不思議な女の子②

「怪我はしてないですか?」


 慌ててはいたが、逃げ出す隙を窺っているようには見えなかったから、とりあえず落ち着かせようともう一度問いかければ、彼女は「あーっ!」と突如大きな声を上げ、


「汚れてません? どうです?」


 なんて女の子にはあるまじき、若干尻を突き出し気味にするという姿勢を取りながら、くるりとこちらに背を向けた。


 呆気に取られる、というのはまさにこういう状況なんだろう。行動が読めなさすぎて思わず狼狽えてしまった。


「……いや、ごめん、見えない」


 何とか気を取り直しそう答えれば、


「ですよね……」


 と、なんでかしょんぼりしかけたんだけれども。


 いきなりはっと勢いよく顔を上げたかと思ったら、打って変わってそうろりと、体ごと向き直る。そして俺の顔をそこそこ長い時間じっと見つめ、でも俺が訝しんで「何か?」と口を開くぎりぎりのところで視線を逸らし……どうしてだか腰を九十度に曲げて、頭を下げてきた。

 さっぱり意味の分からない行動だったけど、不躾だと思うよりも先に、なぜだか漠然とした不安が胸に広がるのを感じた。


 多分知らない子、だと思う。

 はっきり言ってしまえば、近付く途中で既に、この暗がりですら美人だと断定できてしまうほど整った顔立ちをしているのは分かっていた。これだけ綺麗な子ならば、恐らくはお客さんとして一回会っただけだったとしても忘れはしないだろうくらいに。

 でももしかしたら、万が一、俺が覚えてないってだけの可能性もあるから、これは顔見知りでないという確固たる判断材料にはならない。


「えぇと、どうしたの? ここのお店の子、で、いいんだよ、ね……?」


 言葉半ばで、俺の背の僅か数十センチ先を物凄いスピードで車が通り抜け、思わず驚きよろけたような形で前に足を踏み出した。それにより、殊更よく見えるようになった彼女のかんばせ


 次の瞬間。


 俺は轢かれそうだったなんて慄いたこともすっかり忘れて、はっと息を呑んだ。

 一秒にも満たなかったかもしれない。けど、ヘッドライトが発する光の帯によって照らし出された彼女の顔は、暗がりで見ていた彼女とは、比べものにならないほど美しかったのだ。


 長い睫に縁どられた、黒目がちな瞳、そしてぬけるような肌の白さ。

 まるでそう、磁器でできたビスクドールのように。


 年齢は随分と若そうだった。いって二十歳そこそこくらいだろうか。こんな時間、こんな綺麗な子が一人で出歩くのを、親御さんはさぞかし心配しているだろう。


「えっと、あの、そうです」


 そして――見てしまって良かったのか、下を向いた拍子に瞳からキラリと零れ落ちた、一粒の雫。

 視線を慌てて彷徨わせながら、かといって一度見てしまったものを見なかったことになんてできない。見なかったふりならできるけれども……ここはどうしてあげるのが最善なのだろう? 


「わたし、探し物があるんです。急いでるので失礼してもいいですか?」


 戸惑っていれば、殊更早口に告げられたそれが、涙を見られたくなくて一刻も早くこの場を立ち去りたいがための口実なんじゃないだろうかと勘繰ってしまうのは、何かを堪えるようなこの表情のせいか。


「お店にはなかった?」


 だったら俺は、気付かなかったことにするべきだろう。


 もう俺の頭からは、泥棒なんじゃないかと疑ったことなんてすっぽりと抜け落ちていて、代わりに占めるのは、必死になって考えを巡らす、あの雫の意味。


「え? ……あ、そ、そうなんです。お店にはなくて、他の心当たりも探したいので」


 でももし口実でなかったのならば、もしかしたら涙の意味は俺とは全く無関係で、よほど思い入れのある探し物によるものなのかとそれとなく探りをいれたのだけれども。

 彼女は俺の問いかけに、さも意外そうに反応を返した。

 どうやら読みは、間違っていたようだ。俺が放った、たまたま都合の良かった台詞に便乗させてもらった、多分そんな感じ。


 だからといって、じゃあ本当のところはどうなんだと、物凄くプライベートかもしれない事を、これだけ長いこと見つめているのに思い出せもしない女の子から訊き出す度胸は俺にはない。彼女の方だって、何か理由があって濁しているであろう事情をここで鋭く突っ込まれたって、困惑するだけだろう。

 けどこんな子が一人道端で泣いていたら、これ幸いと近寄ってくる碌でもない男がごまんと湧いてきそうで、じゃあねと放り出すのもそれはそれで気が引ける。

 もしかしたら、そんな碌でもない男の一人に、もう既に俺自身が認定されている可能性もあるけれども……。


「――あったか?」


 どうするべきかと思案していた、そのときだった。


「え?」


 いったいいつからいたのか、気配すら微塵も感じなかった建物の陰から、徐にスーツ姿の一人の男が姿を現した。


「え? えぇ? お、逢坂おうさかさん! どうしてここに!」


 それは彼女にも予想外の出来事だったようで。


「あのねえ、仮にも女の子が一人でこんな時間に出歩くなんて、心配に決まってるでしょ?」

「えぇ?」

「で、探し物は見付かった?」

「え? 探し物って、あ、えぇと……いえ。見付かりませんでした」

「戸締まりは?」

「え?」

「店の戸締まり」

「え、あ、はい。この通り」


 鍵を掲げた彼女に一つ頷くと、男は俺へと向き直り、お騒がせしてすみません、と頭を下げてきた。


「いえ、ここの方ですか?」

「はい、私店長の逢坂紡久おうさかつむぐと申します」


 そして丁寧に差し出された名刺。

 受け取り、暗がりでなんとか目を凝らせば、それには確かに店のロゴが入り、名前の前には役職名である『店長』の文字が印字されていた。

 正直こんな可愛らしい店の店長が、見たところ三十そこそこだろう若い男だったことに驚きはしたが、説明もつけられない違和感で怪しい人物だと疑うのも失礼な話だろう。

 新しい時代の波を掴むのに、年齢や性別なんて案外関係ないのかもしれない。今日日、女子高生の社長だっているくらいなのだから。


 いろいろ気になる点がないではなかったが、店長と名乗る男が出てきてまででしゃばるほどの厚顔さは持ち合わせていなかった。それに男と一緒なら、俺がした余計なお節介かもしれない心配の方も不要だ。


 先程の反応からして、二人が知り合いであることに間違いはなさそうだ。

 もしかしたら本当は、全て俺のただの取り越し苦労なのかもしれない。


「おーい、何してるの? もう鍵閉めるよー!」


 すると、向かいの喫茶店から店長が俺を呼ぶ。


「すみません、今行きます!」


 慌てて返せば、


「じゃあね、カツキくん」


 と逢坂さんは俺に手を振り、女の子はペコリと頭を下げ、二人は連れ立って大通りの方へと歩き出した。


 後姿を横目に踵を返す。変な子だったな、と思い、そしてふと、疑問が湧き上がった。


 ――俺、名乗ったか?


 あ、名札か。

 左胸のポケットに留められた、クリップタイプのそれに目を落とす。

 だけど……黒地に銀文字、この暗さで見えただろうか? それにこの名字、なかなか一発で正確に読んでくれる人は少ない。まあでも有名なプロ野球選手で同じ名字の人がいるし、店長なのなら、向かいの店だ。昼食を取りに来たことくらいあっただろう。その際、俺の名前を耳にする機会だってあったのかもしれない。

 俺は考えても答えの出ない疑問は早々に放棄し、クローズの作業を再開すべく店長の元へ急いだ。

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