第12話 茶飯事

「ふぎゅ……ふぎゅう……」


真っ白だった世界が、じわじわと色を取り戻してゆく。猫は俺の手の中ですやすやと寝息を立てていた。


「…………」


みんなただ呆然と俺の腕の中を見ていた。彼らにとって、ついさっきまで空っぽだったはずのその場所には今確かに一つの命が息づいている。


「…………ふっ、相変わらず緊張感の無い寝顔」


沈黙を破ったのは、既に抵抗を止めリモコンを手放した執見さんだった。


「猫さんと一緒に暮らし始めて、僕の世界は変わった。いや、僕自身が変えたんだ」


執筆さんは懐かしそうに微笑んだ。野くんが、静かに彼の腕から手を離す。


「おむすびが上手に作れたとか、電気料金の振り込み方を覚えたとか、近所のおばあちゃんと世間話ができたとか。取るに足らない達成感を大切にするようになった。今日も嫌なことが沢山あったけど、良いこともいっぱいあったなって思えるようになった」


俺も同じだった。わざわざ背負わなくていいモノを肩から下ろしただけで、世界が明るくなったんだ。


「4年間はあっという間だった。最後になって、猫さんが見えなくなって、すごく寂しかったけど、もう1人でも大丈夫だって思えた。…………でも、ダメだった」


猫がふごっと変な音を立てた。ゴソゴソと寝返りをうつ。椛が、猫の額をそっと指で撫でた。


「就職して、前向きに前向きに頑張って、新人とは呼ばれなくなったときには求められることとできることのギャップに押し潰されかけてた。家に帰っても、僕の作ったおむすびを喜んでくれる人は居ない。僕を見てくれる人なんて1人もいない気がした。


そんなとき、錦ちゃんに会ったんだ。ありがとうなんて言われ慣れてるのに、あの子は確かに言ってくれた。嬉しかった。ダメだとは分かっていても、歩み寄ってくれる彼女を突き離せなかった」


そこで執見さんはひとつ、長いため息をついた。


「あとは君たちが見たとおりだよ。僕はこの地に転勤になって、なんの因果かあの家の地区の担当になった」


「……初めてウチに荷物を届けてくれたとき、あんた笑ってた」


「……もう見えないことは分かってた。けど、もしかしたらって。どこかで期待しちゃってたんだね。君が出てきて、直ぐに猫さんも一緒だって分かった。そうしたらなんか、胸の底の方がぐつぐつってなって……君が羨ましくて、憎くて仕方がなくなった。だから、猫さんを攫う計画を立てた」


「……錦を巻き込むのは、最初から計画の内だったのか?」


椛が執見さんを真っ直ぐに見つめながら聞いた。さっき猫を優しく撫でた手は、今は固く握られている。


「……最初は生駒さんだけを利用するつもりでした。でも、本来の計画でいくといざ時計を回収するとき、力技になりかねない。どうしたものかと思っているとき、彼女からメールがありました。


あなたと、錦ちゃんがそばにいるから、暫く電話に出れないと。

……そこで咄嗟に思いつきました。移さんを使えば、穏便に時計が回収できるのではないかと。錦ちゃんを巻き込むのは……本意ではありませんでしたが、これが彼女を安全なまま利用する一番の方法だったんです」


「ウチに嘘の日程を教えたんは、1日早く時計を回収できるようになったからやね」


「ええ、先に移さんをこちらに引き込んでしまえば、もう全て手に入ったも同然でした。移さんを脅し、僕が送った紳士の人形と撮った自撮りを送るよう指示しました。貴方に送った写真です」


生駒さんが急に変更した作戦を信用するきっかけとなった写真のことだろう。あれがなければ、用心深い生駒さんが時計を身から離すことは無かったはずだ。


「最初に俺があのリュックを阪急のロッカーからJRのロッカーに運んだとき、あの中には時計が入ってたんだな?」


「ええ。中身を回収し、猫が墓参りにゆく17日の朝、もう一度リュックをとって猫さんを連れてくるよう頼んだんです」


「ん? なあ、椛ってそんとき猫見えてへんねよなぁ? どうやってリュックに入れたん?」


苗代が何気なく口をはさんだが、それは俺も気になっているところだった。


「ん? ああ、2度目にリュックを取りに行ったとき、中に菓子パンがいっぱい入ってて。墓の前で開けといたら、ハンカチが勝手に入ってくるから、重くなったら口を閉めて持って来いって」


