一歩、踏み出せたなら⑥

 懺悔のような掠れ声は、彼女の耳にどう響いただろうか

 俺は、瞬時に後悔した。

 毎晩会っていたのがそんな男だったなんて、驚きを通り越して恐怖すら感じているに違いない。

 拒絶の言葉が今にも浴びせられそうで、怯えた俺は、次の言葉を矢継ぎ早に繰り出した。


「両親は、俺が物心ついたころにはもう既に、毎日毎日喧嘩が絶えないほどの不仲になってた。仲良いときがあったなんて想像できないくらい、小さなことでいがみ合って、大きな声で罵り合って。それで、俺が小学校二年生に上がったばかりのある日、遂に離婚したんだ」


 口が渇く。心がせめぎ合う。

 誰かに聞いてほしくて、楽になりたくて、でも、嫌われたくない。自分がこんなに女々しいだなんて、ちっとも知らなかった。


 まるで止めるなら今だとでも言うように、喉が貼りついて言葉が出るのを邪魔する。  それでも俺は、抗うようにゆっくりと深呼吸を一つ。そうして何とか絞り出した唾液を、難儀して飲みこんだ。


「母さんはさ、俺と二人ならわりと明るいときもあって、ジョークなんて言ったりもして。まだそんな歳とってたわけでもなかったし、俺がいない方が新しい生活を新しい誰かとやり直せるんじゃないかって子供ながらに考えて、考えて考えて考え抜いて、結局父親に付いていくことを選んだ」


 じっとりとした汗をシャツが吸って、ひどく気持ち悪い。けれども反して指先は、異様なほど冷たかった。


「でもその選択は、間違ってた。母さんは俺に捨てられたと絶望して、そして……自殺したんだ」


 今なら分かるのに。今なら間違えないのに。

 母さんは、明るくて社交的であった一方、反動のようにひどく沈んだり、異常なまでに落ち込んでいるときもあった。あれは、双極性障害という躁と鬱を繰り返す、精神の病気だったのだ。

 親権を取りにくいはずの父親に俺がすんなり引き取られたのにも、そういう背景があったからに違いない。


 仲睦まじい家族を目にするたび、どうしてうちはそうではないのだろうと、よその家庭を羨み、自分の親を憎たらしく思ったりもした。けれども決して不幸になればいいと、そんな風に考えていたわけではない。実際俺は、みんなが幸せになれそうな選択を、最終的にしたつもりだった。

 母さんが新しい家族を得て幸せになった姿を実際見せられていたら、それはそれで複雑な気分になっていたかもしれないけれども、それでも。


「母さんを選べばよかった? って葬儀のときに、俺は親父にそう訊いた。そしたら、少なくとも、お前が母親を選んでも、俺は自殺しなかったってそう言ってさ。お前が母さんを殺したんだって、暗にそう言われたんだと思った。

 親父が、俺を引き取りたいと言ったくれたことなんて、もうそのときにはうやむやになってて。バカ真面目に、どっちについていけば一番いい結果になるんだろうって悩んだ自分が滑稽すぎて、笑うに笑えなかった」


 ははっと今度こそ笑おうとして、でも失敗した。やっぱり俺には、作り笑いは向いていないらしい。


「その話、お父さんには?」


 どんな言葉が降ってくるのだろう、戦々恐々としていた俺は、想像とは違った至って普通の問いかけに、一瞬戸惑う。

 けれどもどんな感情が込められているのかは少しも分からなくて、内心はひどく怯えてもいた。


「……するわけない」


 したところで、何かが変わるとも思えなかった。


 すると彼女はすっくと立ちあがって、俺の注意を引くように、ある一点を指差した。目を向ければそこにはいつぞやのように葉にとまり、こちらを威嚇する一匹のカマキリ。


「彼女は、マキです」

「――え?」


 突拍子もない展開に困惑した俺をよそに、ゴトウさんは芝居がかった言動をエスカレートさせていく。


「カマキリの、マキ」

「彼女?」

「ええ」

「どうして、雌だと?」

「わたしが決めました!」


 くわっと音がしそうなほどの迫力に、つい気圧される。


「そ、そう」

 終着点はいったいどこなのか、俺が引いても、彼女の意味不明な持論は続くようだった。


「わたしがそう思っているということをマキは知りませんから、問題ありません。そしてマキは、何もむやみやたらにわたしたちを敵視しているわけではありません。彼女は産卵期です。だから卵を守ろうと気が立っている」


 恐らくその設定も、彼女が今勝手に決めたのだろう。

 カマキリの産卵期が本来は秋であるということは、口を挟める雰囲気でもないのでこの際黙っておく。


「私たちとマキは種族が違いますから、意思の疎通は図れません。だから、こう言っといてなんですが、本当のところは、残念ながら決して分かりません。分かり合うことも、きっと一生ないでしょう」


 そして不意に饒舌だった言葉を切り、面持ちを固くして瞬きを数回。ゴトウさんは俺の目に視線を戻し、「でもあなたはお父さんと、話すことができます」と続けた。


 直後俺は、告白した己の罪に怯えていたことも忘れ、なんだ、と。結局は説教じみた話の顛末に、少しだけ鼻白んだ。

 知った風な口きかないでくれ、と。

 でも……それを言う気にはなれなかった。彼女の顔はとても強張っていて、この台詞を言うには、物凄く勇気がいったんじゃないかと思ったからだ。

 似たようなことをたくさん言われてきていることも、恐らく察しがついていただろうに。


 けれども彼女が、今までそういう台詞をさんざん俺に浴びせてきた訳知り顔の奴らと違ったのは、同情の代名詞のような「それは大変ですね」とか、慰めの代名詞のような「でも大丈夫ですよ」といった類の、無責任な気休めを口にしなかったことだ。


「そう、なんだけどね」


 あえて被らないようにしてきた、父親との生活時間。休みの日だって何をしてるか知らないし、出張にでも行っているのか、帰らない日が何日か続くこともある。同じ家に住んでいるというのに、一ヶ月くらいは余裕で顔を合わせない。

 いつしか、話すことの方が不自然になってしまった。


「でも、急に実行するのは無理でしょう?」


 知らずに出ていたため息に、彼女が言葉を乗せてくる。


「……無理だな」


 ポツリと夜空へ放てば、


「だから分からないうちは、相手の事情をそうやって、自分の都合の良いように解釈するんです。

 ……そうすれば少しは、気が楽になりませんか?」と。


 ポカンとしてしまった俺は、暫く経って漸く、カマキリ云々の話はここへ通じていたのかと合点がいく。

 相変わらず、遠回しすぎるんだ。


「そうして少しだけ、気を緩めてみませんか? なんなら暫くの間、宇宙へ放り出すのもいいかもしれません」


 でもそれは、まるで魔法のように。


「言葉が自然と出てくるそのときまでは、分からないことは自分に優しく解釈しちゃうんです」


 長い間雁字搦めになっていた俺の呪縛をするっと解いてしまって。

 カッコ悪いとか思う暇もなく、瞳からは十年越しで溶かされた鬱屈が、一粒零れた。


「そしたらきっといつの間にか、勇気の出せるときが来ています」


 細められた目が、淡く輝く月のように俺の心を引き寄せる。


 そういえば彼女はいつも、どんなときでも、思いを言葉にしてくれた。きっと、たくさんの勇気を振り絞って。

 まるで、俺のあるべき姿というものを、身を持って教えてくれているかのように。


 両親から一番縁遠かった愛というものに、伝えてもうまくいかなくなる言葉というものに、意味を見いだせなくなっていた。

 でも確かに今、彼女の言葉は俺の心に届いたのだ。

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