香月さんという人③
……ん? あれ? そういえば、着替えて戻ると、彼は今そう言わなかっただろうか?
え、待って。香月さんがここに来るの? なんで? どうして? いや、どうしよう。
こんなまったりなんかしてる場合じゃないと、途端にわたしはあたふたしてしまって、急いでごしごしと顔を拭き清めた。何だかいろいろあり過ぎて、頭がちっとも働いていない。
取りあえず、気が散るからお札は逆にした。
か、彼がここへ来る。
意識してしまうと、ごくりと喉が鳴った。
未だ手の中にある、湿ったお財布。ベージュだった部分は、紅茶をたっぷり吸って茶色く変色している。
あ、もしかして、このお財布? タイミング的に、声をかけたせいで驚いて落としたみたいに思ったのだろうか? それで責任を感じてるのかもしれない。泣くなんて、よっぽど大事な思い入れのある財布なんだって、きっとそう思ったんだ。
ああ、バカバカ。どうしよう。あなたにトキメキ過ぎて落としたんですなんて口が裂けても言えない。泣いたのは、あなたにこんな情けない姿を見られたくなかったからなんですなんてもっと言えない。てか、知らない女にそんなこと言われたら絶対キモい。ドン引きする。
落としたうまい理由を考えなくては。彼が気にしないようなうまい理由じゃなきゃだめだ。こんな泣いて、今更大丈夫ですって言っても説得力の欠片もないし。だったら、な、何て言えばいいの? ダメだ、思いつかないよぉ、うわあぁぁぁぁぁーーん!
「だ、大丈夫ですか?」
ひ、ひえぇぇぇぇ。
絶叫こそしていなかったものの、頭を抱えた絶望ポーズなんて、そうそう好きな人に見られるものでもないだろうに。
「……大丈夫です」
全然大丈夫じゃないけど。
もうさり気なく誤魔化すとか無理なレベルだったので、開き直ってお絞りに顔を埋めた。
「お財布、借りてもいいですか?」
「え?」
すると遠慮がちにかけられる声。
視線を上げた先の彼は、手に乾いた布を持っていた。傍らには水の入ったコップ。
「革についてしまった汚れは、とにかく早く落とすことが重要です。今ならきっと、まだ大丈夫」
「あ、あの」
大丈夫ですって、いいですって、言おうと思ったのに。
差し出された手も、とても遠慮がちで。見つめる瞳も、切れ長で一見冷たそうだけど、よく見れば同じくらい遠慮がち。
ふと思った。
ここで、これはわたしの自業自得ですとか、あなたのせいじゃないんですとか、だからいいんですとか言い張って、言い訳じみた説明をいちいち彼にして。わたしのために割いてくれようとしている時間と親切心を無下にしてまで、この場を立ち去ることに、何故これほど固執しているんだろう、と。
余計なお世話かもしれないと不安に思いつつも、それでもこうして差し伸べてくれた優しさを蔑ろにすることが、果たして最善だろうか?
香月さんはわたしを知らない。わたしのことも、彼は自分を知らない人間だと思っていることだろう。
知らない人に、これほどまでの優しさを向けることは、とても難しいと思う。電車でお年寄りに席を譲るとか、これはその程度の、一瞬でできてしまうその場限りの優しさとは一線を画すると思うから。
自分なら、多分無理だ。
でももし、もしそれでも思い切って手を差し出すことができたとき、それを跳ね退けられてしまったとしたら。たとえ相手に悪気がなかったとしても、わたしならきっと、少なからず落胆する。
「――ありがとうございます。こんなことお願いしてすみません」
そう考えてしまえば、これ以外言葉は出なかった。
おずおずと差し出してみる。もしこれがわたしの独りよがりで恥ずかしい勘違いだった場合、やっぱりいいですって逃げればいいと、そう思いながら。
けれども直後、微かに緩んだ彼の表情。わたしの選択は間違っていなかったのだと、そっと安堵した。
「いいえ、構いません」
財布を受け取ると、乾いた布をコップの水で少しだけ湿らせ、ポンポンと軽く叩くように拭き取っていく。
とても根気のいる作業のように見えて、やっぱりだんだんと申し訳なくなるけど、何だか凄く真剣で声をかけるのも躊躇われた。
ポンポン、ポンポン。
ジージー、ミーンミーン……
セミたちが織り成す灼熱のBGMを聞きながら。
ポンポン、ポンポン。
シャワシャワシャワシャワ、ツクツクホーシツクツク…………ツ。
あ、一番近くのやつが鳴き止んだ。
――カラン。
と、半分くらいを過ぎた頃だろうか、わたしの飲んでいたアイスティの氷が、解けて崩れ音を立てる。それで彼はハッとなったように顔を上げて……少しだけバツが悪そうに目を泳がせた。
「すみません」
「え?」
「暇ですよね」
「と、とんでもない!」
人様に自分の財布綺麗にしてもらっておいて暇とか、とんでもない!
わたしはブンブンと首を振る。
いや、寧ろ気が利かないのはわたしの方じゃないだろうか。暑い中頑張ってくれているのだから、せめて冷たい飲み物を差し入れるとか。
ぼーっと作業を眺めていた自分が急に恥ずかしくなって、
「ア、アイスコーヒーでいいですか?」
わたしは慌てて立ち上がった。
すると彼も、焦ったように立ち上がる。
「待って。そういう意味で言ったんじゃありません。気を遣わないで」
「でも」
「元はと言えば、俺が話しかけたせいで驚かせてしまったのだから」
「それは」
本当に違うのに、どう説明したらうまく伝わるんだろう? ただ違うって言っただけでは、彼は遠慮してると勘違いするだけだ。言葉って難しい。
「とにかく座ってください。――広瀬さん!」
ちょうどそのとき、入り口ドアから顔を覗かせた先程のウェイターを呼び止める。
「はいはい」
「俺と彼女にアイスティ、もらっていいですか?」
「かしこまりました」
「え、あの」
これでは逆にわたしが催促してしまったようではないか。
慌てて制したのだけれども、広瀬さんはにっこりと笑い、こういうのは大人しく奢られとくのが一番だよ、とウィンクのようなものをして去って行く。
「きもっ」
直後小さい呟きが聞こえて目を向ければ、顰められた香月さんの眉。
わたしは思わず、少しだけ笑ってしまった。
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