第7話 猫無日
カッカッカッカッ
薄暗い路地にハイヒールの音が響く。
とす、とす、とす、とす
それを追うように地面を叩く音。
カッカッカッ、とす、とす、カッカッカッカッカッ、とす、とす、とす
足音がピタリと止み、沈黙の音が鳴った。前を歩いていた女はゆっくりと振り返る。そこには男が立っていた。ニュースで報道されるような黒尽くめの不審者とは違い、至って普通の格好。色の薄くなったジーンズに脈絡のない英語の描かれたパーカー、頭にはフードを深々と被っていた。ただ一つ、普通ではない点といえば、顔を覆う真っ白な猫のお面。ただそれだけだった。
「…………何か御用ですか?」
彼女は強い口調で言った。恐怖を悟られまいと張った声は、緊張で震えている。
「時計は、動き始めましたか?」
男は彼女の問いかけに対して、質問で返した。それを聞いた彼女がハッと息を飲む。
「あなたは……」
「僕とあなたの目的は同じです。……なので、協力しませんか」
「協力? ……遠慮しときます」
「何故?」
「うちは、自分の力であの子に選ばれてみせる。……ひいばあちゃんがそうしたように」
「本当に一人でできますか? 何かいい作戦でもあるんですか? ……あなたは見えないのに」
彼女はキッと男を睨んだ。
「それはあんたも一緒やろ? 」
「そうですね。僕にはあなたが必要だし、僕ならあなたの力になれると思ったんですが」
「お気遣いどうも。残念やけど他あたって? それと、うちの邪魔はせんといて」
男は僅かに首を振り、心底残念そうに溜息を吐いた。
「そうですか、交渉決裂ですね。……お時間取ってしまって申し訳ありませんでした」
男は言葉とは裏腹に、大した未練も無さそうに踵を返すと歩き出した。彼女も、暫くは男を睨見つけていたが程なくして歩き出す。すると後ろから、男の大きな独り言が響いた。
「ああっ、そうだ。交渉が失敗してしまったからもうあれは要らないな。勿体ないけれど燃やしてしまおう。…………あの小さくて美しい人形を」
再び、ハイヒールの音が止んだ。
「あれ、今日はちゃんとリュック閉まってる やん」
あとは4限の微積を待つのみとなった空き時間、売店で飲み物を選んでいると後ろから声がかかった。
「うっす。 ……たまには締めてみてもいいかなーと思って」
「なんで常に開いてんねんって話やけどな」
苗代は笑いながらすっと手を伸ばすと、迷わず炭酸ジュースを手に取った。俺より先にレジに向かう。
「なあ、今日
俺はミルクティーかレモンティーかが決められないまま、結局は適当なお茶を選んだ。俺のレジを待ってくれている苗代に問いかける。昨日の電話での様子が、どうしても引っかかっていた。
「んー、ああ、アイツ今日はサボりやろ? 朝会ったけど、なんかでかいリュック背負って逆方向に歩いて行きよったで」
「サボり?……椛がか? そんなお前じゃあるまいし」
「ちょっ、どーゆー意味⁈ ……まぁ、たまにはええんちゃう? どうせ彼女と喧嘩したとかしょーっもない理由やろ。直道ちゃんも元気無かったし」
「えっ、あの2人ってそうなん?」
「いや、知らんけど。よぅ一緒におるやん」
知らないのかよ、と思いつつ少しホッとした。生駒さんに彼氏がいないことにも、椛に彼女がいないことにも。最近は、何かあると直ぐに猫を見てしまうのが癖のようになっていた。今日のリュックの口はしっかりと閉じている。
「あ、そうや。駅前のハンバーガー屋が今日から新商品出すねん。クーポンあるから行かへん?」
「あー、悪い。今日の夕方、親から荷物届くんだよ。受け取らないとしばかれる」
「マジか。まあまだ期限あるし、椛おるときにしょうか」
そうだなと笑いながら、俺は本当にその日が来るのが待ち遠しかった。早く3人と1匹で過ごす日常が戻ってくればいい。今日が早く終わって欲しいと切に願った。
「懐石君!」
自転車に跨り、ペダルに片足を乗せたところで生駒さんに呼び止められた。面と向かって話すのは、あのとき以来だ。俺は少し緊張しながら振り返った。
「生駒さん、久しぶり。どうしたの?」
「あ、うん。とくに……用事ってことは無いんやけど」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。俺は、自分から言いだすのはとても嫌だったが、仕方がなく彼女が聞きたいであろう情報を開示した。
「椛なら、俺は今日会ってないよ。苗代は見たらしいけど、学校来てなかったみたい」
「あ、へぇ……そうなんや。どんな様子やったって?」
「どうだろう、そこまでは。あ、でも昨日電話で話したときに、ちょっと無理してる様な感じはあったかな。詳しくは聞けなかったんだけど」
生駒さんの顔から、すっと血の気が引いた。これは彼女と椛の間に何かあったと見て間違いないだろう。俺は重たい気分と声のトーンを無理矢理引き上げた。
「もしかして喧嘩でもした? 大丈夫だよ、アイツ近年稀に見る優しめ男子だし」
「……っ。そうや、移は優しいから、……どうしよう」
「生駒さん?」
心配しなくていいと言ったつもりが、彼女はかえって焦る様に何かを呟いていた。
「だ、大丈夫? 顔真っ白だよ」
「え、ああっ、ごめん。平気」
そこで漸く我にかえったのか、生駒さんは全然平気そうには見えない笑顔をつくった。
