偶像
屑原ハコ
君のために×す
それは、じっとりと額に汗の絡みつく、まだ残暑の厳しい盆暮れのある日のことだった。
四畳半の一室。風を入れるために開けられた窓からは、風だけではなく、傾き始めた太陽の光や蝉の声、それから子どもたちのはしゃぐような声も入りこんでくる。小学生だろうか。数人でどこかへ向かっているらしい彼らは、もうすぐ終わる夏休みをしっかり満喫しているようだ。
羨ましいことである。虫網を持って森へ入り込んだり、プールバックを振り回しながら学校の開放プールに向かったり。それは、通り過ぎてしまった者には、もう二度と戻れない場所。遥か遠くの思い出を掘り起こすようなその音たちは、どこか儚くて、切なくて、胸を抉るようだった。
そうして、一人ひっそりと胸を痛めたそんな時、窓を通り抜けた風が風鈴を揺らして、五月蝿い蝉の鳴き声を一時だけ蹴散らす。気分を軽くしてくれるような清々しく涼しい音は、暑さを少しだけ遠ざけたけれど────部屋の中に響いている陰鬱とした嗚咽は、それでも止むことなくもうずっと続いていた。
蹲り、それと一緒に涙を流し続けている少年、陽介の隣で、夜代は頬杖をついて、何も言わずにぼうっとする。母親に昨日散々口煩く行けと言われた夏期講習をサボって幼馴染の家にやってきたはいいものの、こんなに泣いている彼とは遊べない。見ればわかるが、彼は今、遊びどころではないのだ。
中学三年生、受験勉強真っ最中の夏。先生曰く、負けられない夏。二人には、思うこと、考えることが、その身に収まりきらないほどたくさんあった。
勉強も勿論だが、それ以上に思春期という病は悩ましく────陽介は部屋の隅に立てかけてある、他とくらべてうまく扱う事の出来ない野球のバットのこと、今まで仲良くしていたのに、自分を置いて遊びに行ってしまった友達のこと。頭がぐちゃぐちゃになるくらい、最近はその事ばかりだった。
一方の夜代は、ほんの些細なこと────例えば、道を一人歩くだけでも深く傷ついて、夜遅くまで悩んだりしていた。そうしてとうとう最近では、自己防衛のために考えることを放棄していたが、かわいそうな気の弱い陽介を見て、なぁんにも考えていなかった頭をなんとか使って、陽介がこれからを生きていく方法を考えた。
そうして、ふと、思いついた。
「弱虫の陽介くんを殺そう」
「……え、」
そんな、なにやら物騒なことを淡々と、突然に言うので、驚いた陽介が顔を上げると、夜代は黒い瞳でじっと陽介を見つめていた。怖いくらいに真顔だった。
陽介が不安になって眉を下げると、夜代はにっこりと笑う。それから、近くに置いてあったバットに、ゆっくりと手を伸ばした────
「大丈夫。私に任しといて。」
ジ、という悲痛な鳴き声を最後に、うるさい蝉の声が、やんだ。
「夜代ちゃん、覚えてる?」
陽介くんのその問いかけに、私は頷いた。よく覚えている、14歳の時の病。
あの頃はお互いに本当によく悩んだものだが、悩み多き私は、大人になった今でも息が詰まるほどに悩んでいた。私の病は、未だ治らない。いつまでも終わることのない無間地獄のような日々が恐ろしくて、あんまりにもつらくて、さみしくて、くるしくて、蹲って泣いていた私の前に、陽介くんは突然やってきて、突然先程のように問いかけたのだった。
あれから数年が経ち、今となっては連絡の一つすらも取り合っていなかったというのに、陽介くんは私がどうしてたかなんて知らない筈だったのに、そこにいるのが当然みたいな顔して目の前に立っている。
逆光で、陽介くんの表情はよく見えなかった。けれど数年ぶりに会った彼は、最後に会った日と変わらないように見えた。どこかオカシくて、例えばかなしませたり、怒らせてはいけないような、とんでもない人のまんま。どうやらあの日私が“飛ばした”頭のネジは、まだ拾えていないようだ。
そのオカシさは、私にとっても確かにすこし恐ろしかったけれど。そんな彼を見て、私はようやく、ひどく安心したんだ。そんな私も、きっとオカシかった。
「僕も、僕も覚えているよ。夜代ちゃんは、僕が悲しい時、思い悩んでいた時、いつもそばにいてくれた。」
陽介くんは、少し微笑んでそう言った。私が彼の名を呼べば、彼は一歩、私に近づく。それから今度は、少し眉を下げた。
「ねえ、どうして泣いてるの?誰にやられたの。僕が、やっつけてこようか。」
「……陽介くん」
陽介くん。縋るように呼べば、陽介くんは私の前にしゃがみこんで、ごしごしと私の頬に伝う涙を服で拭ってくれた。些か乱暴だったけれど、布越しに伝わる体温はあたたかく、陽介くんは今、私にとって紛れもないヒーローだった。だって、救われたって、私は確信した。
「陽介くん、わたしね、わたし、」
「うん」
「わたしね、かなしいの、くるしいの。もう、どうしようもないんだ」
私は今、どこにも居ない。居場所がないから、居る場所がなくて、居ないのとおんなじなんだ。常に首がしまっていて、息を吸うことすら難しくて、もがいて、なんとか吸い込んでも、今度はそれを吐き出す場所すらなくて。私は孤独だった。くるしくて、くるしかった。人の波に呑まれて、涙は掻き消えて、溺れて、いつか死んでしまうその時まで、私はこうしてくるしんで生きていくのだろうか。
そんなの嫌だ。それならいっそ、泡みたいに消えてしまいたい。それかせめて、何もかもがめちゃくちゃになってしまえばいい。
みっともなく泣きじゃくってそう言えば、陽介くんはしばらく黙り込んだあと、納得したように頷いた。そして、どこからともなく取り出した、いつの間に手にしていた木製のバットを構え、私にめいいっぱいの笑顔をくれる。にっこり。無邪気で、真っ直ぐで、眩しい神様みたいな笑顔だった。そうして陽介くんは、私の求めていた言葉を間違えること無く私にくれたのだ。
「じゃあ、夜代ちゃんの弱虫も、ぶん殴って殺そう!」
元気よくぶん、とバットを振りまわしてそういった彼は、幸せそうだ。私も笑って頷く。ああ、よかった。これでもう大丈夫だ。彼が約束を覚えていてくれて、よかった。
あの日、あの夏の日、どこかの蝉がポトリと地面に落ちた日。死んでも生きていくために、私たちはそういう約束をしたのだ。思春期という病に侵されていただけではない、人よりも幾分か傷つきやすかった脆い私たちが、しあわせになるためには、こうするしかないって、私はあの時気づいてしまった。
生きていくために、私たちはどこまでもやる。
「大丈夫、僕に任して」
この選択が間違っていて、愚かであるということに、わたしたちはついに気づけなかったが、ただ、これだけはわかってほしい。
私たちはいつでも、お菓子みたいにあまいしあわせがほしかっただけ。それだけなんだ。
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