第2話 ロ短調の追憶


 「はっぴょう会でモーツァルトをひきました。すごくきんちょうしたけどうまくできました」(上山なみの小学一年時の文集より)



 雨ですっかり桜の葉が落ち、アスファルトを桃色に染め上げた校舎の脇道。鳴美は紺色の傘を差しながら、今日もここを通って家路に向かう。雨粒と雨粒の隙間からは音のこもったジャズがその小さな耳に届く。音というものは湿気を多く含んだ場所では、日焼けした絵画のように輝きを失う。軽快なピアノ伴奏と唸るテナーサックスは五十年代前半の音源に聴こえる。それでも鳴美は聴こえなくなるまで耳をすます。向日葵が太陽を見つめるように。

 鳴美は自宅の最寄り駅で降りる。改札機が三つだけの小さな駅。隣りにある立ち食いそば屋から汁の匂いが漂い、車道の向かいには色とりどりの花屋がある。定期券をバッグにしまった鳴美は屋根の下で立ちどまり、左右に走り去る車を眺めながら、傘を差そうと右手で傘の柄を左脇腹に挟む。すると、目の前を上から下に何かが通過し、足元から水琴窟のような反響音が鳴る。屋根伝いの雫が口径の小さな瓶の中に滴り落ちている。鳴美は傘を開ける手を止め、およそ一定のテンポで落ちる雫を見て、小さな水面に広がる波紋に見入る。東から風が吹き、髪の毛が視界を遮る。風が通り閉じた目を開くと、前方に走る車やバイクはモノクロになり、特急電車の轟音はミュートされ、ガードレール下にとても小さな色を見つける。誰も気に留めない小さな野草がアスファルトの隙間から咲いている。空から見れば鳴美も波紋も野草も儚く大きな奇蹟だった。けれども、そこを通過する誰もがそのことに気がついていない。

 鳴美は傾斜のある公道を進み、傘をずらして丘の上にある建物を見上げる。そのまま歩いていくと、背後から雲に隠れた太陽が姿を現す。黒味がかった雲一面の空に、そこだけが薄っすらと明るみを持っている。明けない夜も、晴れない雲もこの世にはない。しかし、時間に縛られたこの世では、長い長い旅を要することがある。

 本棚の間を歩く鳴美は木漏れ日のように姿を現しては消す。ローファーの踵が当たる木目の床はテンポよく知的な音を立てる。鳴美は迷うことなく目的の棚に辿り着き、ハードカバーとソフトカバーの並びに右手を伸ばす。読書席の隅に立ち、音を立てないほど優しく本を置く。まるで赤子をベッドに寝かせるように。ソフトカバーの表紙は表を向いており、プリーモ・レーヴィ『これが人間か』であることが分かる。椅子を引いて腰掛けた鳴美は右手で本を開き、前回読んだ一七三ページの次を左手で押さえる。〈研究所の三人〉と章題が書かれている。

 鳴美は角にある観葉植物と共に違和感なく図書館に溶け込んでいる。場の空気は滞ることなく渓流のように流れている。まるで幼少期から読書に明け暮れていたかのような横顔がそこにはある。その向こうには一面の窓があり、奥に灰色とくすんだ緑がかかった海が見え、まるで人々の焦燥感を吸って表わしたかのようである。鳴美は演奏するようなリズムで活字を読み続ける。譜をめくるように本をめくる。そして、リズムが途絶え瞳孔が開き、二度、三度読み返す文章に出会う。

「私は過ぎ去った多くのことを考えた。仕事、戦争の終結、善と悪、ものごとの本質、人間の行動を支配する法。そして山、歌、愛、音楽、詩。私は運命がほほえんでくれることを、ばかばかしくも、広く、深く信じていた。そして殺すことや、死ぬことは、自分には縁のない文学上のできごとだと思っていた」

 鳴美は本の黒い文字と白い紙の間に溢れ出しそうな記憶を映写し始める。それは「過ぎ去った多くのこと」であり、「悪」や「音楽」であり、「運命がほほえんでくれなかった」ことであり、「死ぬこと」であった。鳴美は息苦しさに気が付き、本から顔を上げ、鼻から胸いっぱいに息を吸い、ゆっくりと吐き、呼吸が安定を取り戻すと窓の外に目をやる。僅かに見える浜辺に押し寄せる波をとても切ない目で見つめ続ける。砂浜を行けるところまで伸びようとする力強い波は、夢に届こうと手を伸ばし続けた過去の自分に見える。そして波は海へ引き始め、夢は最初から無かったかのように消えた。