「っ……。こんのバカ猫……」


俺は腕の中で未だ眠りこける猫のほっぺをつねった。


「ひぅっ……。へぶぅ……。すー、すー、」


苗代は空気を読まずにバカ笑いしている。


「あ、あのぉ……」


今度は野くんがおずおずと手を挙げた。


「せっかく生駒さんにバレずに済むんやったら、何で昨日の段階で猫さんを連れて来させんかったんでしょうか?」


野くんの言葉に、執見さんは僅かに眉をひそめた。悔しそうな顔で苗代を見つめる。


「もちろん、そのつもりでしたよ。……そこの彼にハンカチが渡らなければね」


「ん? 俺?」


苗代がキョトンと首を傾げた。


「ああ、カバンの中が騒がしいから確認したらハンカチが無くなっててな。なんか軽いなと思ったら、あんなにいっぱいあった菓子パンも一個も残ってなかった」


「……」


「へぶっへ」


「そしたら、苗代から拾ったってLINEがきたから、一応報告したんだ。必要なものかもしれないと思ってな。場所と日程の変更がきたのはその直ぐ後だよ」


完全なる偶然とはいえ、こいつはいくつファインプレーを残せば気がすむんだろう。俺は呆れと僅かな尊敬の念を持って苗代を見た。


「え、それ俺が悪い感じ?」


「バカ。アンタにバレたら、直ぐ懐石君とこまで話が回ると思うやん、普通」


「あ、あーね。めっちゃ心配するやん」


「……そりゃこっちも人生賭けてますんでね」


呑気すぎる猫と苗代に流石の執見さんも調子を崩されたようだ。ごほん、と咳払いを一つして話を続けた。


「まあ、結果的にそれがあなた達に時間の猶予を与えてしまったわけですね。苗代さんには変更後の場所でも見つかりますしね」


「てへっ」


苗代渾身のてへっは全員で無視した。











あの後、俺たちにはいつもと変わらない風景が戻ってきた。



「なあ、ひばりん知ってる? ドーナツの穴の向こうは異世界やねん」


「ひぇっ⁈」


「ふぎゃ⁈」


「やからな、一口食べてもたら、向こうの世界がこっちに流れ出てくんねん」


「ど、どないしょ……。僕もう齧ってしもて、穴に穴空いてしもた……」


「ふ……ふびっ、ふびっ」


「あんたら、ほんまにアホやな」


猫と野くんが半泣きで手を取り合う横で、生駒さんが呆れたようにコーヒーを啜る。こういうのは突っ込むだけ無駄だと最近ようやく分かってきた。


「椛、錦ちゃんの様子はどう?」


あの後、執見さんは錦ちゃんに直接謝罪をしに行っていた。椛の計らいで、あの事件が警察沙汰になることはなく、錦ちゃんは無事に東京に戻ったという。


「ああ、今は落ち着いてるよ。親とはまだギクシャクしてるみたいだけど」


「そればかりは時間に任せるしかないなぁ」


「妹とはいえ、結局は他人だしな。自分の時間の流れの中で、日々変化しながら気づいていくしかないよ。……俺たちも」


「んー、きびしーぃ! まぁ4年もあるし、なんとかなるやろ」


テーブルの向こうでは未だに激しい異世界論争が続いていた。プレッツェルの穴は全部違う世界なのかと問い詰める野くんに、苗代が珍しくあたふたしている。完全に脳内キャパをオーバーしているようだ。


「あーもー、うっさいなぁ。ちょっと、きわむと移も見てへんで止めてよ」


「ふぎゃう!」


猫が嬉しそうにないた。



「ふは、よっしゃ。いくぞ、椛」


「まじかよ……」




俺たちは戻って行く。


大きな、日常という流れの中へ。













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