第10話 収束点


何年かぶりの全力疾走は、ここ数年の怠惰な自分を見事に反映していた。荷台に生駒さんを乗せた俺は、赤みを帯び出した空と田んぼの境目をぐんぐん辿って行く。


「ふ、懐石君っ、うちやっぱり降りて走るわっ」


風の音に遮られて、生駒さんの声がノイズ音のように響いた。それに、息を切らせた俺の途切れ途切れの声が返事をする。


「だっ、ふっ、……だいじょ、おーぶっ、全然、よゆーっ」


息が喉より奥に入ってこない。でも、走らなくちゃいけない。絶対に、間に合わせてみせる。


苗代たちがキャンプをするという山に入ると、登山客が多いためか途中まではしっかり舗装された道が続いていた。しかし、流石に頂上付近では山も本気を出してくる。非力なインドア大学生で、しかも二人乗りとなるととても太刀打ちできなかった。


「懐石君、こっから自転車置いてっ。走った方が早いわ」


荷台からパッと飛び降りた生駒さんに従い、自転車を乗り捨てる。しばらく山道を走ると、水の流れる音が聴こえてきた。大学の側にある大きな池の上流は、もしかしたらここなのかもなと、酸素の薄くなった頭でぼんやりと考えた。少し空が開けた。水の音がより鮮明に聞こえる。


「あ、」


前を走っていた生駒さんが、突然立ち止まった。川の方をじっと見ている。何事かと思い、俺も生駒さんの視線を追うと、そこには……


「か、……か、……かんばぁぁぁあっ」


俺は叫ぶと同時に走り出していた。川原までの僅かな傾斜を勢いだけで滑り降りる。椛はまだ驚いているのか、こちらに目を向けて固まっていた。


お前、どんだけ心配したと思ってるんだ。電話くらいでろよ。代返も大変だったんだぞ。

言いたいことは山ほどあるのに、酸素を取り込むのに必死な口は、全く使い物にならなかった。


「かはっ……げほっ、か、かんば。おまえなぁっ」


「懐石……」


「ふぎゃっ」


待ちわびた声が、俺の耳に届いたのはその時だ。椛の持つリュックがごそごそと動く。ああ、居るのか、そこに。


「ふぎゅっ、ふぎゅっ、……ふぎゃあっ」


ぽん、とリュックから出てきた緊張感のない顔。俺がその顔を見て不覚にも涙を流す直前、


「あっ、」


椛が驚く声と同時に、猫はリュックごと天高く舞い上がっていた。


「ふんぎゃあああぁぁぁ………」


ギャン泣く猫の声が次第に遠ざかって行く。


「は、え? なんで……ドローン?」


「懐石君! あ、あの中に猫いたの⁈」


追いついてきた生駒さんが驚いたように叫ぶ。俺たちの上空を舞うドローンは、猫をぶら下げたまま山頂の方へと進んで行く。次第に状況が飲み込めてきた。つまり、あのドローンが奴のところに辿り着いた時点で、俺たちのゲームオーバーだ。


俺は走り出した。


「懐石君っ」


「生駒さんっ、椛に、全部説明してて! 俺が絶対取り戻すから!」


ハッとなった生駒さんの返事も聞かずに、俺は顔を前に向けた。ごめんなさい、静かな川原に生駒さんの凛とした声が響いた。








こんなに必死に何かを追いかけたのは、多分人生で初めてだ。足の裏がヒリヒリして、眼鏡が何度もずり落ちる。もう嫌だ、一歩も進みたくない。それなのに気持ちはどんどん先へと駆け抜けていく。自分への嘘も、周りへの建前も全部剥がれ落ちていた。変わらない過去も、変えたくない未来もどうでもいい。

