第11話 弾ける
世界が真っ白に染まってゆく。
ぱら、ぱらと弾けては消える光の中に、見覚えのある映像が見え隠れする。
(あれは……)
黄色い光がパッと咲いた。
「ちょ、模試の結果どうよ?」
「まじヤバイ。俺この一年本気出すわ」
私服に身を包んだ学生たちが、互いの傷を晒しながら笑う。
「なぁ、懐石は?」
「……俺、結構いい感じかも」
「え、まじ? ……うわ、ほんまや。すげー」
数人の同期に囲まれて、謙遜を口にしながらもその表情からは得意げな感情が溢れ出ていた。
(気持ちの悪い顔……)
さっきの黄色を塗りつぶすように、青色の光が弾ける。
「まだ暑いなぁ。あ、こないだ俺さ、C判やってん」
「えー、まじかっ。うわぁ、俺まだDやわ。やばいかなぁ」
いくらか顔つきの変わった学生たち。厚手のパーカーは、いい加減な英語のプリントの入ったTシャツに変わっていた。
「こっからが勝負やろ。懐石は? どうせもうA判とかとってんちゃうん」
「あはは、いやいや」
真っ青な顔に、もう自信の色は見出せなかった。
(……。頑張っているように見えていることに安心してた。俺は、本気で欲しがってなかったんだ)
ぱっ、
今度はオレンジ色。
「……俺は負けてたんだ」
「猫ー、あなたー、食事の用意ができましたよー」
よく知っている書斎の椅子に、よく知らない男性が一人。その表情はどこか物憂げだ。膝には、真っ白な猫が寝ていた。台所からの声に、猫は頭を上げてピンと耳を張った。
(わぁ、なんて綺麗な……。宝石みたいに青い瞳。毛は所々虹色に光って……あれ?)
「はい、直ぐに行きます」
男性が立ち上がると、猫もシタッと飛び降りた。鼻先から尻尾の先までが鞭のようにしなる。
(まさか……なあ)
俺は大きなお尻で、餅つきのような音を立てて座る愛猫を思い浮かべていた。場所こそ、今の俺たちの家に間違いはないが、猫は似ても似つかない。
食卓では、配膳を済ませごはんをよそう着物姿の女性。白猫が喉をごろごろと鳴らしながら、その女性にすり寄っていく。青みがかった長い黒髪は、形のいい頭の後ろでまとめられている。長い睫毛が頬に影をつくる様子はまるで、
(あっ……。まるで生き写しじゃないか。 じゃあこの人もしかして、生駒さんのひいおばあちゃん⁈)
俺の驚きは、また新たな光によって塗り替えられた。
「なんで何も言ってくれないのっ」
「仕事の話なんだ、君に言ったって仕方がないだろうっ」
「ひどい、あなたの仕事のことなら、それはもう夫婦の問題よ」
白猫は背をしゃんと伸ばして、二人の口論を聞いていた。
「夫婦だからって何でも曝け出していいわけじゃないだろう、もうすぐカタがつくんだから黙っていなさいっ」
「っ、わたしに、偉そうに指図しないでっ」
奥さんはガタンと大きな音を立てて家を飛び出した。
白猫がぱっと立ち上がった。直ぐに奥さんを追う素振りを見せたが、何かを思ったのか主人の方へ向き直る。
力無く座り込んでしまった主人の膝にぴょんと飛び乗ると、そのまま伸び上がった。主人の顎を何度か食み、軽く肩に顔を埋める。
(あ、……あれって……)
「猫……」
猫は挙げかけた主人の手をするりと抜け出し、庭の方へと駆け出して行った。
「ふっ、お前もそっちの味方かぁ」
主人は寂しそうに、小さく笑った。
唇を噛み締めながら、街中をずんずん進んで行く奥さん。その後ろ、数メートルの所を猫がテトテトと歩く。奥さんが立ち止まると、猫も止まる。寄り添うことは無かったが、猫からは見守るような雰囲気が感じられた。
(なんか、懐かしいな)
子供の頃、機嫌を損ねると暫くふくれないと気が済まなかった。頭の中で相手をけちょんけちょんにやっつける。でも段々と疲れてきて、自分も悪かったかな、なんて思いだして。
(母さんはいつも、俺がふくれ終わるまで待っててくれたっけ)
あの夫婦と猫の関係は、そういうものなのかもしれない。
穏やかな空気は、眩い光で一変した。
不意に、猫の耳がピンと立ち上がった。すぐさま猫が地面を蹴る。
カンカンカンカンカンカン‼︎‼︎‼︎
けたたましい鐘の音がなり、人々の騒めきが悲鳴に変わる。
大きな馬車が、奥さんの直ぐ側に迫っていた。
猫が奥さんを押し出すのと、赤い光が弾けるのは同時だった。
(猫、猫は⁈ 奥さんは無事なのか⁈)
知りたくても、もう場面は移り変わってしまっていた。高いマンションに切り刻まれた狭い空。星の光は人工的なライトに掻き消され、夜の闇に溶けてしまっている。
(なんか、一気に時代が進んだな。どこだろう、ここ)
俺の疑問に答えるように、視点はあるマンションの一室にクローズアップしていく。ここでもまた、外にまで響くような言い争いの声。
「だから、そんなんじゃ無いっていってんじゃん!」
「きちんとした関係なら、なんでこんな夜遅くに出歩く必要があるんだ! 大体なぁ、お前はまだ中学生で、ウチはアイツの客なんだぞっ。そんな関係、成り立つわけがないだろう!」
「勝手に人の友達を決めつけてんじゃねーよっ、だから変なことなんて何もしてない!」
ガシャンと何かが割れる音がする。
「っ、錦、一旦落ち着けっ。親父も、座って話そう」
ドア越しに聞き覚えのある声が響く。まだ幼い感じがするが、間違いない。椛の声だ。
ドアが激しい音を立てて開いた。
「錦っ、待ちなさい!」
「親父、俺が追いかけるから」
椛が妹の後を追う。
苦虫を噛み潰したような父親の顔を、紫の光が包んだ。
「錦ちゃん、俺さ、転勤になった」
「えっ……」
マンション街に囲まれた小さな公園。心許ない電灯の灯りに照らされたブランコが、キシキシと嫌な音を立てていた。
「ごめんね、俺のせいで沢山迷惑をかけて」
少女の顔がくしゃくしゃに歪む。
「な、なんで……想史さんは何にも悪くないのにっ。私が勝手に逢いに来て、連絡先聞いて……。私が勝手に好きになったんじゃんっ」
化粧気のない真っ黒な瞳から、ぱらぱらと水滴が落ちた。
「違うんだよ、錦ちゃん。俺が悪いんだ」
執見さんは、少女を真っ直ぐに見つめた。それは責めるような口調でも、諦めのような口調でもなかった。
「っ、な、なんでっ」
「錦ちゃん、俺と君の間には、本当に何もなかった。俺は君を……恋愛対象として見てはいなかった」
少女は膝の上の手をぐっと握りしめた。
「……けどね、嬉しかったよ」
「……え?」
「たった数分間、荷物を届けるだけの人間を好きになってくれた。俺がいいって言ってくれた。……自分の仕事が、認められた気がした」
執見さんは僅かに俯き、自嘲的に笑った。
「多分、浮かれてたんだと思う。いくら君が一生懸命になったって、俺がしっかりしてればこんな事にはならなかったんだ。でも、君のヒーローでいたいと思ってしまった。……結局それは、椛様という一人の大切なお客様の信用を失うことに繋がった」
「……」
「僕はね、錦ちゃん。どんなに願っても、もう学生には戻れないんだ。俺は、社会人なんだよ」
椛は、公園の入り口の木の陰に立っていた。それ以上近くつもりも、二人から目を逸らすつもりも全くないようだった。
また、光が弾けた。
(今度はいつのどこだ?)
空が広く明るい。恐らく先ほどの夫婦の時代だろう。
カラカラと下駄が鳴る。忙しない歩き方だ。何となく見覚えのある後ろ姿が、あの家に向かって進んで行くところだった。
(あれ? あれってもしかして……)
カポーン、カポーン
間の抜けたインターホンが響き、ゆっくりとドアが開いた。出て来たのは奥さんではなく、主人の方だった。
(奥さんと猫は……)
「あ、旦那。こんにちは」
「ああ、来てくれましたか」
「いやぁ、随分遅なってしもぉて」
男は肩にかけた手ぬぐいで汗を拭いながら、申し訳無さそうに笑った。そのふにゃっとした笑顔にはやはり覚えがあった。
(やっぱり、野くんにそっくりだ……)
男はのそのそと家の中へ上がり込んでいった。
「あ、奥さん。こんにちはぁ、御加減どないです?」
部屋の奥には奥さんが座っていた。今はラフな洋服を着て、髪も一つにまとめただけだった。足には痛々しい包帯が巻かれている。
「時計屋さん……来てくれたんですね」
奥さんはどこか陰のある笑みを浮かべた。猫の姿は見当たらない。
「へえ、えらい時間かかってしもたんやけど、その代わりええ仕上がりになってますんで……どうぞ、」
男は持ってきた風呂敷を開いて、中の木箱を開けた。中から出てきたのは、あの鳩時計だった。
「はぁ……」
「まぁ、なんて立派な……」
夫婦が揃って感嘆のため息をつく。時計屋はそれだけではないと鼻息を荒げた。
「あと少し、もう少しですんでね。見逃さんといてくださいよぉ……ほらきた!」
短針と長針がぴったり重なり合ったとき、文字盤の上の小窓がぱぁっと開いた。出てきたのは青いドレスに身を包んだ二人の男女。ポロポロとピアノの音に合わせて踊る。その二人の間で、嬉しそうに跳ねるのは……。
「っ、……」
主人が、優しく奥さんの肩に手を添えた。
(やっぱり、あの時計は猫の遺品だったんだ……)
奥さんの着物から作ったハンカチを抱きしめて流した涙。毎年、沢山の花を持って向かう墓参り。宝物を集めた部屋の、一番奥にしまってあった夫人の人形。
(猫は、ずっと見守ってるんだ。あの家を。あの家を通り抜けていく時の流れを)
じわじわと、映像が薄れてゆく。
そして、また真っ白になった。
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