一歩、踏み出せたなら⑦
伝えたってうまくいかないこともある、残念だけれど、これもきっと動かしようのない事実だ。でもだからといって伝えること自体を止めてしまえば、それは最初からあったかどうかも疑わしくなってしまう。
けれども伝えればこうして、誰かの心に風を吹かすことだって、百回に一回かもしれないけれども、できるのだ。
その機会を、俺はずっと逃してきた。
「お茶、買ってきますね」
見なかったことにしてくれるのか、俺がこっそり涙を拭えるよう配慮してくれたのか。
ありがたく手の甲に落ちた雫を拭い、ポケットから、いつの物なのか分からない、突っ込みっぱなしになっていたよれよれのティッシュを取り出して、洟を一回だけかんだ。
そっと瞼を閉じる。
もう、この気持ちを認めざるを得ない。
貴志が背中を押してくれた。ならば俺も、踏み出してみようか。
でもやっぱり、いきなりは難しい。幼い頃から凝り固まった思考と心は、まだまだ俺に二の足を踏ませる。
どうすればこの重い脚を動かせるだろうか、そう考えたところで、この探し物を一つの契機にしてみてはどうだろうかと思い立った。
探し物に、願を掛けるのだ。
見付けることができたら、今度はこんな夜中じゃなく、昼間に。一緒にどこかへ出掛けませんかと、誘ってみよう。
そうと決まればと、彼女のお陰で少しだけ行き場を見付けることができた思いと、零せた涙のせいか、幾分軽くなった体を起こす。
そんな俺の姿に気付き、自販機から戻って来る彼女が笑みを浮かべた――そのときだった。
がくんとその身体がつんのめる。
手から離れ、ゴロゴロと転がってきたペットボトルに恐れをなし、飛び上がる虫たち。
大丈夫? 慌てて駆け寄った俺は、けれども尋常じゃないほど狼狽した彼女の様子に、少しばかり動揺した。
瞳は驚愕したように見開かれていて、忙しなく宙を彷徨う。痛がっているとかそういった素振りではなかったが、唇が微かに動いていて、彼女はしきりに何かを呟いているようだった。
「ゴトウ……さん?」
聞こえているのかいないのか。視線はやがて脚に留まり、力なく上がった腕が三回ほど、膝の辺りをそうろりと撫でた。
綺麗に耳に掛けられていた髪が今は滑り落ちていて、隠されてしまった顔を窺い知ることはできない。
痛いのだろうか? 転んだ時のリアクションとしてはあまりにも不自然で、いったいどうしたのだろうと見つめれば、今日も恐らくはお店のブランドと同じ服だろう可愛らしいロングのプリーツスカートから覗く、相変わらず綺麗な真っ白の脚が目に入る。
ぱっと見は大丈夫だった。擦り剥いている感じでもないし、赤くもなってはいない。
でもそこでふと、気付いた。
真っ白な、脚。
視線をずらせば、やはりそこには真っ白な手の甲があって、半袖から覗くのは、同じく真っ白な、腕。
そう、彼女は俺と違って、ちっとも蚊に刺されてなどいなかったのだ。
言いようのない不安がよぎる。
別に、不自然じゃないだろ、とか急いで言い訳を考えてみたりした。強力な虫除けでも塗ってきているのかもしれないじゃないか、とか。
それでも一切刺されないというのは、なんとなくおかしくも思えたけど、その考えには蓋をした。
それなのに俺の目は、皿のようにして彼女の素肌を見つめる。
一箇所くらい刺されていれば、安心するんだろうか? 何に安心するんだろう? 蓋をしたはずなのに溢れ出てくる、よく分からない思考に怯えながら、自問自答を繰り返す。
「女性の足をじろじろ眺めるなんて、失礼ですよ!」
すると、いつの間にか普段の調子に戻っていたゴトウさんは、少しだけ膨れ、スカートをきっちり整えてすっかり脚を隠してしまった。
「ご、ごめん」
そう言われれば確かにと俺もバツが悪くなって、視線をあさっての方向へと逸らす。
動揺を隠すようにペットボトルを拾いに戻りながら、大丈夫? もう一度そう声をかければ、彼女はしっかりと頷いた。
「飲んだらまた……探そうか」
咳払いなんてして、自分でもあからさま過ぎると思ったが、かと言ってここで馬鹿正直に、いや何で蚊に刺されてないのかと思ってなどと答えて、強力な虫除けの情報を聞き出すのも違う気がしたし、得体の知れない答えを聞かされるなんて、もっての外だった。
「あ、あの、ごめんなさい。お説教みたいに偉そうなこと言っちゃって。ホント、すみません。実はすごく緊張してて、急に気が抜けちゃったみたいです」
彼女はそう、俺の背中に向かって、急に躓いた理由を取って付けたように繰り出した。
緊張してて、と、気が抜けちゃったの間に、エヘ、という妙な愛想笑いが入っていたのも気になったし、正直に言ってしまえば釈然としない点は色々と多かったが、濁した理由を無理に訊き出すことはしなかった。
いや、正直に言えば訊き出せなかったのだ。訊き出すなと、心の奥が囁いたのだ。
それに、と一縷の望みを心に宿す。挙動不審を地で行く彼女のことだ。本当にただ単に転んだだけで、恥ずかしくて咄嗟にそんな言い訳をしてしまっただけなのかもしれない。
肩を貸したときに支えた彼女の腕が、少しだけ震えていたことには気付かない振りをした。
一口二口飲み、俺は全てを振り払うように早々に立ち上がる。
一刻も早く、失せ物を見付けたかった。見付けて、彼女を昼間誘って、明るい陽の下で隣り合って歩けたなら、なぜか分からないけど全てが解決する気がしたんだ。
携帯のライトをオンにする。虫のように、青い宝石もこの明りに引き寄せられてくれたら、そんなありもしない願望を抱いて、文字通り草の根を分けて探し始めた。
暫くすれば落ち着いた彼女も、失せ物探しを再開する。
それでも結局、そんな都合よく見付かってはくれなくて、何度か休憩を挟み、空が白むころにはまた明日、といつものように別れた。
別れ際、特に変わったところはなかったように思えた。
でもきっと、ざわつく俺の心は、何かを予感していたのかもしれない。
次の日も、その次の日も、空が白むまで待つ俺の元に、彼女が現れることはついぞなかった。
――その日を境にぱったりと、彼女は姿を見せなくなった。
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