もう二度と戻らない今、今、今の一瞬のためだけに、



「俺たちは、変わらなきゃいけないんです」


俺は、リモコンを持ちトラックの荷台に腰かけた執見あざみさんの前に立った。彼はいつもと同じ制服を着て、いつもと同じ優しい笑みを浮かべていた。


「……知ってるよ。時間の流れは止められない。どんなに願っても、俺はあの4年間には戻れない」


「……なんで、こんなことを。俺の友達まで巻き込んでっ、肝心の俺は蚊帳の外かよ」


「ごめんね。でも、僕は君が羨ましかったんだ。僕と同じような劣等感を抱いて生きてるくせに、君は猫さんに縋ろうとはしなかった。君達の関係はいつも、君の猫じゃなくて、君と猫だった」


俺は執見さんの言葉を聞きながら、反射的に首を振っていた。たった二日の間で、俺は何度自分のリュックに目をやった? 飲み物一つ決めきれなかった自分に腹が立った。


「正直、君がここにたどり着くのは想定外だったよ。お墓の方に向かうよう仕向けたはずなんだけど、どうして?」


「あぁ、うちには頭空っぽの名探偵が一人いましてね。世にも珍しいきのこ派なんですよ」


「きのこ派?」


トラックのエンジンはかかったままだった。俺が走ってリモコンを奪おうとしたところで、執見さんが車を出す方が絶対に早い。喋りながら頭を回していく。


「ここに来るまでに、あの家の大家さんに電話をしました。執見さん、この前うちで話した時、あのソファーの色じゃ猫が分かりにくいって言いましたよね? 」


「言ったね」


「でも、あのソファーはテーブルと一緒に俺の前の人が置いていったものだった。8年前にあの家を出たあんたが、色を知ってるはずないんだ」


「わぁ、名探偵っぽいね。でも、少し決め手にかけるかな?」


執見さんは楽しそうに笑った。その時、トラックの後ろで希望の光が手を振っているのが見えた。それに背中を押された俺は、執見さんの意識をさらに晒すために勝負に出た。


「まだありますよ。生駒さんがあんたとの電話を録音してました。その中で、あんたは猫の呼び方を生駒さんに合わせて“あの子”としていた。ただ、一箇所を除いて」


「あれ、録られてたんだ。気をつけてたのになぁ。猫さんって言ってた?」


「ええ、言ってましたよ。錦ちゃんの名前が出た直後に」


今まで優しい笑みを浮かべていた執見さんの顔から、表情が消えた。


「この前、前は東京で勤務してたって言ってましたよね? 錦ちゃんの家出の理由は、彼氏のことで家族に反対されて、そのせいで離れ離れになってしまったことが原因だそうです」


「…………彼氏じゃないよ」


俯いた執見さんは、静かな声で否定した。

俺は執見さんからさっきまでの余裕が消えているのを確認し、一歩を踏み出した。


それに気がついた執見さんがぱっと荷台から飛び降りるのと、野くんと苗代がトラックの陰から飛び出すのはほぼ同時だった。


「ぐっ、くそっ、はなせっ」


野くんが後ろから執見さんを羽交い締めにする。その先に運転席に回り込んだ苗代がトラックのキーを抜いた。エンジンの音が、次第に小さくなってゆく。


「懐石君!」


「懐石!」


後ろから生駒さんと椛が走ってくる。椛は執見さんの顔を見て、直ぐに誰だか分かったのだろう。ぐっと眉根を寄せた。


「やめろ、はなせっ。お前らなんかに分かるもんか! 俺には、俺には猫さんが必要なんだよっ」


リモコンを離そうとしない執見さんと取っ組み合っている間も、上空からはふぎゃふぎゃと猫の声が降って来る。まずいと思い空を見上げだとき、


山を飲み込むような突風が吹いた。


コントロールを失ったドローンが大きく揺れて、猫の重みでリュックの口が開いてゆく。


あ、と思ったときには、猫はコロンとリュックから転がり落ちていた。



「ね、ねこーーーーー‼︎‼︎‼︎」


「ふびゃああああああああああああっ‼︎‼︎」




空から降ってくる白い塊。何故だろう。以前にもこの光景を見たことがある気がする。そうだ、あれは爆弾だ。そう気づいたときには、辺り一面真っ白な光に包まれていた。




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