 一九時半。朝から続いた雨はやみ、夜空を三日月が照らす。鳴美は夕飯の匂いが漂う住宅地を、等間隔に並んだ外灯に照らされながら歩く。鳴美の嗅覚は各家庭の匂いに触れ、少しだけ幸福を感じている。幼少期から好きだった匂い。夕方の住宅地の匂いはいつも幸せな家庭を連想した。友達の家から自宅に帰る時、漂う夕飯の香りが生きていることの素晴らしさを自覚させた。昔の鳴美はいつも頬が緩み、帰宅に胸を躍らせた。父と母の顔を見て、夕飯を食べ、学校の話をする。これが鳴美の幸福であった。だが、今の鳴美は頬を緩ませない。鳴美の中でチャイコフスキー『四季』の〈五月〉が流れる。切ないノスタルジックなメロディが流れる。

 角を曲がると五階建てのマンションが姿を現し、鳴美は桜の木を見上げる。外灯に照らされて妖しなり、幻想と浮遊感を醸し出す夜桜に意識が吸い込まれる。鳴美は小学生の時に一生懸命考えた。秋の紅葉と春の夜桜、はたしてどちらが美しいのだろうか、と。なぜ秋の風はザラザラするのか不思議に思いながら、落ちた紅葉をよく素手で掴んで眺めた。

 滅びゆく美。

 鳴美は小学生の時にそれを捉えることが出来た。選ばれた子だった。先生から薦められて母が買ってくれたCDのケースを、幼くて柔らかい小さな手で掴み、ジャケットの写真をまじまじと見つめ、年老いたリヒテルの表情に深い思索と経験を感じた。晩年の枯れたリヒテルの演奏に紅葉を感じた。テクニックでは説明できない何かを鳴美は聴いていた。それは回顧であり、終焉であり、受容であった。

 

 鳴美は自宅のドアを開け、革靴を脱ぎ始める。婦人物のパンプスが一つだけ置かれた小さな玄関。正面にはモネ『睡蓮』のレプリカが飾られている。鳴美は脱いだ革靴の向きを手前にして揃え、青いスリッパを履き、リビングに続くドアを開ける。

「ただいま」鳴美は大きいとはいえない声で言い、何かを煮込む音を聴き、スパイシーな香りを嗅ぐ。

「おかえりなさい」と左側のキッチンから声が聴こえる。だが、声の主は奥にいて姿が見えない。代わりに野菜を刻む音が聴こえる。

 2LDKのマンション。リビングには黒いテレビと黄色い二人掛けソファとガラステーブル、そして白くて小さなダイニングテーブルだけという簡素なインテリア。ベランダの窓ガラスは淡い赤のカーテンが片方だけ閉められている。

 鳴美はキッチンに顔を出そうとすると、声の主は発する。

「もうすぐご飯出来るから、先にお風呂にいってらっしゃい」

「はい」鳴美はそういって振り返り、玄関脇の自室へと向かった。


 ダイニングテーブルに向かい合って座る二人。背後では見ていないテレビから笑い声が聴こえる。やや水分を残したセミロングの髪の鳴美は右手で銀色のスプーンを使い、カレーを口に運ぶ。向かいに座る中年の女性はビールのフタをプシュっと美味そうな音を立てて開け、缶のままグイッと飲む。鳴美は紺の部屋着に着替えており、中年の女性は会社着のまま。

「どう、新しいクラスは?」女性は言う。

「まだ分かりません」鳴美は下を向いたまま答える。

「そうよね」

 鳴美はゆっくりとカレーを食べる。

「大丈夫よ、今年も、来年も」沈黙の中、女性は患者の腕に注射をするように注意を払って言う。

 鳴美は顔を上げる。「叔母さん」

 女性はビールを飲もうとしていた手を止める。「何?」

「いつもおいしいご飯、ありがとう」再び鳴美は下を向く。

 女性は哀れみを含んだ顔になり俯く鳴美を見つめ続けたが、言葉ではぶっきらぼうに言う。「良いのよ」


 この女性は鳴美の母親ではない。叔母である。年齢は三八歳で、年相応だが色気がある。濡れ髪のようなパーマをあて、ブラウスを胸元まで開けている。バツ二で子供はおらず、バーで知り合った行きずりの男との恋を謳歌している。仕事は看護師をしており、二度離婚した相手は共に医師であった。

