探し物は何ですか?③

「はぁ……」


 黙々と探し続けた手を休め、じっとりと汗ばんだ額を袖口で拭う。半袖のTシャツから出た腕は、既に余す所がないほど蚊に刺されていた。


 視線を上げれば、いつの間にここを離れたのだろう、ペットボトルを手にした彼女が、こちらへ向かって歩いて来るところだった。


 腕時計に目をやる。もう既に一時を回っていた。


「あの、これ飲んでください」

「ありがとう。いくら?」


 冷えた証拠である滴る水滴が目に入れば、俺は急激に喉の渇きを覚えた。

 立ち上がり、あまり変わらなかったが一応手の泥を払ってから、遠慮なく受け取る。そして反対の手でズボンの後ろポケットから財布を取り出そうとしたところで、ふと。

 二度見してしまったパッケージには……でかでかと『体脂肪が気になるあなたへ』の文字。

 思わず自分の体を見下ろしてしまう。


「あ、いえ、これはですね」


 すると俺の視線の意味に気付いたのだろう。挙動不審を発動させた彼女が、緑地の出口付近で煌々と光を放つ自動販売機を、焦ったように指差していた。


「あの自販機なんですけど、普通のお茶が全部売り切れてまして、甘いのしかなくて、こんなときに甘いの飲んだらもっと喉渇いちゃうし、そしたらこれしかなくて……」

「あ、いや」


 別にそんなに必死に弁解しなくても大丈夫だと言おうと思ったのだけれども。


「あの、決してですね、あなたが太っているとか、そう遠回しに嫌味を言ったとかですね、そんなことはこれっぽっちもなくてですね。あ、見てください、私もほら、ね! 同じお茶でしょ? って言っても私がもしかしたらダイエットしてるかもしれませんから、これは私の言っていることが真実である証拠にはなりませんよね……えぇと……」


 慌てる彼女を眺めていたら、何だか可笑しな気持ちになった。

 きっと自動販売機の前でも、彼女はこうして一人あーだこーだと頭を悩ませていたに違いない。知り合いと呼べるかも怪しい、そんな男に気を遣って。

 このままこうしていたら、終いには自動販売機の前まで連れて行かれそうだ。


「気にしてないから。少し休憩しようか」


 だから俺は、彼女の手のひらに二百円を乗せたその手で奥のベンチを指差した。


 僅かな押し問答の末、俺の手のひらにもきっちり十円のお釣りを乗せた彼女と二人並んで、大して広くもない緑地を眺めながら冷たいお茶を流し込む。

 伸び放題だった雑草は刈られたわけでもないのに、俺らに踏み荒らされたため、視界はまずまず良好だった。


 近くを大きな虫が、気味の悪い羽音を立てて飛んでいく。目をやれば、ちょうどいい大きさの葉に落ち着いたカマキリが素早く羽をしまうところだった。三角の顔がクルリと振り向き、鎌がゆらりと揺れる。


 女の子は普通、こういうの苦手なんじゃないだろうか。俺だって、あまり虫は得意じゃない。

 彼女を見やれば……やはり同じ方向に視線を向けて、固まっていた。


「虫、苦手?」

「え? ええ。あの目に、私はどのように映ってますかね?」


 もう一度カマキリに視線をやる。顔の半分以上の面積を占める大きな目。色こそ違うが、形状からは『グレイ』と呼ばれるあの有名な宇宙人像を彷彿とさせる。

 ずっとこちらを見つめてのファイティングポーズは、ゆらゆらと振り子のように揺れていて、なかなかに気味が悪かった。


「敵、かな」


 虫から見た人間なんて、相当大きい。彼女もカマキリを怖いと思っているだろうが、カマキリの方は命の危険を感じるほどだろう。

 無論昆虫にそこまでの思考能力はないけれども、本能で敵と認識していることは間違いなさそうだった。


「ワタシハ、優シイ、人間デス」


 すると、背後から奇妙な台詞。


 ……なぜ、カタコト?


 振り向けば、胸に手を当て、こちらも負けないくらい相当奇妙な作り笑顔の彼女。

 近付こうしているようだったから、流石に引き留めることにした。


「余計に威嚇してくると思うけど」

「じゃ、じゃあどうすればいいんですか?」

「何もしないのが、一番じゃない?」


 涙目で訴える彼女は、虫と意思の疎通ができると、本気で思っているんだろうか。


「ファーブル先生も、そう言いますか?」

「え? ファーブル先生? ……って、ファーブル昆虫記のファーブル?」

「そうです」


 既視感に襲われた。

 この前も誰かが突如、こうして偉人を引き合いに出して妙なことを言っていなかっただろうか。


「読んだことあるの?」

「いえ」

「じゃあ言うけど、そもそもの前提が違う。彼は虫が好き。ゴトウさんは、嫌い」

「ええっ?」


 いや、驚くところじゃないだろうに。


「昆虫記書くくらいなんだから。好きじゃないのに、何日も張り付いて観察なんてする?」

「嫌いだからこそ、詳しく知って対策を立てるとか」

「……何の対策?」

「懐柔する、対策?」


 虫相手に? 


 ふっと、思わず頬が緩んでしまった。


「それで優しい人間だと説いていたの?」

「だって」


 ふくれっ面になりそうだった彼女の顔は、けれどもすぐに、俺を物珍しそうに眺めた。


 何だか変な子だ。大人っぽい雰囲気を纏っているかと思えば、急に虫に向かって話しかけてみたり。優しい面もあるけれども、自分の意見を曲げない頑固者であったり。突如、知りもしない偉人を引き合いに出してみたり。

 突拍子もない、とでも言うんだろうか。


 人間は誰しも状況に応じて複数の仮面を使い分けるけれども、こんな短時間に、これだけたくさんの感情を見せられるというのは、俺からしたらとても羨ましいことだった。素直に感情を表現するというのは、いろいろ経験を積んで大人になればなるほど難しくなると思うから。


「さ、探しましょう!」


 さすがに自分の言動が少しおかしかったことに気付いたのか、誤魔化すように勢いよく立ち上がりかけ……カマキリの存在を思い出してぎょっとなり、途端に忍び足になる。


 絵に描いたようなキャラクターの彼女。

 そんなゴトウさんとの失せ物探しは、結局二人になったってそんな都合よく一日で終わるはずもなく。


「今日はもうおしまいにしましょう」


 そう彼女がため息と共に放った空が白み始める直前で、この日は打ち切られることとなった。

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