結局は、大好きってことなんです⑤

『――バイバインって知ってます?』

『ばいばいん?』

『そう、バイバイン。ドラえもんの道具です』


 何の脈絡もなさそうな唐突な話だったからか、彼はとても驚いた顔をして、


『ますます、そっくり』


 でもそう言った後、なぜかはっきりと破顔した。


『え?』

『俺の友人』

 あいつもよく、変なドラえもんの道具を引き合いに出してくるんだ。何かを思い出したように、少しだけ声に出してそう笑った。


『ご友人も、ドラえもんがお好きなんですか?』

『うん』

『じゃあバイバインの話は?』


 ドラえもんの中では比較的メジャーな道具、というかエピソードなだけに聞いたことがあるのかと思ったのだけれども。


『いや、ないな。どんな道具?』


 興味津々、そんな瞳に、初めて彼を実際の年齢よりも若いと感じた。


『液体なんです。一滴かけるだけで、どんなものでも五分毎に倍になっていきます』

『……五分で倍か。結構恐ろしいな』


 彼は宙を見つめ、計算でもしていたのか、右手の人差し指だけを忙しなく動かしていた。


『のび太くんはおやつで出た栗まんじゅうをたっくさん食べたくて、この道具をドラえもんに出してもらいました』

『……何だか、嫌な結末が予想されるな』


 彼の眉間に皺が寄る。

 いったいどんな展開を思い浮かべたのだろう? でもまさか、あの衝撃のラストは想像つくまい。


『ふふっ。どうなったと思いますか?』

『……いつもの展開からすると、処理しきれなくなったってとこじゃない?』

『うんうん、そうなんです。でもこの物語の一番驚くところは、その後なんですよ』

『? そこで終わりじゃないの? 溢れかえった栗まんじゅうに埋もれて終わり。そんな感じかと思った』


 案外詳しいっぽいその言い草にわたしは笑いを堪えながら、そのドラえもん好きの友人は、密かに彼に多くの影響を与えているんじゃないだろうかと思った。

 きっと、良い影響ばかりを。


『なんとですね、処理しきれなくなって溢れかえった栗まんじゅうを、ロケットに乗せて発射し……宇宙に捨てるんです』

『…………え? 待って』


 あまりにも予想外だったのだろう、彼は混乱したように額に手をやり、

『じゃあ、今もその栗まんじゅうは?』

 と、物語の中のことなのに、まるで本当に困った事態になったとでもいうように夜空のその奥を見つめた。


『そうなんです。宇宙でずっと増え続けてるんですよ』

『……ブラックホールにでも、吸い込まれてるといいけど』


 そして、それはそれは大層大真面目な、瞳と口調で。


『……ふ、うっふふ』


 堪らず吹き出してしまえば、ありもしない出来事に頭を悩ませたことに気付いたのだろう。キョトンとしていた彼も、わたしと目を合わせた次の瞬間、


『……ぷっ、あっははは、はははっ』


 大きな声で、本当に可笑しそうに吹き出した。


『いやだってさ、ゴトウさんがあまりにも深刻そうに話すから』


 はあ、と彼は自分を落ち着けるように一つ大きなため息をしてから、そんな風にわたしを恨みがましく見てきた。


『ふふっ。そうでしたか?』

『うん。思わず真剣に考えるくらいには』


 照れくさそうに頭を掻く彼。


『ごめんなさい』

『いや、謝るようなことじゃないけど。というか、何の話からこうなったんだっけ?』

『あっ、そうでした』


 何のためにこの話をしたのかわたし自身も忘れそうになっていて、水を向けてくれた彼に頷きながら、場を取り直すように軽く咳ばらいをした。


『悩みと、この物語の栗まんじゅうってちょっと似てるかもしれないなって、何となくさっきそう思ったんです』

『悩みと、栗まんじゅう? どの辺が?』

『うーんと、そうですね。たとえば、一生懸命頑張って処理しようと思っても、考えれば考えるその分だけ悩みの種は増えていって、いつしか身動きが取れなくなってしまうところとか。若しくは、一人ではどうにもならないことでも、それほど時間が経っていない時点で誰かに相談することができたなら、もしかしたら処理できるかもしれないところとか』

『……なるほど。確かにそう言われたら、似ているかもしれないね。じゃあ、もうどうにもならないってなったら、ロケットに乗せて宇宙に捨てちゃうってことでオッケー?』


 なんだかその言い方が彼にそぐわぬおちゃめな感じで、わたしは思わずふふっと笑いながら。


『うん』


 訊いてきたくせに、頷くのは想定外だったみたい。彼は驚いたように目を張って、でもすぐに答えを待つように、わたしの瞳をじっと見つめた。


 わたしは最初からそこも含めて、悩みと栗まんじゅうを似ていると言ったつもりだったのだけれども。


『香月さんが言ったように、悩みに押しつぶされてしまいそうな日がいつか来たら、の話ですけど』


 そう前置きすれば、彼はうんと頷きながら続きを促した。


『そしたらそれは栗まんじゅうのように、自分の与り知らぬ所へ放り出す、というのも案外名案だと思ったんです。押しつぶされそうなほどまでに増殖した悩みは、きっとその段階では、もうどんなに考えても解決することができないんだと思うから』

『それはそれで勇気がいると思うけど、ゴトウさんは、放り出したらその後は……どうなると思う?』

『そうですね、わたしの個人的な考え、ですけど』

『うん』


 わたしは気付かれないように、少しだけ息を大きく吸った。


『諦める潔さ、というのも、時として必要になるんじゃないかと思うんです。みんながみんな、全ての問題を綺麗さっぱり解決出来たら、勿論それに越したことはないけど、でも人って、自分じゃどうにもできないこと、ままならないこと、そういうのが人生の中で出てくる瞬間、ていうのがあると思うんです』

『――それは、実体験?』


 ドキリとした。暗闇にも負けない黒曜石のような瞳が、突如心を見透かすんじゃないかと息を呑んだ。

 でも彼の方もすぐに、そんなことを口走った自分自身に動揺したようだった。多分、思ったよりもプライベートな部分に突っ込んだ質問だったのだと、わたしの顔を見て気付いたのかもしれない。

 申し訳なく思いながらも、曖昧に笑ってなかったかのように続けさせてもらった。


『そんなときは、もちろん悩みの種類にもよりますけど、手を放してみるのもありなんじゃないかな、と。後で手痛いしっぺ返しがくるって考え方もできるけど、それほどまでに苛まれたのなら、心の方が先に参ってしまう。そうなるよりは、思い切って放り投げて、一旦のし掛かった重荷を全部どけてみたら、案外解決の糸口が見付かるときも、もしかしたらあるかもしれないと、そんな風に思ったりしました』

 全て、かもしれないって可能性の話で何の根拠もないですけど……。最後は取り繕ったように笑って誤魔化してしまったのだけれども。


 それなのに彼は、そんなわたしの気持ちを汲んでくれるように穏やかな目をして、


『そうか。そしたら世界は、少しだけ明るく見えるかもね』


 なんて、朝日が上る少し前の、計ったように薄ぼんやりと白み始めた空を見上げる。


 心底優しいその声音は、夜明け前の僅かな光と共に、私の中へゆっくりと染み込んでいった。

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