 切って並べられた赤いトマトと緑のレタスに胡麻ドレッシングがかけられているサラダ。鳴美はそれを見つめながら考え始める。

 私は叔母さんに気を使わせている。もう一年もこの人の優しさに何も応えることが出来ないでいる。私はこの家にいないほうが良い。でも、どこへ行って良いのか分からない。叔母さんとはこんな関係ではなかった。以前はもっと柔らかい軽さがあった。壁は、なかった。

 鳴美は最後のカレーを口に運ぶ。そして「食べ終えたカレーはきっと美味しいのだろう」と思う。けれども、鳴美には辛さや甘さはほとんど感じていない。炊きたてご飯の熱さと粘度だけが唇から伝わっているだけ。鳴美は一年以上前から味覚が鈍くなっている。

 叔母は黙って何かを考え続ける鳴美を見て言う。

「じっくり進も」

 鳴美は俯いたまま小さく頷く。

「傷を治すには時間がかかるんだからさ」叔母は静かに缶をテーブルに置く。

 背後のテレビから大爆笑の声が聴こえる。二人はしばらくそれに耳を澄ます。

「そういえば」鳴美は視線を食べ終えた皿から叔母に移して目を見る。「隣の席の男の子……」

 叔母は話しを遮って言う。「イケメンなんだ?」

「違う」鳴美は少しだけ頬を緩ませる。そして、慌てて言う。「いや、違うっていうのは、イケメンじゃないってことじゃなくて……」

「分かっているよ」叔母は嬉しそうに二本目のビールの缶を開ける。ブシュッと小気味良い音が鳴り、少しだけ中身がブラウスに飛沫する。「で、隣の男子がどうしたの?」

「良い人そうかな、って」

 良い人そう――。そんなさして重要ではないことを誰よりも安堵しながら言う姪を見て、叔母は悲しくなる。胸がギュと締め付けられ、痛みが伝播し、一瞬だけ目元が落ちる。でも、叔母はそれをすぐに戻し気丈に言う。

「いるよ、そんなやついっぱい。あんたカワイイんだから優しくされるよ」

 鳴美は自信の無さで伏し目になる。叔母は初めてカレーを口に入れる。

「叔母さんは、モテるんでしょ?」鳴美は視線を上げて言う。

「アタシ? まあ、熟女のわりには」叔母はご飯を咀嚼しながら言う。

「熟女」鳴美は初めて口角を上げる。

「言っておくけど、あんたもこうなるんだからね」叔母は顔のシワをスプーンで差す。

「叔母さんは紅葉だよ」

「フッ」叔母は鼻で微笑む。「良いように言うね、あんた」

「うん。年取るなら、きれいに取りたい」

「ビールあげようか、あんた」叔母は機嫌を良くして言う。

「二十歳まで飲まないよ」

「とかいってみんな進学したら歓迎会で飲むんだから」

「私は飲まない」

「アタシは倒れるまで飲んだな」

 鳴美は薄っすらと微笑みながら赤いカーテンで閉じられていない片側の窓から外の景色を眺める。点滅する鉄塔の灯りをぼんやりと見つめ続ける。その横顔を優しく見つめながら叔母は思う。

 約束して、進学するって。そしてアタシの年まで年取るって。緑のまま死んじゃだめ。きれいな紅葉になりなさい。

 鳴美の視線の八キロ先に一軒家がある。両隣は明かりが灯り、笑い声が聴こえるが、この家に明かりはない。けれども、借家ではない。暗がりの中から音が、音楽が聴こえる。窓から差し込む月明かり。整理整頓されているとは言えない部屋の中央で人が椅子に腰掛け、回転するレコードをぼんやりと眺め、スピーカーから流れる音に耳を傾けている。ベッドの上には旅行着として落選した婦人物の衣類が雑に畳んで置かれ、椅子に座る人は深い呼吸と共に目を閉じ始める。外を走る車のライトが一瞬だけ屋内に入り込み、薄暗い部屋にその顔がぼんやりと浮かび上がる。辻本渉。けれども、校内で見せる渉の顔ではない。渉はチェット・ベイカーの『枯葉』を聴いている。渉は普段ジャズなんて聴かない。好きでもない。けれども、理解したいと切に思っている。渉は深く深く沈んでいく。漆黒の深海の中で渉はもがく。心の内では息ができない。渉は学校では見せない悲愴と苦悩の顔を表に出し、目から流れるものを堪らえようともしない。涙は頬を伝い、顎から滴り落ちる。


