一歩、踏み出せたなら②
『俺、手伝わない方が良い?』
真夜中のベンチに腰掛け、いつものように休憩を取りながら、食品会社の陰謀のようにいつも体脂肪対策の緑茶以外が売り切れているいつもの自販機で、それしか選択肢が存在しないからやっぱりいつもの緑茶を買い、キャップを捻ったところで俺は昨晩そう切り出した。
大して気の利いたこともできていない。こちらとしては親切心のようなもので手伝っているけれども、彼女にしてみたら、探し物の詳細を明かさなかった時点で、俺の存在は迷惑なのかもしれないと、何日も経って漸くそこに思い至ったのだ。
年上のはずの俺が情けない感情をポツリと零したって、真摯に拾ってくれたりなんかして、でもそれだって彼女がそういう性格なだけで本当はいい迷惑だったのかもしれない。
問いかければ、ゴトウさんは、うん、とも、ううん、ともつかない眼差しで俺をひたと見つめた。
その表情は、雨の日に家の軒先でばったり遭遇した野良猫を彷彿とさせた。
雨宿りしたい、かといって可愛らしく擦り寄ることもできない。そんな懇願と拒絶の入り混じった、複雑な瞳。
『遠慮してほしくて言ったわけじゃないんだ』
このままだと何故だか謝られる気がして、謝罪なんて聞きたくない俺の口からは、咄嗟に言い訳じみた言葉が出てしまった。
『え?』
『ただ、一人で探したかったのかもしれないと、そう思ったんだ。ただそれだけ。今更だけど』
無理やり一緒に探しておいて、本当に今更だけど。
一人がいいですなんて言われてしまったって、夜中の探し物を止めない限りやっぱり俺には手伝うっていう一択しかないのだけど。
『そんな。……ありがたいと、思ってます』
妙な間が、言葉の裏にある躊躇いを匂わせた。
膝に置かれた、スカートを握り締める真っ白な手。
気付きながらも、じゃあ帰るね、と言えない自分。
『ごめん』
ペットボトルの蓋を、意味もなく緩めたり締めたりしながら、自分でもよく分からない心の葛藤に怯える。
『え?』
『気の利いたことも言えなくて、その上人の思いを察するのが苦手だ、と思う。場を和ませるような楽しい話も、優しい笑顔も作れない』
お節介なのか、そうでないのか。いた方が良いのか、そうでないのか。経験値の低い俺は彼女の瞳を見ただけじゃ、何一つ正解が分からない。
それに皆知り合って少し経つと、必ずと言って良いほど言ってくる。もっと笑った方が、楽しいのにって。
『そんなこと、ありません』
けれども彼女は俺としっかり目を合わせ、もう一度、ありません、と固く繰り返した。
『どうして?』
なんでそんな風に、断言できる?
『知ってますから』
『何を?』
俺が怪訝な瞳を向ければ、彼女は少しだけ狼狽えたように視線を彷徨わせ、お向かいさんですから! と。
お客さんと接する俺、バイト仲間と接する俺を、目にする機会の多いゴトウさんは、たびたび見る俺の姿にそう思ったらしい。
『そういえば今日だって、広瀬さんと肩を組んでいて、何だか楽しそうでした』
朝比奈さんと一悶着あったあの日以来、広瀬さんはやけに馴れ馴れしくなった。今まではきっちり一線引いた体だったのに、何でかすっかり、聳え立っているはずの壁を乗り越えてくるようになったのだ。今までと、高さは変わらないはずの壁を。
『あれは、楽しいっていうのかな』
今日は、アニマルプラネットでやっていたという『ビックリ動物カウントダウン』を見た感想を、えらく興奮気味に語っていた。俺がそんなに動物好きじゃないなんてことは、広瀬さんには関係ないらしい。
もちろん彼が有料チャンネルに登録してまで愛でたいと思うほどの動物好きだったなんて、俺は今までちっとも知らなかった。
『広瀬さんの笑い声が、こちらにまで聞こえてきていました』
ふふっと笑いながら、頬に手を当てた彼女の細い肩が小さく揺れる。
ドキリとした。
そんな何気ない一瞬のしぐさが、妙に可愛らしかったのだ。
遠くに住む大切な友人から不意に送られてきた絵葉書を、丁寧にしまうみたいに、心にそっと収めたくなる、そんなくらいに。
『それに、笑顔だけが優しさじゃないと、私は思うんです』
彼女の微笑む顔は、そう言いながらもやっぱりとても優しげだった。
『……そうかな? 目に見える形としては、一番無難じゃない?』
『確かに、感情が見えないよりは、にこやかにしてくれていた方が、傍にいる人は安心するんでしょう』
『うん』
『けど、じゃあ自分は?』
思いもよらなかった問い掛けに、困惑する。真意を図りかねていると、
『楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ。と、ウィリアム・ジェームスは言いました』
誰だろう? もしかして、偉人?
『アメリカの哲学者であり、心理学者です』
俺の疑問を読み取ったのか、彼女が答えをくれる。
やはりまたもや飛び出した偉人。けれども前回とは違い、今回はこの人物について知っているようだった。
なるほどそう言われれば、確かに心理学者らしい言葉だと、俺は一つ頷いた。
『でもわたし、この言葉をあまり好きにはなれません』
『どうして?』
『だって、楽しくもないのに笑顔を作ることで、楽しくなったり安心したりするのは、自分自身ではないですから』
そんなの、本当は虚しいだけですから、瞼を伏せそう続けた彼女は、言葉の最後をため息と共に吐き出した。
声に出したことで思ったよりも重く圧し掛かってしまったネガティブな感情を、少しでも軽くするかのように。
『そんな風に思いながら振り撒く笑顔に、わたしなら誤魔化されたくない。だってそういうときの笑顔って、大抵は心の声と丸っきり正反対だもの』
その切実さに、実感が込められているんじゃないかと思ったのは、気のせいだろうか。
彼女はときどき、その年頃にしては随分と達観したような言葉を吐いたりする。
傍から見れば、しっかりした考えを持つお嬢さん、ということになるのかもしれない。でもそれがあまりいいことのように思えないのは、俺がそういう類の言葉を彼女の口から聞くときは決まって、その表情が浮かないせいだろう。
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