第11話 事実


 『おいおいおい。お前も本当にいこじな奴だなあ。余計なことで悩みやがって。俺の力を使えば全部解決。俺とお前で全部ぶち壊しちまえばいいんだろうに』

 先日の夢同様、海斗の潜在意識に何者かが干渉を及ぼす。毎度耳障りで品のない、粘り気のあるあの声だ。

 「何度出てきても無駄だ。俺は何も壊さないし、別に悩んでなんかいない」

 相手の挑発に、海斗は真っ向から対抗。

 『ほう。それはご立派な話だな。俺はおめーさんが今日会ったマントの男のにつくものかと思ってたんだが』

 「どうしてそうなる。俺は暴力に屈しない。いつだって戦いが生むのは血と、恨みだけだ」

 「じゃあどうして反論しなかった」

 その時、海斗は喉元がきゅっと締め付けられるような違和に苛まれる。先刻の男に問われた時と同じだ。声が出ない。言わなければならないことは分かっているのに、それらが形を持って動いてくれない。


正しい。正しいに決まってる――


 戦争が終わり、誰も血を流さずに済む理想の世界になったんだ。戦時中からずっとそれだけを望んで戦ってきた。今以上の平和なんて、ある訳がない。

 「本当にそうか?」

 相手の声音は冷静だった。あざ笑うでも馬鹿にするでもない。ただ当たり前の事を述べているのだというような、確信に満ちた声。

 『誰も犠牲になってない? じゃあ聞くが、お前は今世間からどんな扱いを受けてる。お前の妹は、他の獣人は? 全ての存在が笑って今を生きられているのか?』

 「辞めろ!」

 水気のない喉が割れてしまうくらいの大声で、海斗は叫んだ。

 「お前に何が分かるんだ。一体何度言わせる? 俺は今幸せさ。そりゃそうだろうよ。今は戦争で命をかけて戦わなくてもいい。同胞が死んでいくのも、見せられなくていいんだ。そんな世界に比べれば、今がどれほどいいか」

 『お前,狂ってるな』

 その時、闇が深くなり、心臓が早鐘のように鳴り始めた。心が急いて仕方ない。

自分に対する洞察を非難してやりたいと心底思うのに、それを行動で示せないのだ。得意の理屈で相手をねじ伏せてやろうと思うのに、どうしたって口が動いてくれない。

 早く目覚めなけれんば。海斗は意識の中で頭を打ち付け、血が飛び散るくらい強く舌を噛んだ。が、

 『良いか悪いかなんてのは落差で決まる。餓死しようとするガキはパン一個でも幸せに思えるが、一国の貴族がそうな筈がねえ。でもなあ、お前のは間違ってる。人を殺し、殺され、それを人生の境界線に持って行っていい訳がねえ。お前はあの戦争のせいで、狂っちまったのさ』

 「うるさい! 狂ってるのはお前だ!俺は、俺は何も可笑しなことは言ってない」

 『ああそうだったなすまねえ。俺は狂ってた。そりゃそうだ。俺はお前。狂ってるに決まってる。ただ一つだけ覚えておけ。お前が少しでも油断すりゃ、俺はいつだってその体を奪ってやるからな』