 歩いている鳴美の目の前に頭上の木の葉から水滴が落ちる。鳴美は足を止め、叔母から借りた赤いサンダルの先で広がる波紋を見つめる。リストの『慰め』第二番が想起され、波紋が消失するまで見続ける。音がフェードアウトを始めると、鳴美は水たまりを避けて歩き出し、マンションの裏手にある砂利と雑草だらけの粗末な駐車場の前で立ち止まる。ひと気はなく、虫の鳴き声が至る所から響いている。鳴美は外灯の下へ移動し、何かを探すように辺りを見渡し始める。すると、奥に停められた黄色い車の下から光るものが出てくる。暗がりの中、小さな青白い光を放ちながらそれは近づいてくる。とても小さな砂利を踏む音がテンポよく聴こえる。円形に灯された外灯の下に黒いものが現れ、青白い光が止まる。黒猫。首輪のない一匹の黒猫が鳴美を見上げている。だが、その右目は半眼で、瞼に痛々しい傷痕があり、中の瞳の色が濁っている。鳴美は叔母にも見せない笑顔を見せ、その場にしゃがみ込み、黒猫の頭を優しく撫で始める。


 去年の一月、鳴美は中学三年生の受験直前にこの地に越してきた。千葉県から神奈川県に。両親の住む家から叔母が一人で住む家に、異例の時期に。異常なことが起こったのだ。鳴美は越して早々、野良猫たちの声を聴いた。幼少期から鳴美が住んでいた地では野良猫を見かけることはほとんどなかった。首輪をした飼い猫さえ外で見かけることは稀だった。であるため、鳴美は猫に興味を持ったことがなかった。けれども、この地では野良猫が鳴美を出迎えた。野良猫が多いこの周囲では、夜になると戦いの声が鳴り響いていた。鳴美は威嚇的な声を恐れた。暴力を含む音を恐れた。部屋の中まで聴こえるそれをイヤホンで必死に防いだ。そんな時、鳴美は一匹の黒猫に出会った。

 二月、転校の手続きはしたが、学校には通っていなかった鳴美は、自宅学習の合間に家の近所を散策していた。見知らぬ土地と人々に芯からの安息をしていた。ぐるりと町内を一周し、駐車場の前を通ると、塀の隅に二匹の猫がいた。大きな茶色い猫の背中と怯える黒猫がいた。黒猫は鳴美に気が付き、目の前の茶色い猫から鳴美に視線を移した。その視線は半月のように1/2の細さであった。鳴美は黒猫の右目を見て悲壮感を湧かせた。と同時に自分と重ね合わせた。鳴美は茶色い猫に近づき、手で追い払った。茶色い猫は右方に走って逃げ、黒猫は逃げる体勢を取りながら鳴美を見ていた。鳴美はかつての自分がしてもらえなかった救済を黒猫にしてあげようと決めた。鳴美は膝を折りたたみ、左手の袖をまくって黒猫に差し出した。

「ほら、私も一緒だよ」

 警戒する目つきで鳴美を睨みつけた黒猫。鳴美は真上の桜の木を見上げ、枝に成るつぼみとつぼみの間から見える太陽を半分閉じた瞼で見つめた。風が吹き枝が揺れ応答のような木漏れ日が生まれた。すると、鳴美は指先に柔らかい毛なみの感触を感じた。視線を元に戻すと黒猫が鳴美の左手の下を通り、赤子のように胸の中にいた。かつて飼い猫だった黒猫は身体と目元の緊張を解き、安寧の弛緩を久しぶりに生んだ。鳴美は応えるように右の手のひらに慈しみを込めて後頭部を撫でた。手のひらから僅かな緊張を感じたが、撫で続けるとやがてそれも消えていった。黒猫は左目を閉じ始めた。鳴美はその隣にある痛々しい右目の傷跡を見た。鳴美の両目に涙が込み上げてきた。鳴美は黒猫に自分を重ね合わせた。暴力から逃れるために逃げるしかなかった自分を。


 黒猫との出会いを思い出した鳴美は左手で黒猫の背中を撫で始める。柔らかい毛なみと体温を感じる。上下に動かす度に手首にある傷跡が袖口から木漏れ日のように見え隠れする。鳴美の過去に何があったのかが一本のラインで記録されている。レコードの針を落とせば悲痛な叫びが聴こえるだろう。鳴美は毎朝学校に行く前にファンデーション付け、念のために上から腕時計を付けて傷跡を隠している。誰が見ても過去を察するメディアを二重にしてまでひた隠している。

