結局は、大好きってことなんです③
『世界では今この瞬間にも、個人の力ではどうすることもできない不条理で哀しい出来事がたくさん起こっていて、だから平和な国で育ったお前の抱える悩みなんて、それに比べたらどうってことないだろ、とか、そんなことを言う人がいたとします』
これは実際、わたしが過去に言われたことのある言葉。
『うん』
『でもこれって、本当にそうでしょうか』
他人の抱える悩みを百パーセント理解することなんて絶対に不可能なのに、どうしたら軽々しくそんな言葉が出てくるのだろうと、わたしはそのとき思ったのだ。
たとえもし、だから小さな事なんかでくよくよするなよ、と元気付けてくれようとしたのだとしても。
『自分が世界で一番不幸だって、どうしようもなく、たまらなく、そう思いたくなったときには、こういう言葉に慰められるときがあるのかもしれない。でもわたしは、この考え方自体が好きにはなれなくて。だって、言ってしまえばこれは、自分より不幸な境遇の人はたくさんいるんだから、まだ自分はマシだってそう思えってことでしょ? 私の考え方がひねくれてるのかもしれないけど……でも、これってやっぱり違うと思う。それに、重さも尺度も全然違うのに、勝手に作り上げた適当な物差しなんかで、幸せとか不幸せとかを測るなんて、誰に対しても失礼だと思うもの』
『……うん』
相槌が聞こえてから、たっぷりとあった妙な間に、わたしははっと我に返った。
『あ、えっと、ご、ごめんなさいっ』
握った拳は、力説するように胸元までせり上がっていて、慌てて膝へと戻す。
気付いたら段々とヒートアップしていて、しかもかなりの脱線気味。思いっきり語ってしまった自分が、何だか急に恥ずかしくなった。
それにこれじゃあどういう話がしたいのか、香月さんに全然伝わらない。
『なんで謝るの? 感心してたとこ。そういうの、俺考えたこともなかった』
けど彼は頭はそのままに、首だけを捻ってこちらを見やった。微笑んでるわけではなかったけど眼差しが優しくて、変な汗はやっぱり止まらない。
心がぎゅっとなって、わたしも慌てて夜空に目をやった。
『そ、そんな、あの、大それたことをいつも考えてるってわけじゃないんですけど……』
『うん、いつもそんな難しいこと考えてたら知恵熱が出そうだ』
クッと喉の奥で、今度こそ彼は少しだけ笑ったようだった。
『わ、わたしが言いたかったのは、地球全体という広い世界の中の自分の立ち位置みたいなそんなスケールの大きいことじゃなくて、誰かと誰かを比べて幸不幸を決めるとかそういうことでもなくて、ええと、そう、実際にわたしたちが生きているのは、日本で、東京で、さらにその一部分で、そのまたさらに限定的なコミュニティの中で、言ってしまえば凄く狭い世界だと思うんです……けど、どうでしょう?』
思わず尻すぼみになってしまった声。
『はは、なんで疑問形? まあうん。なんとなく、言いたいことは伝わってるよ』
でも彼は、そうやって安心するような静かな笑い声を一つ漏らし、ゆっくりと頷きながら穏やかに同意を示してくれた。
ちょっぴりほっとしたけど、考えてみたら、言いたかったのはって前置きしといて言いたいことがあんまりうまく伝えられている気がしない。寧ろ支離滅裂だし、だいぶ自分本位だし……ちっともほっとしてる場合なんかじゃないじゃないっ!
彼を前にすると、どうしてわたしはこうもポンコツになってしまうのだ。思わず頭を抱えそうになって、それじゃあますます変な姿を晒すことになるだけだと、必死に両手を膝の上に縫い付けた。
自分で言っちゃうのもなんだけど、今の話で何がなんとなく分かったのだろう? わたしだったらちっとも理解できない気がする。
な、なんとなくだから、彼も何が分かってるのかよく分かってない……みたいな漠然とした感じ? だけどちょこっとなら、言いたいことが見えるような気もするとかそんな感じでいい?
必至になって香月さんの胸の内を推察するのとか、彼からしたらいい迷惑なのかもしれない。けど想えば想うほど、言葉は全然うまくまとまらなくて、それなのに口は勝手に動いてしまう。
何でだろうって考えてから、でもどのみちわたしは、きっと冷静でなんていられなかったのだという結論に達した。
だってそもそもわたしの心拍数は、彼を前にしただけで恐ろしいほど上昇するのだし。
それに、言いたいことのみを簡潔に言葉にしただけじゃ、彼の心はちっとも軽くならない気がしてしまったのだから。
同じ匂いがしたとか、切ない表情に胸が締め付けられたとか、そういうのも勿論もある。
けど、小難しい理由付けをあれこれしなくたってわたしは結局彼が大好きで、大切なんだ。
いつかの彼がわたしを元気付けてくれたように、わたしも彼に元気になってほしい。わたしと過ごすこの時間が、せめて少しでも無駄じゃなかったと思える日が来てほしい。
彼のためと言いつつ、もしかしたらこんなに必死に語ってる時点でわたしは、自分のことをそうやって少しでも彼の記憶に印象付けたいなんて、浅ましい考えを抱いているのかもしれない。
でも、好きな人には、いつだって、未来でだって、憂いは一つでも少なく、穏やかな心で過ごしていてほしいと思うこの気持ちもまた、やっぱり本物なのだ。
こんな知り合いと呼べるかも怪しい女に同情されるとか慰められるとか、もしそんな風に感じたならうんざりされちゃうと思ったから、臆病なわたしはやっぱりずっと夜空を見上げたまま。反応を見るのが怖いって気持ちも半分あったし、同意を求めたり相槌を打ってもらってる時点でどうなのかって感じだけど、これはわたしのちょっとでっかい独り言、だからあくまでもそんなスタンスで。
『人一人が関わりを持てる物や人って、そう考えると実は凄く限られていると思うんです。自分の目で見ることができて、触れることができて、それはつまり普段生活している中で行動できる範囲と、それにくっついてくる人や物ってことで。そして、人一人の世界の感覚なんて、だいたいはそれでほとんどなんじゃないでしょうか』
個人が日常的に捉えている世界とは、大きな意味でのそれを意識させるきっかけがない限り、ほぼ世間と同義だと思うのだ。
『うん』
『だから、わたしたちが暮らす“世界”というのはやっぱりそれほど大きくないし、そう考えれば一人一人は決して小さくはないし、お互いに及ぼす影響力だって自ずと大きくなるし、毎日迫られる多くの選択に日々これで良かったのだろうかと不安になるし、抱える悩みは尽きなくて、そしてその悩みも決して小さくはない、ということです』
最後は押し付けがましい持論になり過ぎただろうかと不安になり、声は変に掠れてしまった。
足掻いて、もがいて、時にはうまくいくこともあるけれど、そうじゃないと感じることの方がなぜか断然多くて、その度に落ち込んで。
でもそれらを考えるだけ馬鹿らしいと切り捨ててしまうことができない香月さんは、それだけ自分の目に映る“世界”を必死に、これで良いのかと悩みながらも懸命に生きている証なのだと、わたしはそう思ったし、彼にもそう思ってほしかった。
それじゃあ結局は自分のことしか考えていないと、呆れられてしまうだろうかと思いながらも。
絶対的に見れば小さいことでも、相対的に見たら必ずしもそうとは限らない。わたしたちからすれば狭く感じるこの緑地も、小指の爪ほどの宝石からしたら、とても広く感じられるのと同じように。
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