香月さんという人④

「すみません、完全には落ちなさそう」


 染み抜き作業に戻りながら、彼はため息をつく。

 わたしはそれに首を振りながら、十分です、本当に、ご親切にありがとうございます、そう頭を下げたのだけれども。


「大切な、財布ですよね?」


 違います、とは今更言い出せず。

 ……あの涙を見れば、そう思いますよね……と途方に暮れる。


 恋心を知られずにうまく説明できる自信がなくて、黙ってしまったわたしを肯定したと思ったのだろう。彼は作業に戻りながら、革専用のクリーナーがあります、と続けた。


「クリーナー?」

「はい。使えばもう少し落ちると思います。いろいろ種類があるんですけど、アルカリ性の強い物は避けてください」

「?」

「落ちはいいですが、革が傷みやすいので。デリケートクリームといった類の物を探してみてください」

「わ、わかりました」


 彼は最後に乾いた布で全体を拭くと、

「ビーズください」

 と手を差し出した。

「これで付けてもいいですか?」

 そして工具箱から、必ず一家に一つはある、お馴染みの黄色い接着剤を取り出す。


「お、お願いしていいんですか?」

「ええ、俺で良ければ。見たところ、同じような接着剤で付けられていたみたいなので、これで付けても特に問題ないと思います」

「……ありがとう、ございます」

「こう見えて意外と器用ですから、多分大丈夫です」


 そんな不安げな目をしていただろうか。失敗するなんてこれっぽっちも心配していないのに。

 だって知っている。綺麗な指が生み出す、美しく繊細で、幻想的なガラス玉を。


「どうぞ」


 やがて差し出された財布。可愛らしいつぶらな瞳はすっかり元通り。多少まだらになってはいるが、ほとんどと言ってよいほど汚れも落ちていた。


「ありがとうございます」


 たくさん時間を使わせてしまった。わたしは深々と頭を下げると、ぎゅっと財布を握り締める。


「陰干しして、よく乾かしてくださいね」

「はい」

「ご苦労さん。お待ちどうさま」


 顔を上げれば、にっこりと笑った広瀬さんがタイミングよくアイスティを差し出してくれた。


「良かったね」

「はいっ」


 もう汚さないように、わたしは、汚す前よりももっと大切になったそれを丁寧にバッグへとしまう。


 二人で向き合い静かに啜るアイスティは、一人で彼の背中を眺めて啜るそれより、何倍も、何十倍も美味しかった。


 期せずして訪れた、香月さんとの時間。

 幸せすぎて、泣きたいくらいだった。


 ――思い切って、告げてみようか。


 そんな思いが頭をもたげた。

 だってもう二度とこんなチャンス、おとずれないかもしれない。彼女がいるって言ってたからフラれるのは間違いないけど、気持ちを告げるくらい、許されないだろうか。

 そうすれば、財布を落としたのはあなたのせいではないときちんと説明できる。って、そんなのは告白を正当化したい言い訳だけれども。


「あ、あの」


 思い切って発した声。でも。


「ん?」

 うわっ。ダ、ダメだぁぁぁ……


 目が合っただけで一目散に逃げ出す勇気。

 ああっ、話しかけちゃったのに、何て言えばいいの。告白できるなんて一瞬でも思い上がった自分を殴りたい。


「そのですね……」


 不審な目を向けられている気がして、意味もなくグラスを滑り落ちる水滴を数えてみる。

 ダ、ダメだ。現実逃避とかしてる場合じゃない。何か言わなくちゃ。

 こんなに良くしてもらったのだ。せめてもう責任を感じることはないと、それだけでも伝えなくては。


「お、お財布はですね、わたしがアイスティを零したのがそもそもの発端ですし、信じてもらえないかもしれませんが、声をかけられたから驚いて落としたというわけでは断じてないんです。本当に。ホントに。

 ですから誰が悪いのかと問われれば…………えっと、そ、そう! ニュートンがいけないと思うんですよ!」


 も、もしかしてこれは、咄嗟にしては、我ながら結構いい感じで第三者に罪をなすりつけられたんじゃない? 会うことも絶対に不可能な相手だし、遠すぎるこの距離感が罪悪感を薄くしてくれる。

 あ、でも一応謝っとこう、言いがかりだと思うから、ごめんなさい。


 だってわたしが悪いと言っても気を遣わせるし、絶対に香月さんが悪いわけでもない。そしたらもう、違う人に被ってもらうしかないじゃないか。


「ニュートン?」

「ええ、ニュートンです! アイザックの方の」


 いやべつにニュートンて名前で他に有名人がいるかどうかなんて全然知らないけど、それについてはわたしが無知なだけかもしれないし、本当に同じ名前の人がいた場合物凄い濡れ衣だからねっ。

 言い淀むと説得力がなくなるから、さも自信ありげに言いきってみる。


「ぷっ」


 すると、彼が。


「あ、あっはははは」


 声を上げて、笑ったんだ。


「ニュートンって。アイザックの方って! ニュートンて聞いて、アイザック・ニュートン以外を想像する人っているの? それは重力が悪いって、そういう意味?」


 お腹痛いって言いながら、目尻の涙を拭う彼。

 わたしはあまりの衝撃にポカンとしてしまったけど、初めて見た彼の笑顔に、初めて聞いた彼の笑い声に、心臓がギューってなるほどの幸福を感じた。


「だ、だって、重力がなかったら、財布は落ちませんでしたよ」


 香月さんはもうわたしに敬語なんて使ってなくて、彼の作り出すとんぼ玉みたいに、キラキラと瞳を輝かせる。


「面白いね、凄く面白い。けどニュートンのせいで重力が発生したわけではないし、そもそも彼が発見したのは重力ではなく万有引力で――」

「――柊司先輩」


 しかしそれは、唐突に。

 背後から降り注ぐ、冷たく響く女性の声で告げられた、終幕。

 時が、止まったかと思った。

 彼も、わたしも、笑い声を聞きつけて出てきた広瀬さんも、まるでこの喫茶店だけ、一時停止を押されたみたいに。


 ――カツ、カツ、カツ。


 その中を一人、何にも捕らわれず歩く妖艶な女性。視界に入った彼女は、時間を操る魔法使いだと言われても信じてしまえそうなくらい、どこかミステリアスでエキゾチックな雰囲気を纏っていた。


 驚くほど高いピンヒールなのに、足なんかちっとも痛そうじゃなくて、大人で綺麗で、一分の隙もない美。


 わたしは瞬時に理解した。この人だ、と。香月さんの恋人はこの人に違いない。

 彼が座る椅子の背もたれに手が掛かる。細い手首を強調するかのような太いバングルが目に入り、駄目押しのように嵌め込まれたトルコ石がキラリと光った。


 目の前で並ぶ二人は、道行く誰もが振り返るであろう、とてもお似合いの彼氏と彼女だった。

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