 鳴美は誰かにすがりたかった。分かってもらいたかった。けれども、多くの人は鳴美の気持ちが分からないということを知っていた。五感と感情と思考でインプットされた体験は当事者にしか分からない。また、類似体験をした者にしか想像がつかない。戦地の死体、血の臭い、銃声、糧食の味、ライフルの冷たさ、死の恐怖、生き残る計算。それらは映画や書物では再現しきれない。視覚と聴覚、活字と現場は違う。体験という七面体の情報は記憶に入れ墨のように彫られる。鳴美の理解者は片目を奪われ、片目で生きる黒猫しかいなかった。

 鳴美は夜桜を見上げ、桜の葉と葉の間から見える三日月を見つめ、黒猫を撫でていた左手を白光する三日月へ向けて伸ばす。風が吹き枝が揺れ月光が木漏れ日のように点滅する。鳴美の意識は変性され、幼少期の夢見る感覚が想起される。鳴美は思わず目を閉じ、接続を遮断する。目に溜まっていた涙が溢れ出す。鳴美は過去を取り戻せないことを知っている。鳴美はもうピアノを弾けないことをよく知っている。常に痺れているような左手の麻痺。悔しさのあまり震えながらこぶしを握る。けれども、その左手は最後まで閉じておらず、筒状になった五本指から望遠鏡のように三日月が見えている。鳴美は握りこぶしさえ満足に握れない。鳴美は手を開き、もう一度三日月を見る。周りで揺らぐ白い光を見る。思い出したくない過去を思い出す。


 鳴美は中学校生活を安寧と充実感で謳歌していた。学校が楽しく、三年時のクラス替えでは仲の良い子と離れになり共に残念がった。

「クラスが別々でも手紙の交換しようね」

 そう言って笑顔で教室を出た。

 だが、一ヶ月も経たぬうちに笑顔が消えた。

 新しいクラスで何気なく話した子たちがいた。すぐに行動を共にするグループになったが、素行に問題が見られ始めた。だから鳴美はそっと距離を取ろうとした。他のグループの子たちと接するようにした。けれども、避けていることがバレて逆鱗に触れた。地獄のいじめが始まった。担任は助けてくれるだろうと思ったが、いじめを黙認し、なぜか厳しい態度まで取った。生まれて初めてのいじめだった。毎日を恐れた。さらに担任が敵であることが出口のない閉塞感を生んだ。

 分かりやすい暴力なら両親に相談できた。けれども、悪口や仲間はずれ、目の敵というギリギリの暴力にはどうして良いか分からなかった。ギリギリの暴力は加害者たちを乗らせ、執拗に繰り返された。塵も積もれば山となる。亀裂が入り続けた鳴美の精神から出血が始まった。しかし、それは目には見えなかった。物理的な暴行なら「やりすぎた」「やばい」と止まったかもしれない。だが、加害者たちは心を裂傷させたことに気がつかず、問答無用に傷口を広げ続けた。命綱の両親は鳴美の異変に気がついてあげられなかった。被害者は汚点、恥部のようにいじめをひた隠しにしてしまう。それは鳴美も例外ではなかった。出血が致死量になった時、鳴美は苦しみから逃れるために自室で包丁を使い自らの手首を切った。学校から帰ってすぐだった。五歳からピアノを弾き、突き指や切り傷にさえ注意を払い続けた大切な手に自ら傷を入れた。夢、人生を捨てるほど、現在は地獄だった。

 驚くほど血が溢れてきた時、鳴美に恐怖は無かった。溢れ出す血の温さと鉄の臭いが死を呼び起こし、むしろいじめから解放されると思うとホッとした。意識が遠のいて行く時、頭の中の暗闇にこれまでの鳴美の人生の場面が次々に映し出された。それらはすべて良い記憶だけだった。鳴美は思わず小さく笑った。僅か数秒だが記憶に付随した感情を深く味わっていた。だから鳴美は死ぬことを恐れなかった。消えること、それが唯一の救いであった。死ぬ直前が幸せだったことに感謝をした。

