香月さんという人⑤
「この人、誰ですか?」
でも今の彼女からは、明らかな怒気が発せられていた。
視線をちらりと寄越されただけだったが、瞳は仄暗く、身が竦んだ。
どうしよう? 本当になんてタイミングの悪い日。
わたしは間違いなく、彼からしたら今日初めて会ったただの客だ。でもここで憤っている彼女に、ただならぬ関係かもしれないと疑っている女がそれを説明して、いったいどれほどの説得力があるだろう?
きっとわたしはテンパってしまう。それが反って怪しく映ってしまったら元も子もない。火に油を注ぐ事態になったりしたら、今度こそ合わせる顔がなくなる。
香月さんは誠実な人だ。自分が直接汚したわけでもない、見ず知らずの客の財布の染みまで心配してくれるくらいに。
わたしが変にあれこれ言うより、彼の言葉の方がきっと彼女の心に届くはず。
こちらに訊かれたら、そのときはわたしもきちんと答えよう。彼には誓って、あなたに疑われるようなことは一つもないと。
「お客さんだよ」
「先輩もう制服じゃないですけど」
「上がったから」
「上がったのに、二人きりでお茶するのがお客さん?」
「……その前にいろいろあったんだ」
アワアワする広瀬さんが視界に入る。
わたしも、何かと言葉の足りない香月さんの物言いに内心は相当アワアワしていたけど、とにかく緊張しすぎて指先一つ動かせなかった。
気付いたら息すら止まっていて、慌ててそっと深呼吸をしたくらいだった。
肝心の香月さんに目をやれば、困ったように瞳を伏せていて、なぜだかあまり多くを語ろうとしない。
わたしはテーブルの下で、右手の拳をぎゅっと握り締めた。やっぱりここは、何か言うべきなのかもしれない。
「いろいろって何ですか?」
いよいよ苛立ったような彼女の声を聞いて、もう一方の拳も握り締めた。
ダメだ、このままじゃいけない。
覚悟を決めて唾を呑み込み、わたしが強張った口を苦労して開きかけた、そのときだった。
「――その子の財布に香月が紅茶を零しちゃってさ、拭いてあげてたんだよ、ね?」
見かねた広瀬さんから、助け舟が出された。
そんな台詞と彼の同意を求めるような瞳を受けてしまえば、情けないことに正直な私の口からは、どう切り出せばよいものかと必死に考えていた釈明の代わりに、ほっと安堵の息が零れてしまった。
少々脚色されていたが、この際細かいことはどうでもいい。寧ろそう言った方が彼女からしたら納得できるかもしれないと、広瀬さんの機転に感謝した。
結局何も言うことはできなかったけど、わたしも大きく二度頷いた。
――けれども。
キッと強い眼差しで彼を見据える彼女の瞳は、少しも和らいでなどいなかった。
「凄く楽しそうだったじゃないですか。わたしと話しててそんな風に笑ってるとこ、一度も見たことないっ!」
最後は叩きつけるような声音だった。さっと踵を返し、勢いよく走り出す彼女。
けど、振り返る際に、わたしには見えてしまった。ぎゅっと瞑られた瞳から流れ落ちた、大粒の涙が。
それがまるで、静止画のように目に焼き付く。
……ああ、わたしは、なんて事をしてしまったんだろう。好きな人と過ごせるこのひと時が嬉しすぎて、舞い上がって、告白までしようとして。
なんて愚かだったんだ。
「お、追ってください!」
気付けば、弾かれたように立ち上がっていた。
哀しげに俯いていた香月さんが、少しだけ驚いたようにこちらを見上げる。
「追ってください。迷惑かけたわたしが言うことじゃないかもしれないけど、わたしが彼女だったら、追ってきて、ちゃんと話してほしいって思うから」
「女の子の意見だ、素直に聞いて追いかけろ。完全な誤解なんだから、話せば分かってもらえる」
わたしたちの剣幕に押されたのか、香月さんは戸惑いながらも席を立つ。目が合ったので、早く、という意味を込めてもう一度頷いた。
小さくなりつつある彼女の背、もう走り出さないと、本当に見失ってしまう。
「いいから早く行けって」
だというのに、彼の視線はアイスティに向いている。
え、え? もしかして、この期に及んでお代とか気にしちゃってるの?