 相手の声は最後にそれだけを言い残し、再び戻ってくる事はなかった。

 最後の言葉だけが、いつまでも波のように海斗の胸中を撫でていた。


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「はあ……はあ……」

 額にじんわりと汗を浮かばせ、海斗は飛び起きるように上体を持ち上げた。

 口がからからになり舌が乾くので、台所まで水を飲みに行く。

 脱水症状になるくらい水分を持っていかれ、すぐにでも倒れ込んでしまいそうだ。目の前がくらくらして、呼吸も浅い。

 海斗は二人の同居人が目を覚まさぬよう、廊下を重い足取りでゆっくり進んだ。

 台所の蛇口をひねり水を汲む。直ぐに口元へコップを運ぼうとするも、

 「あ……」

 手汗の量が尋常でなく、コップを滑り落としてしまった。

 そして刹那。

 コップがパリンと割れる快音と共に、身体から力が抜けていった。平衡感覚が失われ、足元から崩れ落ちていく。

 倒れる――――。

 意識の残り香でそう確信したまさにその時、海斗の矮躯をより小さな体が受け止める感触があった。

 視界にはっきりと映るのは、煌煌と宙を舞う艶やかな金髪。今、海斗の中に生まれつつあるのは、安ど感の連なりのようなものだった。

 それでも意識は薄れていく。今度は夢を見ることはなさそうだ。



 気が付くと、海斗は台所で横になっていた。視線が低い位置にあるので、目の入るのは傷だらけの床とテーブルの脚。

 そうだ、自分はあの時意識を失い、そのまま倒れ込んだのだった。体に痛みはないので、どこか打ったりはしていないようだが。

 そんな曖昧な思考の中、自分の頭が特別柔らかい何かの上に置かれているという事に、ふと気づく。

 「やっと起きましたね」

 自分の頭上から聞えてくる、安らぎと落ち着きを纏った壮麗な声――。

 「え?」

 途端、朦朧としていた意識が唸り声と共に覚醒。瞬時に状況を把握すると、跳ね上がるようにして、その心地よい肌触りから離脱した。

 離脱して、眉間の当たりをぴくぴくさせ、顔全体を歪ませる。

 失態――。

 怒涛の勢いで体に熱が帯、喉元から何か得体の知れないものがせり上がってくるような感覚があった。

 「ユニ……お前何やってんだよ」

 海斗は身じろぎし、大仰に後ずさった。どろもどろになりつつ、自分が今の今までいた場所を、開ききった眼球で見つめる。

 膝枕。

 狼狽する海斗をきょとん顔で見つめるのは、礼儀正しく正座し、僅かに首を傾げるユニだ。

 「ど、どうしたんですか海斗さん」

 彼女は海斗の豹変に驚きを隠せないようだった。姿勢を崩し、前のめりになりながらこちら側によって来る。顔を覗き込んでくるが、海斗はその目を見返すことが出来なかった。

 自分は今の今まで、無防備な格好でユニに膝枕されていたのだ。脳裏にその気恥ずかしい光景が投射すると、様々な感情が胸中で暴れ、今すぐにでもこの場から消えたくなった。

 が、ユニはそんな心中を特に気にすることもなく、普段通りの美声を海斗に投げる。

 「すみません。私海斗さんがうなされてるの聞えちゃって、大丈夫かと思ってキッチンまで見に来ちゃったんです」

 「あ……そうだったのか」

 思いもよらぬ告白に一旦鼻息を吹き、口をぎゅっと結んだ。

 倒れる直前の感触は、どうやらユニが間一髪のところで支えてくれたものらしい。

 取り付けてある時計を見てみると、時刻は夜中の3時を過ぎていた。自分がここに来たのが2時なので、

 「何か……悪かったな。一時間以上もこんなところで……」

 ここまでの成り行きを理解し終えた所で、海斗はぼそりと礼を言う。すると、ユニが心底心配している表情になって、

 「海斗さん、昨日もおとといもうなされてましたよね?」

 「あ……。いや……」

 すっと視線を床に伏せてしまった。目の前の表情が真剣すぎて、気おされてしまったのだ。

 「すみません! 私なんか迷惑でしたよね。今の忘れてください。おやすみなさい」

 どう寛容にとらえようと不愛想にしか見えない海斗の対応に、ユニは色白な顔を紅潮させる。体の前で腕をぶんぶんと振り、ぴたっと立ち上がったと思えば、逃げ去るようにして歩調を急がせ始めた。最後にもう一度『ごめんなさい』と海斗の目を見ずにいい、ドアノブに手をかけるのだが、

「昔の夢を見るんだ」

 意図せずとも、海斗は独り言のようにポツリと言った。

 「え?」

 「最近は特に多くなった。昔から頻繁によく見てた、怖い夢だ。俺は怖いんだ。自分が本当はただの化け物で、どうしようもない人間であるんじゃないかといつも思う事がある……」

 自分が分からなくなっていた。何故ユニにこんな話をしているのだろう? 

ユニは友達でもなければ家族でもない。何せ、彼女と出会ったのもここ数日なのだ。海斗はユニの事を知らないし、ユニも海斗のことを何も知らない。

 それに、自分は獣人で彼女は普通の人間だという決定的な違いがある。同じ戦災孤児とは言え、生物学上超えられない差異があるのだ。どんな悩みを話そうと、彼女が本当の意味で理解してくれるなどとは、到底思えなかった。

 それが頭で分かっているのに、海斗は悩みの全てをぶちまける。再び自分の方によって来るユニを真っすぐに見据え、まくしたてるように続きの言葉を述べていく。

 「俺は自分が怖いんだよ。俺は、人殺しなんだ。戦争中、何人もの人の命を奪った。そんな俺が平和を語る。図々しいのにもしいのにも限度があるとは思わないか? それが分かってるのに俺は、いつだってきれいごとを並べて、自分が今置かれてるこの状況を正当化しなくちゃ気が済まないんだ」

 興奮を隠せず肩を激しく揺らす海斗の話を、ユニは黙って聞いていた。何も言わず、ただ海斗の言葉に耳を傾け、こくこくと頷いている。

 「実際ぶっ殺したい奴だって山ほどいるさ。俺を差別するやつ、前の同僚。数えたらキリがねえ。なのに、絶対に戦争は良くねえなんて柚葉には語って……。俺は自分が怖いよ。きっと俺みたいなやつがまた、意味のない戦争を引き起こすんだ」

 心の奥では理解していた。今日の黒ローブの男も、夢に出てくる内なる自分も、そのことを理解したうえで俺に声をかけたのだろう。自分をどんなに飾ろうとうまい嘘で固めようと、人の本質は変わらない。彼らはその事実を、俺に説こうとしているのだろう。否、認めさせようとしているのだ。