 鳴美はフローリングに横向きに倒れた。その姿は胎児のようであった。意識が消える寸前、暗闇の中に鳴美を見て優しく笑う両親の顔が映った。その顔は鳴美が見た記憶のないとても若いもので、見下ろす顔はとても大きく見え、頼もしさがあった。流れ行く血よりも温かった。映像に温度があった。鳴美は悲しくなった。死にたいと思う感情と死にたくないと思う感情が同時に表れた。鳴美は頬に血を感じた。顔の前にある手首から流れ出す血が顔まで押し寄せていた。鳴美は「ごめんなさい」と叫んだ。死ぬ寸前になって始めて苦しみを表に出せた。でも、その声は出ていなかった。もう遅かった。そんな力さえもう無かった。だから鳴美は一度も助けてくれず信じなくなった神様にこうお願いをした。

「生まれ変わったらまたお父さんとお母さんの子供でいさせて下さい」と。


 音も温度もなく、ピントが目まぐるしく変わり続けていた。それが鳴美の視界であった。両親は鳴美へ向けてしきりに何かを言っていた。鳴美は朦朧とする意識の中で両親の顔を見続けた。それは少し前に見た若い両親ではなく、見慣れたシワのある顔であった。

「老けたね」

 鳴美はポツリといった。この時、鳴美には論理と時間の感覚がなく、意識は夢の中のように気化していた。一命をとりとめた鳴美は病室のベッドに寝ていた。

「うん」母親は泣きながら鳴美の左頬を手で擦って言った。事態が飲み込めない鳴美はそんな母親を不思議そうな目で見つめ続けた。すると、鳴美は右手が何かに包まれた気がした。首を回して右を向くと父親が鳴美の右手を両手で包んでいた。鳴美は父親の背後にある窓の外を見て言った。

「雪がきれいだね」

 父親は驚いて振り返った。十一月半ばに雪が降るわけがなかった。けれども、父親は鳴美の方を向き直して言った。

「今までで一番きれいだな」

 鳴美は小さく頷くとそのまま眠りについた。


 その夜、事態を飲み込んだ鳴美は今まで耐えていたいじめを包み隠さず全て両親に話した。怒りと悲しみに震えた両親は弁護士を頼って訴えようと言った。けれども、鳴美は復讐よりも、過去を捨てることを望んだ。知らない人だけの土地で平和に生きることを願った。両親は承諾し、神奈川に住む離婚したばかりの母親の妹に話をした。鳴美の叔母は快く了承し、退院した鳴美は生まれ育った千葉県を離れ神奈川県に移った。近所の中学校に転校だけして通わず、公立高校の受験勉強だけをした。もちろんそれは音高ではなかった。けれども、窓から降る雪が例年よりきれいだった。受験当日、鳴美は左肘で用紙を押さえ、右手で持つ鉛筆で入試問題を解き続けた。最後の解答を埋めた時、夢が終わったことを理解した。窓の外を見上げ、チャイムが鳴るまで枝分かれしている木の枝を見続けた。


 合格発表の日の朝はメジロがよく鳴いていた。掲示板に受験番号があるのを確認した鳴美は表情一つ変えずにダッフルコートの中に受験票をしまいこんだ。入学手続きの書類を受け取り、それを右手に抱えながら並木通りを一人で歩いて帰宅した。風は無く、ローファーが擦れる音だけが一定のテンポで聴こえたが、ローファーは唐突に歩みをやめた。鳴美は何かに呼びかけられたようにゆっくりと頭上を見上げた。そこにはまだつぼみだらけの桜の木があった。誰よりも早く咲こうとする早熟のつぼみが鳴美を見つめていた。先端は白く、根本は桃色。冬から春に変わり始めたハイブリットの風が鳴美の背後からそっと吹いた。髪が揺れ、耳を擦り、ラフマニノフの『前奏曲ト長調』が内側で鳴った。存在を朦朧と薄め、許せば消えてしまいそうなトリルに気持ちが持っていかれそうになった。手首を切り、意識を失った記憶が五感と感情と思考で再現された。鳴美の呼吸は止まり、夢を失ったことを自覚した。一瞬だけ死の願望が湧いた。このまま堕ちる方が楽に思えた。けれども、鳴美は呼吸を取り戻し、葉桜のつぼみを見て誓いを立てた。


 命は助かった。

 いじめから解放された。

 けれど、夢を失った。

 私はもう満足にピアノを弾けない。

 死んでしまいたい。

 この先、私に何があるの。

 誰か教えて。

 誰も教えてくれない。

 誰も私の気持ちは分からない。

 それでも私は、生きることにした。

 それでも、死んではいけないのだ。



 今夜も、上山鳴美は自作短歌を詠む。


 葉を蒸してワスレナグサの紅茶淹れ湯気目に入り残像に逢う

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