第8話 繋がる


眼が覚めても、静かな朝だった。

布団の中から寝息が聞こえることも、あの訳の分からない発声練習も聞こえてこない。猫はまだ帰っていないようだ。布団から出たくないと思うのは久しぶりだった。


トースターにパンを放り込み、天気予報を見るためにテレビをつける。手書きのイラストボードを持った天気予報士が、今日は風が強いとしきりに強調している。朝から事故だ虐待だと気の滅入るニュースが続く中、誘拐という言葉に体がぴりっと反応した。思わず椛の顔が浮かぶ。ニュースに出ていたのは、5歳の男の子についてだった。場所も大阪の方で、自分には関係のないことだと分かりほっと息をついた。もちろん、知らない子だからどうという訳ではないが、複雑な気持ちだった。ニュースになれば早く見つけられるかもしれない。でもニュースになってしまったら、もう自分の手から離れて取り返しのつかない所まで行ってしまう気がする。


「あいつ大丈夫かよ……」


相変わらず既読の付かないLINEを見ながら呟いた言葉に答える者はいなかった。









「……持ってるん? あの人形」


彼女はサクサクと歩き去ろうとする男を呼び止めた。男は一瞬、ニヤリと笑みを浮かべたが直ぐに人の良さそうな笑顔を貼り直し、振り返った。


「ええ、綺麗な人形ですね。背筋をスッと伸ばした紳士の人形です」


「何であんたが……」


彼女の忌まわしそうな声を無視して、男は続ける。


「何せデザインが凝ってますね。品のいいグレーのスーツ、それをグッと引き締める海色のネクタイにはパッと散った波の花……貴方の持っているものと、揃えばさぞかし綺麗でしょう」


「……あんたはさっき、うちと目的は一緒や言うたよね」


「ええ」


「つまり、仮にうちらが協力してあの子と家を手に入れたとして、目的を達成できるのはどちらか一人やん」


「そうですねぇ……あ、一緒に暮らします?」


「死んで」


「冗談ですよ……。それについては、あの子に任せると言うのはどうでしょう?」


大袈裟に肩を落とした男は、直ぐに真面目な声になって提案した。


「任せる?」


「ええ、私たち二人で全てを揃えて、時計を動かす。そうすれば私達もあの子が見えるようになるはずです。そこで、僕と貴方どちらが新しい同居人に相応しいか……」


「あの子に決めてもらう。泣いても笑っても、それで決着って訳やね?」


男はにっと笑った。







「まっいごーの、まぁいごーの子猫さんー、私のお家はどぉこやろかぁー」


「ゆ、豊くん。それやと自分も迷子なんと違う?」


ほとんど上の空で講義を終えた俺の後ろから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。一つは苗代のアホ全開の歌。もう一つは……


ひばりのくん⁈」


「へ? あ、あれ、懐石君?」


こんな所で会うはずのない顔に、驚きが隠せない。何で野くんと苗代が一緒にいるんだ?

俺の混乱した視線を受けた苗代が、へらりと答えた。


「あれ、言うてなかったっけ? 登山サークルの友達。え、てか二人は友達なん?」


「登山サークル⁉︎」


苗代の衝撃的な言葉に、野くんとの出会いの驚きが一気に上書きされる。


「あ、苗代君。この前言った、同じバイト先のK大生って懐石君のことなんよ」


「あーね、めっちゃ運命やん」


「苗代が登山……」


このチャラけた男が登山なんて渋めのサークルに属しているのが未だに信じられない。俺の微妙に納得しきれない顔を見て、苗代が唇を尖らせた。


「えー、そんな意外? 俺こないだ言うたやん。誰が何と言おうと俺はキノコの“山”派やって」


「いやどんだけ高度な伏線仕組むねんっ」


突っ込み上手なったなぁとしみじみする二人に軽い頭痛を覚えたところで、また別の声に呼び止められた。


「懐石君!」


「っ、生駒さん」


生駒さんの顔を見て、抱えていた不安がぶありとぶり返した。苗代が直道ちゃーん、と嬉しそうに飛び出していく。その隙に、野くんがスッと俺の横に立った。


「あ、懐石君。……今日は一緒やないんですか?」


猫のことだ、と直ぐに分かる。俺は言葉を含む度に重たくなる気持ちを引きずりながら、短く事情を説明した。今日帰ってくるはずなんだ。何も知らないはずの野くんは、まるで縋るように言った俺の言葉に、しっかりと頷いてくれた。


ピロン、ピロン、ピロン


電話だろうか、後ろで苗代の騒がしい声が聞こえてくる。


「あ、着いた? じゃあテント張って……はぁ? トラック? なんでそんな山奥に……」


サークルの内容だと分かったのか、野くんが眉を八の字にして俺から離れた。それと入れ替わるように生駒さんが駆け寄ってくる。



「懐石君、移と連絡取れた?」



「いや、電話もLINEもまだ……」


「そう、」


意味をなさない携帯を見つめ二人して黙り込んだ。


「まあ、宅急便やったら直ぐどくやろ。おお、じゃああとでなー」


電話のやりとりが虚しく響いた。俺だけ取り残されているんじゃないだろうか。他の電話はちゃんと世界を繋いでいるのに。


……なんで、帰ってきてくれないんだ。




「今日もおらんのか。何しとんやろな、あいつ」


電話を終えた苗代が戻ってきた。


「豊くん、そろそろ行かんと……」


「あ、ほんまや。あー、懐石。こないだ借りた本返すわ。おもろかった」


「あ、ああ」


サークルの集まりがあるらしい二人により解散の雰囲気になる。とりあえず生駒さんともう少し詳しく話そうと彼女に視線を移しかけたとき、本を探していた苗代の手元からひらりと何かが舞った。


「「え?」」


俺と生駒さんの声が重なる。それは、俺が生駒さんから預かった、あの青いハンカチだった。












「ん、あー。それ椛に返さなあかんねん」


苗代がこともなげにいう。野くんも、そのハンカチに見覚えがあるのか不思議そうな顔をしていた。


「……なんで移なん? そもそも、なんで豊がそれ持ってるん」


先に思考が再開したのは生駒さんだった。

苗代は俺たちの深刻な顔に首を傾げながら答えた。


「昨日、北のバス停んとこで椛のこと見たって言うたやん? あんとき、あいつのリュックの口が開いとってさ。って思ってたら、その中から風で飛んできてん」


「……」


「結構距離あったし、あいつ電話出んかったから今度でええかなって。……あかんかった?」


苗代の言葉を理解するにつれて、思考が冴え渡ってゆくのを感じていた。もしかしたら俺は、このまま待っていてはいけないのではないか? 猫は帰ってこないんじゃなく、帰ってこれないとしたら? 椛は電話に出たくても出られない状況だとしたら?


……この二つの出来事が、繋がっているとし たら?



俺の仮定は、生駒さんの真っ青な顔をみて確信に変わった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る