、その下に数えきれないほどの鳥肌をこさえていた俺は、ありがたくバックヤードで予備の制服に着替えさせてもらった。


 客足は少なく、外の雨は勢力を維持している。


「こんな日でも、お向かいさんは賑やかだねぇ」


 ぼーっと外を眺めていると、店長も手持無沙汰なのか、先程俺が拭いていた灰皿の続きを自ら始めながら、同じように外へと目を向けた。

 勢いよくぶつかってくる水滴の付いたガラスを二枚隔てた向こうには、どれにしようかと、真剣な眼差しの女の子たち。アドバイスしつつ、とてもお似合いですよ、そんな常套句が聞こえてきそうな店員の笑顔。


 そこでふと、俺はあることに思い至った。

 彼女に、ゴトウさんに会いたければ、向かいの店へ行けばいいのだ、と。会うのは決まっていつも深夜、だからつい夜中しか会えないと勝手に思い込んでいたけれども、そんなわけない。

 そう考えれば、先ほど感じた視線は、彼女のものなんじゃないだろうかという気がしてきた。現れなかったここ数日間を思えば、挙動不審を地でいく彼女のことだ、後ろめたく感じてこちらをこそこそ伺うなんて、そんな姿、容易に想像できてしまった。


 俺は休憩時間になると、備品である一番大ぶりの傘を手に、意を決して向かいの店へ。初めて陽があるうちに会うことに、何だか妙な緊張感があった。

 扉を開けば、条件反射のような甘ったるい「いらっしゃいませー」に迎えられ、少々身を縮める。ギャルソン姿で尚且つ男の俺は、異質な者として大層注目を浴びたけれども、向かいの店の者だと知っている店員さんは、お店で何か必要になりました? と、俺が来た理由で一番無難な答えを導き出してくれたようだった。


「いや、違うんですけど……」


 そう言えば、接客業としての微笑みは絶やさず、でも、じゃあ何の用だろう? と不思議そうな瞳が向けられる。

 別に悪いことをしているわけでもないのに、俺はそれにたじたじしながら、ゴトウアヤノさんいらっしゃいますか? と早口で告げた。


「彩乃ちゃん?」

「ええ」


 知り合いでしたっけ? 今度は少し訝しげに。

 そんな素振りはなかったけど、とでも思っているのだろう。でも本当に知り合いなのだから仕方がない。

 俺と探し物をしていることは、あの男前な店長以外には黙っているようだ。

 頷けば、


「今日は休みですよ」


 なんともあっさりと。


「休み?」

「ええ。季節外れのインフルエンザだって言ってましたけど」

「そ、そうですか」


 そうか、そうなのか……。

 空回りした気合に拍子抜けした反面、俺はあからさまにほっとしてしまった。

 そうかそうかそうなのかと何度も何度も反芻すれば、えも言われぬ不安で波立っていた心は次第に凪いでいく。

 大変な思いをしている彼女には申し訳ないけれども、俺の気分は少しだけ上向いた。それなら、来られないのは仕方がない、と。


 よく考えたら俺たちは、名前しかお互い知らない。年齢も、連絡先も、住所も、何も知らないのだ。バイトのお向かいさん、この関係がなくなってしまえば、俺たちを結ぶ糸は、いとも簡単にぷっつりと切れてしまうということを、改めて思い知らされた。

 次会ったら、今回のことを口実に連絡先を交換しよう。俺にだって、突如来られない事態が発生することは無きにしも非ずなのだから。


「お大事にって伝えてください」


 ぺこりと頭を下げれば、あ、はい、と答えたに声に、今度は隠しきれない好奇心が滲んでいた。

 ちょっとばかり厄介な人に声をかけてしまったかもしれないと、多少の後悔はしたものの、それならそれでいいかと思う自分もいた。


 胸には何でかずっと、自分でもよく分からない懸念が燻ぶっていたのだ。

 突如毎夜のように、遅くまで明かりが灯るようになった店。でも当初俺が疑ったような、窃盗事件といった類が発生したという騒ぎは一切耳にしていない。もしそうなら、遅くまで営業しているこちらの方に、怪しい人物を見かけなかったかと一度は警察が訪れたことだろうからだ。


 店で働くときは、ここのブランドの服を着るということが義務付けられているようだし、彼女が従業員であることはもはや疑いようのない事実であるのに……いまいちそれが信じ切れていなかった。

 俺にとっては夜中にしか現れない彼女は、美しい人形のような容姿と相まって、実は自分にだけしか見ることのできない幻か何かで、本当は存在してなどいないんじゃないかとか、そんな奇妙な妄執にとらわれたりもした。

 昼間店で会えるということに考えが及ばなかったのも、そんな思いが頭の片隅に、常にこびりついていたからなのかもしれない。


 でも彼女が、見ず知らずの俺を騙くらかそうと、店長にまで協力を依頼するような性質の悪いドッキリを仕組んでいない限り、“ゴトウアヤノ”という人物は確かにここにいて、この店に勤めている。今はインフルエンザで休んでいるけれども、治ればまた戻るだろうし、緑地へも顔を出してくれることだろう。


 昼間はここで働いて、夜は失せ物探しをして。

 この時期にインフルエンザに罹るなんて、そんな不摂生な生活を送っていたのだから無理もないと、俺は微かな呆れと、大きな安堵の入り混じった情けない吐息をもらした。

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