香月さんという人②
ちょっと不思議な柔らかい手触りなのも気に入っていて、それがなんと、山羊の革だったという未知との遭遇に胸を弾ませ、傷まないように大事にしていたのに……
少し涙目になりながら、でも彼にはこんな無様な姿は見られたくなくて、もう大丈夫ですって、仕事に戻ってくださいって、すみませんすみませんって自分でも意味不明な謝罪を繰り返しながら、なんとか汚れを拭っていたのに。
弱り目に祟り目って、きっとこういうこと言うんだろう。
平気だって誤魔化したくて、強く擦ったのがいけなかった。綺麗に光る、可愛い猫の目。そこにあしらわれていた透明なビーズが、無残にも剥がれ落ちてしまったのだ。
そして今度はそれが、アールグレイの水溜りに、見事にポチャン、と。
ちょっと先には、変わらず彼の、綺麗に磨かれた革靴が目に入る。
き、気付いちゃった? 不自然に止まってしまったし、バレたかな? どうしよう。できれば気付いても知らないふりして立ち去ってほしい。こんなの、恥ずかしすぎるし……もうやだっ……
知らずナプキンをぎゅっと握りしめた、その拍子に。
――ポトリ。
今度は私の瞳から、カッコ悪くて、情けなくて、惨めで、哀しくて、たくさんの感情がない交ぜになった複雑な涙が滑り落ち、またもやアールグレイの水溜りへ。
もうきっとこの水溜りは、マクベスのスープもびっくりの配合になってしまったに違いない。
ああ、感情はなんてままならないんだ。引っ込めと思えば思うほど、意に反して滲み出す。
俯いてるし、あっついし、汗だと思ってくれないかな? それはそれで乙女として微妙だけど、こんなことで泣いたなんて、子供っぽすぎると呆れられるよりずっとマシだ。
お願い、どうか気付かないで。
祈りにも似た気持ちで、彼の靴が遠ざかるのを待つ。
早く、早く。鼻啜りたいけど、啜ったら一発で泣いてることがバレるから、鼻水も垂れそうなの。
「――店長」
いつまでも戻らない彼を、トラブルに巻き込まれたとでも思ったのかもしれない。カランカランとドアを開け出てきたのは、彼の台詞から察するにこの喫茶店の経営者のようだった。
「お客様、何か不手際がございましたでしょうか?」
…………え、えぇぇっ! こっちに振られた? ひえぇぇ。どうしよう、どうしよう?
他人から見たら驚くほど些細な出来事なのに。これでは事態が大きくなってしまう。
泣いてる客と従業員。店長さんの人となりは全く知らないけど、状況だけ見たら彼が悪者みたいだし、変な風に誤解されてお店で働きづらくさせてしまったりしたら、もう二度と顔向けできない。
「ご、ごめんなさい、なんでもありません。その、わたしが悪くて」
しどろもどろにしか答えられない自分の不甲斐なさが、情けなくて堪らない。
ならば、そうだ、せめてさっさとお暇しよう。これ以上こじれないうちに、一分一秒でも早く立ち去らなくては。それがきっと、今のわたしにできる最善だ。
ああっ、でもよく考えたらそれじゃ無銭飲食だし! 警察沙汰になって、話がもっと大きくなってしまう。
それにできれば、猫の目も拾いたい。切実に。
……いや……この雰囲気、目の方は諦めよう。
挙動不審なわたしに店長さんの戸惑った気配が伝わって来たけど、わたしはびしょ濡れの財布から千円札を取り出す。アイスティの正確な値段は勿論知っていたけど、ここでチャリチャリ小銭を探す度胸もない。
お釣りは良いです、なんてどこぞのセレブみたいな、でも絶対にセレブのようには振る舞えてないから、もどきもいいとこみたいな言葉をごにょごにょと発し、もう一度ペコリと頭を下げると、急いで踵を返した――はずだったのだけれど。
パシッと掴まれた手首。思いもよらない力強さに阻まれ、一歩も進まないうちに引き戻される。熱いくらいのその感触に、鼓動が大きく跳ね上がった。
「ここで待っていてください」
直後、反して静かな声。
煩いセミの鳴き声の中にあっても、だけどそれは何故か一際よく響いた。
思わず上げてしまった顔は、涙と鼻水で、十段階のもはや十に達してしまうほど不細工だったに違いない。慌てて俯くけど、見られた事実が消えるわけもなく。
なんで……そしてなんてタイミングの悪い日……
恐る恐る視線を動かす。もう彼の手はわたしの手首を掴んでなどいなかったけど、感触が、温度が、鮮明に残り過ぎて未だに握られているような錯覚に陥る。
それにだ。彼は今、何と言った?
「店長、俺もう上がりの時間なので、今日はこれで失礼してもいいですか?」
え、え? 聞き間違えた? もしそうでないのなら、待っていてと言いつつも自分は帰っちゃうみたいな放置プレイ……?
「あ、うん。それは構わないけど……大丈夫、なのかな?」
ですよね。状況を把握しているわたしが戸惑うんですから、何も知らない店長さんはもっと戸惑ったことでしょう。
「はい。それからバックヤードの工具箱、少し借りてもいいでしょうか?」
言うや否や、彼はわたしの背後、踵を返したときにぶつかり斜めになってしまった椅子に手を掛ける。
「うん、あれは備品だから好きに使って」
「ありがとうございます」
そして椅子を引き、
「どうぞ」
差し出された手。
それは弱った心が見せた幻影かと思うほど、恭しくて優しくて。
しかし何でこんな展開になったんだろう? そもそも香月さん、あなた帰るのでは? なのにわたしをここに座らせる、その意図はいかに?
視界の端、千円札がピラピラと風に揺れていた。いつの間にか灰皿で重しがしてあって、映り込む野口英世が伸びたり縮んだり、間抜け面を延々と披露し続けるという、何ともシュールな彼のワンマンステージ。
振り返る。多分座るまで、彼はこの姿勢のままなんじゃないだろうか、そのくらいピクリともしなかった。視線を受けながら、落ち着かない気分で腰を落とす。
椅子が押され、再び立つのを阻むように深く腰掛けさせられた。
すると、またしてもわたしの足元へ跪く彼。
驚いたけど、次に立ち上がったときには、その手に光るビーズが乗せられていた。ナプキンで丁寧に拭い、差し出される。反射的に手を出せば、綺麗に爪が切り揃えられた、男性にしては繊細な指がそれを摘み上げ、わたしの手のひらへと移した。
「着替えて戻ります。少し待っていてください」
でもわたしの顔を見て困ったように眉尻を下げた彼は、一旦中へ戻り、すぐに冷たいお絞りを持って来てくれた。
「ありがとうございます」
受け取り、頭を下げる。
立ち去る彼の靴を見つめ、カランと扉の開閉音がしたところで詰めていた息を吐き、顔を上げた。
結局涙を見られてしまった。
ああ、こんなことで泣いたなんて、彼はわたしをどう思っただろうか?
お絞りを広げれば、香月さんみたいなさり気なく優しい、そんな香りがふんわりと心を撫でた。胸に吸い込むと慰められたように気持ちが凪いで、わたしはそれを顔に乗せ、そっと目を閉じた。
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