 「つまらない話を聞かせて悪かったな。もう寝た方がいい」

 今しがたの己の愚行に、少し苦笑い気味に、そう言いかけたまさにその時、とても柔らかく全てを包み込むような感覚が、海斗の全身を覆った。

 「ユニ……?」

 「私は怖くないです。海斗さんの事」

 完全なる肯定がそこにあった。疑いの余地すら無く、海斗は驚嘆を通り越して、もはや唖然とする。

 この女は、一体何を言っているのだろう? 海斗は彼女の腕の中に収まりながらも、ものすごい速度で思索を巡らせた。

 自分は今、己の黒い部分を全て吐き出したではないか。なのに、そんな愚物を彼女はためらいもなく抱きしめている。化け物の本音を目の当たりにしたというのに。自分は獣人で、人を簡単に殺すことのできる生物兵器だというのに。

 もはや正気の沙汰ではない。

 そう思いながらも、海斗は次に出てくるユニの言葉を待ってしまう。許してほしい。肯定してほしい――。

 「海斗さん。優しいじゃないですか。自分をそんな風に思っちゃダメです。海斗さんは自分が人殺しだっていうけど、それと同じくらい海斗さんが守った人もたくさんいるんですよ」

 確かに、それを免罪符にして、自分のしてきたことを正当化できるならいい。が、海斗にとってそれは簡単な事ではないのだ。100いい行いをしても1の悪行の方が、いつまでも脳内に彷徨い続けてしまう。

 海斗は目を穏やかに閉じ、ユニの暖かくて柔らかな体躯に身を預ける。このまま時間を気にせずこうしていれば、今までの嫌な思いを全て解かしてくれるのではないか? 罪の意識のない自分を再び手に入れ、また一から新しい人生を始めることが出来るのではないか?

 そんな甘えが、そんな傲慢な考えが、胸の内にじんわりと広がり始めたまさにその時、記憶の断片が重なり合い、そして――。

 「放してくれ」

 海斗は容赦なく、目の前の矮躯を突き放していた。

 「海斗さん?」

 ユニは開ききっためで海斗を見ている。体をぴたりと硬直させ、驚きを隠せない様子だった。

 「お前に何が分かる。獣人でもないお前に、俺の気持ちなんて分かるはずかないだろ!」

 無我夢中で海斗は叫ぶ。自分以外の全てを拒絶するような、鋭い絶叫。息継ぎもままならないくらいに興奮し、見える者すべてが歪んで見えた。

「海斗さんどうしたんですか急に、落ち着いてください」

 それでも海斗に、ユニの声は聞こえない。

 普通の人間が、人ひとり殺したことのない人間が、自分の事を肯定するだなんてあってはならないことだ。そんなの全て建前で、決して本心ではないに決まっている。どうせいつか諦められるなら、それは早いに越したことはない。海斗はユニのなんでも受け入れてくれる優しさが、何よりも怖かった。

 「俺がお前を助けたのは、別にお前の為じゃない。目の前で人が死ぬのを見るのが、怖かっただけだ」

 オオカミ男との戦闘において、自分の中でいかなる葛藤があったのかを、ぽつぽつと述べていく。

 自分がユニを助けた理由。それは、自分が救いに入らなかったが為に人が死んだのだと、後になって罪悪感に苛まれたくなかったからだ

 「お前を家に置いてやったのだって、自分の為。自分の保身を守りたかっただけだ」

 柔らかな口を堅く閉ざすユニに、海斗は尚も言葉をぶつける。

 ユニが怪我をした。それを知った時、自分が責められているような錯覚に陥ってしまった。故に、責任はきちんと取ろうとしていると、周りに示したかったのだ。自分はきちんと責任を取っていると。彼女が治るまでは面倒は見るのだと……。

 人がけがを負ったというのに、それを差し置いて真っ先に自分の事を心配してしまう。何と愚かなことだう。

 「もう俺には構わないでくれ」

 途端、一生分の沈黙が室内全体を覆った。耳鳴りが脳を焼き、少しの物音も届かない。

 これでユニもやっと、自分の事を嫌いになったはずだ――。

「ごめんなさい……」

「……」

 ユニは大粒の涙を流していた。海斗はそれを見て、足元がずんと床に沈んでいくような感覚に囚われる。想定外の事に、どうするべきか分らずじまいだった。

「ごめんなさいって……どうして……」

 何故ユニが誤らなくてはならないのか、理解に苦しむ。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 胸を裂く様な謝罪の連呼は、もはや音になっていなかった。が、それが嘘なきでないことくらいは海斗にも分かる。

「ごめんなさい……」

ユニはとうとう、床に顔を背けたまま、逃げるようにその場から消え去った。

 海斗はユニを負う事が出来ない。追う資格など無い。その場で棒立ちのまま、意味もなく時間が流れるのを待っているだけだ。



 そして次の日。ユニは海斗の家から消えていた。置手紙もなく、当然最後の挨拶もなしだった。

 それからの3日間、ユニの泣き顔があたまから離れなかった。夢を見ていた方がましだと思えるほどに、辛い時間が流れていった

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