一歩、踏み出せたなら④

 ずぞぞぞぞーっとはしたない音が耳元で響いて、我に返った。

 徐に喧騒が耳に流れ込んでくる。

 おっ? そんな声に目を向ければ、頬杖を突いて、ちょっとばかり楽しそうに俺を眺めている、あの頃よりも随分大きく、逞しくなった貴志。


 手にはいつの間に買ってきたのか、特大サイズの紙コップが握られていて、中央に刺さった透明なストローの中を、体に悪そうな緑色の液体が、気泡を引き連れてぐんぐんと上っていくところだった。


「お帰り」


 らしくなく、随分と長いこと呆けてしまった。


「……何だよ、その顔」


 夜中に女の子と会ってる俺が物思いに耽るなんて、困ったことになったと思ってるんじゃないのか?


「べっつにー」

「お」

「――上原、と香月」


 と、俺が口を開きかけたところで、背後から声が掛かった。


「よう」


 貴志が親しげに手を上げる。俺は、名前を呼ばれたにもかかわらず、申し訳ないことに誰だか分らなかった。


「眠そうだな」


 そいつは、苦笑に近い笑みを浮かべて貴志の隣に腰かけると、俺をちらりと見やり、きつねうどんの乗ったトレイをテーブルへと置いた。


「そうそう、こいつ、お疲れなの」

「色男も、大変だな」


 勢いよくすすり、咀嚼しながら笑みを深める。嘲笑かと思いきや、そこには同情の色が見え隠れしていて、俺は戸惑った。

 噂が届いてないなんてこと、ないだろうに。

 貴志に目をやったが、笑ってヒョイと、肩を竦めて見せただけ。

 でも俺は、そのとき不意に思い至った。

 ――“柊司君を守る会”だ。

 あの日喫茶店で膝を突き合わせていた貴志と篠崎さんは、広い人脈を生かして、俺の噂の火消しに尽力してくれていた、きっとそういうことだ。


「ありがとう。それと……ごめん」


 どんな手を使って沈めてくれたのかは分からなかったが、元からあまりいい噂のない俺だ、大変だったろうことは、容易に想像がついた。

 露ほども知らず新たな厄介事に首を突っ込んでいる、貴志は、俺の苦労も知らないで、そう思っているだろうと目を伏せたのだけれども。


「んなことはどうでもいいの。考えることと行動すること、この二つがいつでも一緒じゃないって気付けただけで、俺は多大なる進歩だと思うわけ」


 明るい声。

 俺の心のことなのに、何でか貴志の方が随分と詳しいのだ。


「……なあ」

「ん?」

「その子と居るとさ、どんな気分?」

「え?」


 公の場ではあまり歓迎できない話題なだけに軽率じゃないかと目を向ければ、貴志の隣に座ったきつねうどんの男は、もう一方の隣に座っている可愛らしい女の子とのお喋りに夢中になっていた。そういうところは、やっぱり抜かりない。


 貴志の顔に上っているのは、珍しく、何の含みもない笑みだった。


「どんな気分?」


 もう一度訊かれる。

 だから俺も、ありのままを話そうと思った。貴志には、そうするのが筋な気がした。


「……温かい、落ち着く。あとは、楽しい……んだと思う。

 ごめん、抽象的すぎてよく分かんないよな。でも勿体付けてるとかじゃなくて、正直俺にもよく分かんないんだ。どれもこれも、あまり経験したことない感情で、いざ言葉にするとなると凄く難しい」


 恐らく望んでいたような答えではなかったはずなのに、貴志は笑いながらただ頷いただけだった。


「じゃあ、どんな子?」

「……ちょっと天然、なのかな。でもいつも一生懸命で、人の心配ばかりしているような、そんな子」


 そうか、深く背もたれに寄りかかった貴志の口から出たのは、安堵交じりのため息のような声だった。


「可愛い?」

「神レベルだな」

「マジかっ! 即答かっ!」

 最高じゃん会わせてくれよ! 一転、はしゃいだように俺に向かって手を合わせてくる。


 俺はそれに苦笑を返しながら、

「お前にさ、似てるんだ」

 と。


「え? この顔?」


 なのに自分を指差して、まさかの男前ちゃん? なんて茶化して言うから。


「いや、性格。人の心配ばかりしているような、お節介だけどありがたい、そんな性格」


 わざとはっきりとカウンターを返せば、貴志は少しの間呆けて、でもすぐに泣き出しそうな顔になりながら「それ、マジ最高じゃん」と笑った。


 感謝してる、とはなかなか面と向かっては恥ずかしくて言えないけれども、俺の気持ちも、これで少しは伝えることができただろうか。

 彼女に会わなければ、俺は貴志の言葉の深層にまでは気付けなかっただろうし、こうして自分の気持ちを言葉にして伝えたいと思うこともなかっただろう。


「お前さ、雰囲気変わったな」

「そう?」

「うん。嬉しいような、悔しいような」

「何だそれ」


 ははっと貴志は少しだけ声に出して笑いながら緩く首を振ると、

「一個、訊いていい?」

 と、窓の外へ目をやった。


「何?」

「余計なこと、かもしれないけど。てか、絶対に俺は大丈夫だと確信してることなんだけど、一応お前に分からせる良いチャンスだと思って」

「うん?」

「柊司の、足枷あしかせの話」

「足枷?」


 珍しく、持って回ったような言い方をしてくる。

 俺が首を傾げれば、とっくに外れてただろ? と。


「何の話?」

「……親父さんの話だよ」


 思わずはっと、息を呑んだ。


「柊司、その子と話しててもさ、声を荒げようなんて、一度も思わなかっただろ?」

「……うん」


 やっぱりこいつは、人の心配ばかりしている。


「ずっと捕らわれてたから、未だにくっついてるような気がしてただけだったんだよ」


 そして俺の瞳をしっかりと捉えて。


「何も心配はいらない。お前の足枷は、もう、とっくの昔に外れてる」

 だから、何の憂いもなく、思うがままに行動てみろよな。


 グッと唇を噛み締めた。


 俺の背を力いっぱい叩いた貴志は、自分のことのように、嬉しそうに微笑んでいた。

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