そんな後からどうとでもなる些細なことに、今は気を取られてる場合じゃないというのに。
広瀬さんもきっとわたしと同じ気持ちなのだろう。じれったそうに頭を掻くと、香月さんの身体を反転させ、少々強引に押した。
「追いかけろ! 彼女のことをお前がどう思ってるのかは知らないけど、付き合うとか付き合わないとかそういうの関係なしに、ここで追いかけないと後味悪いぞ。せめて、誤解を解く努力はしろ」
二歩三歩とたたらを踏んで止まった彼は、戸惑い気味に振り返ったけれども、もう一度広瀬さんが「行け!」と喝を入れれば、やっと決心したように頷いた。
今にも曲がり角に消えそうな彼女に少しだけ焦りつつも、わたしへと律儀に一礼して走り出す。
瞬く間に小さくなる背を見つめながら、いつの間にか詰めていた息を大きく吐き出した。
緊張で遮断されていた周囲の音が戻ってくる。そうすれば、煩いセミの声が、揃ってわたしを責めているように聞こえた。
どうしよう。わたしのせいで、わたしの浅はかな言動のせいで、彼を困らせ、彼女を傷つけてしまった。二人はうまく、仲直りできるだろうか……?
「ここでいくら心配しても、後はなる様にしかならないから」
顔を上げれば、広瀬さんはちょっと笑って、ひょいと肩を竦めて見せた。
それはそうだけれども……
再び視線を二人が走り去った大通りの方へと向ければ、彼は何故か「ごめんね」と、唐突に謝ってきた。
「え?」
「きみ、よくここに来るでしょ?」
「……え?」
「香月のこと、好きだった?」
それはちょっとだけ意地悪な響きに聞こえて、わたしは自分の頬がカーッと熱くなるのを感じた。
「……やっぱりか。あいつの背を、いつも目が追ってた気がしたからさ」
そんなあからさまだっただろうか? どうしよう、ということは……
「あの、か、香月さんはこのこと」
「いや、気づいてないと思うよ。あいつは鈍い……というか、他人にあまり関心がないって感じなのかな」
わたしはホッとしたのか残念に思ったのか、自分のことなのに自分の感情が全然分からなくて、ちっともコントロールできなくて。曖昧な笑みを浮かべて、なんとか誤魔化してみたりした。
「前にあいつ目当てのお客さんとちょっとトラブったことがあってさ。それ以来、あいつに彼女がいるときは、気のありそうなお客さんにはさり気なく牽制して諦めてもらうようにしてるんだ」
そうか、それでさっきはあんなにも饒舌だったのか。聞き耳を立てたりして、わたしはまんまと罠に嵌ったという訳だったのだ。
ちょっと前までの浮かれた自分がひどく惨めで、消えてしまいたかった。
でも、お金は払わなくちゃならない。迷惑かけた上に無銭飲食なんて、最悪の上塗りだ。
初めに頼んだ一杯と、香月さんと一緒に飲んだ二杯分。計三杯は、この机の上に乗った千円札一枚では足りない。わたしは溢れそうになる涙と、走り出しそうになる足を何とか堪え、お財布に手を掛けた。
「――でも」
すると躊躇いがちに発せられる声。今度は何を言われるのかと身を固くしたのだけれども。
「やっぱりそれは俺の傲慢だったと、今凄く反省してる」
「……え?」
思わず顔を上げれば、広瀬さんは困ったように微笑んでいた。
「あの女の子も言ってたけどさ、三年近くも一緒にバイトしてる俺でさえ、あいつの笑った声なんて聞いたことなかった。よく考えれば、きみはここへ長いこと通ってくれてるけど、一度だって節度のない行動をしたことなんてなかった。それなのに過敏になって、全然関係ないこっちの勝手な理由で傷付けてしまった。だから、ごめんね」
堪えていた涙が、ポトリと零れてしまった。
「きみはすごく良い子だと、そう思ったから。だから、本当にごめんなさい」
すごく良い子では、決してないと思う。彼女がいるのに、告白しようと考えるくらいずうずうしい女だもの。告白するってことは、するだけと言いつつも、あわよくば付き合いたいと、そう思ってるってことだもの。彼女と別れたらいいのにって、言葉にしなくたって心の奥底ではそう思ってるってことだもの。
でも、それでも。
わたしの香月さんへの想いを知りながらも、それでも良い子だと言ってくれた広瀬さんの言葉に、この気持ちは少しだけ、救われたような気がした。
差し出したお金を、結局広瀬さんは受け取ってくれなかった。後の二杯は香月が勝手に頼んだものだから、と。
「その代わり、また必ずおいで」
頭を掻きながら、俺が言えた義理じゃないけど、とバツが悪そうに続ける広瀬さんは、きっととても友達思いの、優しい人なんだと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます