2.香月さんという人
香月さんという人①
麗らかな昼下がり、と洒落込みたいけど……如何せん暑すぎる。
都会の剪定された小さな街路樹だって、セミにとっては立派な婚活場所らしい。暑さに拍車をかける大合唱のラブソング。
でもこんなに近くでギャンギャン唄われたら、誰が誰だかさっぱり分からない。わたしなら確実に、ゆっくり一人ずつ聞かせてよ! ってなる。だって、スキスイとコブクロとミスチルが隣り合って同時に唄ってるの想像してよ。みんなちがってみんないいのに、超もったいないでしょ? セミにだって、セミにだけ分かる美声ってものがあるかもしれないんだから。
なんて、そんな取り留めもないことを考えながら、それでもわたしはお店のロゴが入った、辛うじて日陰のパラソルの下、入口付近を掃除する彼の背を眺め、幸せな気分でアイスティを啜っていたというのに。
「香月、彼女できたんだって?」
ぶおっほ。
思わず鼻からも出てしまった薫り高いアールグレイ。ああ、気品溢れる芳香がダイレクトに鼻孔を擽る……ってそうじゃなくて。
突然咽た変な客に視線を寄越すも、気にしないでくださいオーラを出しまくりさっさと外させることに成功。気付かれない程度に身を乗り出し、会話に耳をそばだてる。
「いや、彼女と言うか何と言うか」
「何だよ、お友達から始めましょうってか? 小学生じゃあるまいし」
広瀬という名札を付けたウェイターが、香月さんの肩を叩き吹き出す。
すると途端、少々遠目からでも分かるほど、彼の眉は盛大に顰められた。
「違います、一度断ったようなもんだったんですけど……」
「なに? 食い下がられたの? はは、モテる男も大変だね」
こんな暑い中、屋外で飲食する酔狂な人間はわたしのみ。だからきっと気が緩んだのだろう。平素では私語などほとんどしないのに、今日は少し大きめの舌戦が繰り広げられる。
しかし、急転直下とは、正にこのことだ……
眺めるだけで幸せだと思っていたのに、実際にこういう話を聞いてしまうと、せめて後一年、同じ土俵に上がるまで待っていてほしかったと思ってしまうのは、わたしの我が儘なのだろう。
わたしにはわたしだけの時間が流れるその分だけ、彼にも彼だけの時間が流れているのだから。
ああ、それにしても暑い……少しだけ眩暈もするし、お母さんもそろそろ心配する時間だ。今日はもう帰ろう。
今までだって爽やかな暑さとは到底言い難かったけれども、今はじっとりした不快感しかなかった。変な汗をかいていて、思ったよりも堪えているようだ。
それでも彼と同じ空間にいることに幸せを感じ、未練がましく最後の一口を殊更ゆっくり啜っていたのだけれども。
無情にも、ずぞぞぞぞ、とやがてはしたない音が鳴り響き……わたしが観念して伝票に手を掛けた、
「――あの」
そのとき。
降り注がれた、涼やかな声。
固まった、わたし。
聞き間違うはずもない。直接話をしたのは、一昨年の秋、ただ一度きり。だけどわたしはもう何度も耳にしている。こうしてここへ通い、その度に心囚われるこの甘やかなテノールを。
なんで? どうして、話しかけられてるの?
驚いて、取り出したばかりだった財布は無様に手から滑り落ちた。それでも動けない。
「大丈夫ですか?」
膝が汚れることも厭わずしゃがみ込み、あっという間に驚くほど接近した彼。
テーブルの下に落ちてしまった財布を拾う姿を、馬鹿みたいに見つめることしかできない。この世界にまるで彼しか存在しなくなったかのように、わたしの瞳は彼ばかりを鮮明に映し出す。
陽が当たるとほんのり茶色みを帯びる、癖のありそうな髪。美容院に行き損ねているのか、少しだけ伸びた襟足と、白いワイシャツのコントラスト。大きくて、なんて広い肩幅。女のわたしとは、明らかに違う骨格。動いた瞬間に、ふわりと香ったコーヒー。
どのくらいそうしていただろうか。だって、わたしの心は動揺と歓喜がいっぺんに押し寄せて、頭の中は軽いパニック。落ち着け落ち着けって頭の片隅でちょっとだけ冷静になったというか、無理やり冷静を装ったわたしが指令を出してるけど、表情を取り繕うのに精一杯。
そんな著しく処理能力の低下したわたしが、それでも、どうにか、やっとのことで詰めていた息を吐き出せば、下げた視線の先、わたしは彼の手が、綺麗に畳まれたお店のナプキンを、こちらへ向けて差し出していたことに気付いた。
「先程、アイスティを零されていましたよね? お召し物は大丈夫でしたか?」
ボケッとして受け取らない変な客に、きっと戸惑っているだろうに。そんなことおくびにも出さず、更に心配顔で、彼は反対の手に握られたわたしの財布に目を落とした。
「あ、す、すみません」
ああ、何てことをっ。拾ってもらった挙句お礼も言わないなんて、非常識にもほどがある。
ありがとうございますと慌てて頭を下げ、両方を受け取り……そしてわたしは、何故彼がこんなにも困ったような心配顔をしていたのか、そのとき漸く理解した。
「ああ……」
思わず出てしまった落胆の声。
いつもより格段に重くなった、ツモリチサトの長財布。
わたしにはちょっと高かったけど、頑張ってバイトして、生まれて初めて自分で稼いだお金で、思い切って買ったお財布。なのに……可愛い黒猫が刺繍されたそれが、わたしが先程噴出したアールグレイの水溜りに、見事に浸かっていたのだ。
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