何かと噂の新一年生⑥

「貴志」


 小走りで追えば、ゆっくり歩くヤツにはすぐ追いついた。

 その背が小さく揺れて停止し、大きなため息と共に肩が落ちる。


「俺、酔ってるみたい。ごめん」


 やっぱり笑ってしまう。そんなのわざわざ申告しなくても、とうに気付いてる。


「あのおばさんなら、応援するって言ったかなぁ」

「……おばさん? ……誰?」


 街灯を見上げ、手にしたうちわで顔を覆った貴志は、もう一度ため息をついた。確かにいつもよりよく飲んだようだ。酒気を帯びた呼気が、生ぬるい風に乗って俺にまで届いた。


「子供の頃、仲良くなったと思ったらすぐに引っ越しちゃったおばさん、いただろ?」


 言われて、物凄く久しぶりに思い出した。

 未だにどこの誰かも分からない、不思議なおばさんのことを。


 その人は、俺の両親が離婚して一週間か二週間くらい経った頃だっただろうか。前々から近所に住んではいたらしいのだが、名前はおろか、顔すら見たこともなかった、そんなおばさんが、何故か急に絡んでくるようになったのだ。


 通学途中、近所の公園、放課後の校庭。俺がいる所どこにでも出没するおばさんで、正味二週間は付きまとわれていたと思う。男なら変質者だと、警察に届け出ていてもおかしくないってほどしつこくて。

 でもそのおばさんは、子供心にもとても綺麗な人だった、ということもあったけれども、それを差し置いても、何というか物凄く良いおばさんだったのだ。


 口癖は――私はいつでもあなたを応援している。

 近所なら、噂はあっという間に広まっただろう。きっとそれを聞きつけ、まだ小さかった俺を憐れんで、慰めに来てくれたんだと思った。

 勿論そうとは分かっていつつも、でもその頃の俺は、そういった類の気遣いが逆に鬱陶しくて、重たくて。だから何度だって邪険に振り払ったというのに、それでもおばさんは、他人のはずのおばさんは、一向に俺に付きまとうことをやめなかった。

 そして事あるごとに繰り返すのだ。私はあなたをいつでも応援している、と。


 朝も昼も夕方も、所構わず出没してはそればっかり言うもんだから、向こうはそんなつもりじゃなかったんだろうけど、こっちはある種意地の張り合いみたいな感じになってて、なかなか素直になれなくて……それでもある日、俺は遂に根負けした。

 頑張れ、ではなく、応援している。些細なニュアンスの違いだけれども、もしかしたらそれが決め手だったのかもしれない。


 俺は当時、わりと必死で頑張っていたと思う。勉強も運動も、良い子でいようとすることにも。

 子供ってのは、口さがない大人たちのする世間話を、意味は分からなくとも意外としっかり覚えていたりするもので、それ故に時折浴びせられる驚くほど残酷な悪口にも、歯を食いしばって必死で耐えて頑張っていた。

 だから、頑張れと言われていたら、もっと長く反発していたかもしれない。


 他人の子供にこんなに親身になってばっかじゃない、とか多分そんな可愛げのないようなことを言った気がする。

 けど、俺らのサッカー遊びに付き合って、木の枝と石ころのしょうもないゴルフごっこに付き合って、上っ面の言葉だけじゃなくて全力で一緒に楽しんでくれて。俺がいじめられていればヒーローのようにどこからともなく現れては、びっくりするくらい本気で怒ってくれて。

 苦しかったあの時期を乗り越えられたのは掛け値なしに、いつも傍にいてくれた貴志とおばさん、この二人のお蔭なのだ。

 だからそんなおばさんを好きになるのに、必然、俺も貴志もそれほど時間はかからなかった。

 残念なことにその後は、名前も尋ね損ねてしまうくらいすぐ、どこか遠くへと引っ越して行ってしまったのだけれども。


「俺、お前のこと応援したいんだよ、ホントに。あのおばさんみたいにさ。だけどあの子、あんまし良い噂がないみたいなんだ」

「噂?」


 さっきも言っていた、噂。俺が彼女と話している間にでも、誰かが貴志の耳に入れたのだろうか。


「うん。俺、邪魔した?」

「何の」


 問えば、こちらに向き直った貴志の瞳は、不安げに揺れていた。


「恋路」

「恋路? まさか」


 あの短時間で、俺が彼女に惚れたとでも思ったのだろうか。


「違う。これから発展する可能性の芽を摘んだんじゃないかってこと」


 なるほど、俺じゃそこまで頭は回らなかった。


「でもお前がそれを摘もうと思うくらいには、彼女にまつわる噂を良く思わなかった。そういうことだろ?」

「そうだけど……所詮は噂だから」


 立ち止まったまま何だかよく分からない後悔に暮れる貴志の背を叩き、今度は俺が先を歩き出す。

 視界の端、コンクリートの隙間からしぶとく顔を出す、名前も知らない小さな花が風に揺れた。


「柊司の噂が真実でないように、彼女の噂だって真実ではなかったかもしれない」


 酔ってるわりには真剣な声が、俺の背に浴びせられた。


「……俺の噂は、まあ半分は真実だろ。恋人を大切にするかしないかと言ったら、しないに分類される」

「しないんじゃなくて、お前はするのが怖くて、できないだけだろ」


 尻すぼみになる貴志の声。

 返事もせず、曖昧な笑みを浮かべただけの俺をどう思っただろうか。


 全てを知り尽くした幼馴染というのは、ありがたくも厄介だ。

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