3.不思議な女の子
不思議な女の子①
もうあと二時間もすれば明日になるというのに、ちっとも気温が下がった気がしないのはどうしてなのだろう。
空を見上げれば夕立の名残か、所々に薄い雲がかかり、乱立するビルから立ち昇る光をうっすらと反射していた。
湿った大地から大気に放出される雨粒の残滓が、闇夜に紛れて纏わりつく。
不快な息苦しさと格闘しながら、とっとと終わらせようとオープンデッキのパラソルを畳み、年代物のドアに掛けられたプレートをクローズへと裏返した。
と、そのとき、ふとある違和感に気付く。
嵌め込まれたモザイクガラスに映り込む光。
振り向けば、それは道路を挟んで向かいに位置する店から零れたものだった。
確か、インポートの洋服や、北欧のインテリア、雑貨などを取り揃えた、ぬくもり溢れる優しい空間、というのがコンセプトの店だと、先日入ったばかりの新しいバイトの女の子が得意そうに話していたのを聞いた。
中に入ったことはないが、そう言われればショーウィンドウに立つマネキンは、いつも落ち着いたセンスのいい服を着ているし、そこにあしらわれている小物も、季節ごとにディスプレイが変更され、北欧独特のトラディショナルな雰囲気を醸し出している。
雑誌にも取り上げられたことがあるらしく、ここは大通りからは一本入った閑静な住宅街と言ってもいい路地だけれども、毎日それなりに若い女の子が訪れていて、うちの喫茶店もそのご相伴に預かっていた。
広瀬さんは、こっちだってそこそこ賑わっているのだから、これは立派なWin-Winの関係だ! と息を巻いていたけれども。
だがその輸入雑貨店も、午後七時には閉店する。その後八時くらいまでは明かりがついていることも多いけど、時計を見れば今はもう既に十時を回っていた。俺の記憶では、こんなに遅い時間、店に明かりが灯っていたことは一度もなかったはずだ。
何かトラブルか、それとも単に誰かが忘れ物を取りに来ただけか。先程までは消えていたように思うから何だか少しだけ気になったが、分厚いロールスクリーンがガラス張りの前面を隙間なく覆っていて、中の様子を窺い知ることはできない。
暫くぼんやりと眺めていると、やがてキィ、と音が鳴り、恐らくバックヤードから直接外に出られる扉なのだろう、建物の側面に設置されたそれが外へと開き、ひょっこりと一人の女性が顔を出した。
妙にきょろきょろしているのが気にはなったが、一旦引っ込むと店の明かりが全て落とされる。どうやらやはり従業員のようだ。次いでもう一度扉が開くと、
「うわっ。あ、いたた」
出てきた彼女は、暗闇に目が慣れていなかったためか、すぐの所にあった段差で盛大に足を踏み外した。
「あーっ、いっけない! どうしよう、大丈夫かな?」
そして大きな独り言。
お尻をパンパンと、寧ろそっちのが痛いんじゃないかと心配になるほど強く叩き、引っ張っては汚れ具合を確認している。転ぶほどの暗闇なのだから、汚れなんて確認できないんじゃないかという突っ込みは、一応心の中に留めた。
そして、彼女はもう一度パンパンと服を叩き、四苦八苦して漸くガチャリと鍵を閉め、再度きょろきょろと辺りを見回し。
向かいの喫茶店から見つめる俺を認めて……どうやら硬直したようだった。
暗い上に遠目だから表情までは読み取れないが、顔はこちらを向いていて、そしてまるで人形にでもなってしまったかのように、ピクリとも動かなくなっていた。
なんだろう? やっぱり従業員ではない? 女の子の泥棒なんてあまり聞いたことないが、あの店にしてこの泥棒あり、かもしれない。いや、使い方が間違ってるけれども、可愛い店だから泥棒も可愛いみたいな、今のはそんな意味。
声をかけるべきか悩むところだ。
もし本当に泥棒ならば、警察にだって通報しなくてはならない。まずは店長に相談するべきかとも思うが、今はバックヤードで売り上げの計算をしている。
見たところ、手には鍵以外何も持っていないようだった。けれども、盗んだ品を金銭に代えることが目的ではないならば、本当に欲しかった小さな雑貨を一点だけポケットに忍ばせたって可能性も、考えられなくはない。
……我ながら想像力の逞しさにびっくりするけど。
ただ、泥棒なら店の明かりをつけて物を盗む、というのは自殺行為に等しいだろう。腑に落ちないっちゃあ落ちない。更に、出て行く際鍵を閉める泥棒というのも、あまり聞いたことがなかった。
全体をざっと見るが、背はそれほど高くない。体型もどちらかと言えば華奢な方に思えた。これならば余程の秘めた怪力の持ち主でない限り、インドア派の俺の力でも最悪何とかなるだろうと、躊躇いつつも声をかけることにした。
「大丈夫ですか?」
何をしてるんだ、と訊くと警戒されるかもしれないと思い、先程転んだことに対する問いかけにした。ただ、暗にそこから見ていたぞ、という含みは持たせたつもりだ。
車が来ないか確認し、道路をゆっくり横断する。
声をかけたときにはピクリともしなかったが、コツ、コツ、と夜の路地。俺の革靴が闇夜に反響すれば、彼女は金縛りが突然溶けたようにビクッとなり、途端におどおどし始めた。
「あ、いえ、わたしは決して怪しい者などではなくてですね」
……めちゃくちゃ怪しいことこの上なかった。疾しいことがあるんです、と言わんばかりの挙動。
でも何となくその声に聞き覚えがある気がして、俺は彼女の顔が見える位置まで歩を進めた。
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