7.一歩、踏み出せたなら
一歩、踏み出せたなら①
刺すような強い光が突如まぶたの裏を刺し、脊髄反射のように眉根が寄った。強制的に意識が覚醒させられていく。
学食の喧騒が徐々に聞こえはじめたところで、漸く重い頭を持ち上げれば、乗せていた手に、ブワッと血が通い、指先が奇妙な生暖かさと不快な痺れに包まれた。
腕を振って瞬きを数回、程無くして焦点が合った瞳に映ったのは、腐れ縁。そいつが日よけにと被った俺のパーカーを引っぺがし、笑顔でこちらを覗き込んでいた。
「……何?」
「最近、眠そうだね」
途端に胡散臭く見える笑み。
「ここんとこ、ほとんど家に帰ってないみたいだけど?」
何でバレたのかと思ったけれども、道路を挟んで斜向かいの貴志の家からは、そういえば俺の部屋が丸見えだった。
「帰ってるは帰ってる」
「ふーん。何時に?」
「……五時前には」
そう答えれば、大げさなリアクションでもって、泣きまねなんてことをやってきた。
「ま、まさか、遅すぎる反抗期っ!」
「おい、声がでかい」
いくら騒がしい学食であっても叫べばそれなりに響くし、それにこいつは目立つ。
慌てて貴志の腕を掴んで、強引に座らせれば、
「うわっ、何この手」
と、蚊に刺されまくった俺の腕を、逆に掴まれてしまった。
「え? まさか……何かの病気とか?」
身を乗り出す貴志。まあ確かに、気味が悪いくらい俺の腕は喰われてるけれども、この赤い斑のせいで俺が深夜に徘徊を繰り返しているなんて、どんな病気で、何のホラーだ。テレビの見すぎなんじゃないか?
呆れて、そんなわけないだろ、と軽くいなそうと思ったのに。
「大丈夫、なのか?」
心底気遣わしげな瞳を俺に向けて見せたりするもんだから、先日の彼女の言葉がチラついて、俺は妙に照れ臭くなる。
『そんなの、香月さんの心が少しでも軽くなってほしいからに決まってるじゃないですか』
俺に向ける貴志の言葉の中に、そんな思いが込められているなんて言うから。
「蚊に刺されただけだ、大丈夫」
ちょっとばかりむず痒い思いでぶっきらぼうに答えれば、なんだ、と多少は安堵の色を浮かべたものの、しかし解せない表情は変わらない。
「こんだけ刺されるって、どんな僻地で夜な夜な過ごしてるんだよ」
最早肌色の面積の方が少ない! 目を皿にして、昔やった罰ゲームの雑巾絞りのように、俺の腕をぎゅうっと捻ったりするもんだから堪らない。
「痒みがぶり返すからやめてくれ」
腕を振れば、ごめん、と、視線は腕に釘付けのまま、想像した痒みに怯えたのか、貴志は自分の腕を擦った。
「喫茶店の近くの緑地、あるだろ? あそこで探し物してるんだよ」
「喫茶店? てどこの?」
首を傾げる貴志に、思わず心の中で突っ込む。恐ろしく行動範囲の狭い俺が知る喫茶店で、且つお前の認識と共通する場所なんて、一つしかないだろ、と。
「俺のバイト先」
「あ、ああ。あの横断歩道の所か。探し物?」
「ああ」
「何」
「宝石……みたいなもの?」
別に俺が隠したくて言葉を濁してるわけじゃないのに、貴志ははっきり言えとでもいうように片眉を跳ね上げる。
「は? てか何で疑問形? しかも何で夜中?」
「……それは、俺が訊きたいくらい」
貴志から視線を外し、俺は知らずため息をついてしまった。
あの日以来、やっぱり彼女のことが気になってしまって、とにかく夜中の失せ物探しを、何としてでも止めさせたかった。
案の定彼女は、俺がクローズのシフトに入っていなかった間も、一人で、しかも一晩中、あの緑地を探し回っていたと言う。
毎夜毎夜、彼女からしたら既に耳タコだろう、探し物は昼間にするべきだと諭しているのに、それは無理だと譲らない。
何故そんな変なとこで意固地になる?
確かに勤め人である身としては、なかなか難しいことかもしれないが、昼休憩とか、休みだって労基署のうるさいこのご時世、全くないってことは考えられない。
しかも学生の身ならばこうして昼寝もしやすいが、彼女は日中、この睡魔とどう折り合いをつけているのだろう。
「俺が訊きたいくらいって……誰かと一緒?」
「……まあ」
よっぽど意外だったのだろう。あまり物事に動じない貴志が、少しだけ目を見開いて、そして俺の飲みかけのお冷を勝手に呷ると、頭をガシガシと掻いた。
「訊いていい?」
「何?」
「それって、女の子?」
宝石を探してるってんだから、そりゃバレるよな。
「……まあ」
曖昧に頷けば、もう一度、今度はもっと強く頭を掻いた。
無頓着なようで計算されている、貴志の少し癖のある茶髪が、ただのぼさぼさ頭へと変わる様を見ながら、俺だって分からないんだよ、と一人ごちる。
朝比奈さんのことも片付いていないのに、他の、しかも女の子にかかずらっている場合でないことは俺だって百も承知だ。けど何でか、夜になると足が向いてしまうのだ。
初日の酔っ払いを見たせいだろうか。
彼女はずっと、あんな調子なんだ。突拍子もなくて、全く予想がつかない。くるくるとよく変わる表情。
でも言葉は意外と核心を突いていて、それでいて気分を害していないかと臆病そうにおずおずとこちらを窺う。
遠回しすぎて言いたいことが少しだけ分かりにくかったりすることもあるけど、それでも彼女の言葉が胸に響くのは、いつも凄く一生懸命だからだ。一生懸命に、他人である俺の言葉に耳を澄ませて、心の声を聞こうとするからだ。
そんなことされたら、普段は鬱陶しいと思うはずなのに、あのひたむきさがそれをさせない。させる前に、別の感情を呼び起こす。
彼女はきっと、最大限気を配って発した言葉であっても、相手が必ずしも良い方向に解釈してくれるばかりではないことを、知っているのだ。
でも裏を返せば、自然とそういった気遣いが身に付くような環境に彼女がいるということで、考えてしまうとそれもそれで、俺を落ち着かない気分にさせる。
危うい無邪気さと、とてつもない思慮深さがひどくミスマッチな彼女。
あまり器用ではなさそうなあの性格が、あるいは俺をほっとけない気持ちにさせるのかもしれない。
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