一歩、踏み出せたなら③

 彼女はきっと、笑顔は向けられた人のためではなく、自分のためのものなのだと、そう言いたいのだろう。

 楽しくないのに、人に合わせて笑う。哀しいのに、それを押し込めて笑顔を作る。確かに空気を読むとか、人に心配かけないとか、そういった場面では大いに役立つ処世術かもしれないけれども、作り笑いをした後に押し寄せてくるのは、明るい気持ちとは裏腹の、途轍もない精神の疲労だ。


『それに』

 すると彼女は俺に目を向け、

『香月さんは、結構笑っていると思うんです』

 と頬を緩めた。


 きょとんとする。


『ここ数日で、わたし数えきれないくらい香月さんの笑顔を見ましたよ。笑い声だって聞きました』


 確かにそう言われれば、彼女と話している俺はよく笑っているかもしれない。あまりにも自然だったから、それが普段らしからぬ自分だということすら気付いていなかった。


 笑顔というのはもしかしたら、本来はそういうものなのかもしれない。気付いたら、知らないうちに、そんな言葉が頭に付く笑顔こそが。


『そんな優しい笑顔の人にいろいろ言うなんて、それこそ失礼だもの。

 それに、気の利いたこと言えないとか、場を和ませるような楽しい話ができないとか、そんなの全部香月さんの思い込みです。だってわたし、香月さんと話しててそう思ったこと、一度だってないもの』


 彼女は微笑んでいて、でもいつの間にか外れた視線は、見るともなしに遠くへと向けられているようだった。

 ここ数日での話をしているはずなのに、目を細めたその表情は、なんでか遠い昔を懐かしんでいるようにも見えて、俺は少しだけ戸惑う。


『うん』


 けれども頷いてから、それは些末なことだと思った。

 たとえ今ここでそれを思い出したとして、今更言い出す方が失礼な気もするし、今感じている彼女の印象がそれによって大きく変わることは恐らくないだろう。

 もし仮に、俺とあった何かしらの過去の出来事に思いを馳せて彼女が話しているのだとしても、察するにそれほど悪印象というわけではなさそうだ。ならばこうして過ごすうちに、俺も自然と思い出す日が来るかもしれない。


 何よりも、ありのままの自分を肯定してもらえる日が来るなんて、俺にはそっちの方が遥かに奇跡のような出来事だったんだ。


 いつも、いつでも、俺の心の中には漬物石みたいな平たくて大きくて重い塊があって、それが何かある度にプレスしてくる感覚があった。

 喧嘩の絶えない両親を見て、最初は俺も、仲良くしてくれよとか、ややもするともっと荒く、ふざけんなとか、そうやって食って掛かってみたこともあった。けれどもある日、それはとんでもなく無駄なことだと気付いたんだ。

 所詮子供の言うことなんて、口出しするんじゃない! なんて一蹴されて歯牙にもかけてもらえない。全身全霊で訴えたって、大きな大人の怒鳴り声一つで、まるでなかったことのようにされてしまう。いや、余計に怒らせたという点で、寧ろマイナスにしかならない。だったら初めからそんな体力の無駄遣い、するだけ損だと悟ったんだ。

 それからは、何か感情が波打つたびに、無駄だ無駄だと、敷かれた重しで均される。そうなった俺の心は、いつしか少しの感情じゃうまく機能してくれなくなった。


 どんな経緯でだったかはもう忘れてしまったが、貴志には一度だけそんな話をしたことがあった。

 まだまだ小さいガキの頃だったから、言ったら他人がどう思うかなんて考えもしなかったんだろう。ストレートに伝え過ぎた。

 思えばあいつの過保護は、そこからエスカレートしていったように思う。


 あのときの貴志の顔を、俺は今も忘れられない。

 まるでぶたれた子犬みたいな目になって、子供の細い腕のどこにこんな力があるのかってくらい、俺はぎゅうぎゅうに抱きしめられた。

 男同士で何やってんだとか、ほんの少しだけそんな体裁のようなものが頭を掠めたような気もするけど、温かくて、同い年とは思えないくらい頼もしくて、気付いたら俺もそんな貴志にしがみついていた。そしたら何でか、一人でいるときには出てくる気配の全くなかった涙が、次から次へと溢れ出してきて、最終的には二人して、寒い寒い冬の公園の遊具の中で、わんわんと大きな声でひとしきり泣いた。


 心配した近所の人が貴志の母親を呼んできてくれるまで、結局俺たちが泣きやむことはなくて、その後はもちろん帰り着いた貴志の家で、心配したおばさんの怖いくらいの剣幕に慄きながら洗いざらい喋らされ、事情を知った貴志の家族によって、俺はいつにも増して構い倒されたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る