「……ちょっと歩きながら話そうか」
さすがにこのままサヨナラというわけにはいかない。
俺はチラリと時計を確認してから、自転車から降りると、そう笑いかけた。
「妹?」
「……うん」
結論から言うと、生駒さんと椛の間には痴話喧嘩なんて存在しなかった。それどころか、椛の身には思いのほか厄介な事件が起きていた。実は椛の中学生の妹は反抗期の真っ只中で、数日前に家出をして遠路はるばる兄のもとまでやってきたらしい。椛の下宿先に向かう途中でたまたま一緒にいた生駒さんと椛に会ったという。
「そっから移がめっちゃ説得して、何とか家に帰ることに納得してくれたん。それで、京都まではうちが一緒に帰ろうってなって、確かに送り届けたんやけど……」
「うん、」
「そこから、家に帰ってないみたいで……」
「えっ」
「も、もちろん移は妹さんが帰って直ぐご両親に連絡入れてたし、うちと別れてからも親御さんの方にはメールがあるみたいなんよ」
「妹さん本人から?」
「うん。友達の家に泊まってるって」
生駒さんの話からして、妹が居なくなって既に2、3日は経っていた。メールも本当に本人が打ったかなんて証明のしようがない。
「それさ、警察とか……。少なくともアイツだけの手に負えるものじゃなくない?」
「……うん、けど移が。警察は大丈夫やって」
その時、俺の心には彼女の態度への僅かな苛立ちが芽生えていた。いつもはっきりとものを言う彼女の曖昧な言葉。相談はしたいけど、解決はして欲しくない。欲しいのは慰めと共感であって、手段ではない。何か後ろめたいことでもあるのかと問い詰めたくなる。
「椛は、生駒さんには色々喋るんだな」
彼女の態度への苛立ちと、友達に頼ってもらえなかった嫉妬の様な感情に押されて冷たい声が漏れた。生駒さんが驚いた様にぱっと顔を上げた。
「分かった。取り敢えず後で椛に電話してみるよ。生駒さんはあんまり気に病まないでいいんだからね?」
俺はさっきの言葉を取り繕うのをやめた代わりに、彼女の望む言葉をかけた。今度は優しい声が出た。
カポーン
LINEも電話も反応が返ってこず、苗代にも相談してみようかと思い始めた矢先に間の抜けたインターホンが鳴った。はぁーいと返事をして、印鑑を片手に立ち上がる。今日は乗せるものが無いはずなのに、頭が重い。
「こんばんわー。お荷物お届けに上がりましたー」
「あ、ご苦労様です」
ドアを開くといつも通りの満開の笑顔に迎えられる。うちに宅配に来てくれるのは、いつも決まって最初に猫テストに合格した若いお兄さんだった。対応が丁寧なため、密かに信頼を抱いている。
「判子お願いします。……はい、ありがとうございます」
「どうもー」
「…………」
いつもは帽子をぱっと上げて、挨拶と共に去っていくお兄さんが、その日はなかなか動かなかった。不思議に思って顔を上げると、眉を八の字にしたお兄さんと目が合う。笑顔しか見たことがなかったせいか、ドキリとした。
「あの、何か?」
「え? あ、申し訳ございませんっ。顔色が優れないようなので、大丈夫かなと……」
「あ、ああ。ありがとうございます」
猫や椛のせいで沈みきっていた気分が、顔にも出てしまっていたようだ。ほんの僅かな気遣いに心が温かくなった。
「今日は猫さんもいらっしゃらないみたいですし」
「そうなんです、それでちょっとしんど……く……て? え? ねこ?」
「え? いつも頭の上に乗せてらしたの、あれ猫さんですよね?」
頭が真っ白になった。
「実は僕も学生時代ここに下宿してたんです。猫さんとも4年間一緒でした」
「せ、先輩だったんですね。猫もあなたもそんな素振り全く無かったから……」
俺たちは今、玄関先に座ってお茶を飲みながら話し込んでいた。上がってくれと言ったのだが、
「大学の4年間は、今思えば特別なものでした。小説や漫画に出てきそうな不思議な家で、猫と一緒に暮らすなんて」
「まるで主人公ですよね。勘違いしそう」
「そうそう」
執見さんは懐かしそうに笑った。本当にいい笑顔をする人だ。こちらまで心が溶かされていく様な気になる。
「でも、実際の僕は全然主人公らしくなかった。小さなことでずーっと後悔して、劣等感に押し潰されそうになって……」
「っ……」
執見さんの言葉に、この数ヶ月、いや、下手すると1年の自分がぶわりと思い起こされて、軽い目眩がした。こんなちゃんとした人でも、俺と同じような悩みを持つものなんだろうか。
「でも、僕は猫さんと出会えた。猫さんがいることで分かったんです。下手くそなのは多分他の人も同じなんだって。無理に変わらなくても良いんだって」
「……」
「僕は猫さんと一緒ならどこまでも行けると、本気で思えた。……まぁ、猫さんは自分の生活を営んでいただけで、僕のことなんてそっちのけだった気もするけど」
「ふっ、確かに。この前もおむすび作って食べたんですけど、うっかりシャケフレーク使ったらふぎゃーってなって」
「あ、そうそう。切り身から崩さないと食べないよね。何でだろ」
「しょっちゅういろんなとこに挟まっては動けなくなって、白くて分かりにくいんですよね。ソファーの上とかたまに踏んづけそうになります」
「あはは、あの色だと確かに白は見えにくいね。黒猫さんなら良かったんだけど」
暫くの間、俺は執見さんから猫について色々な話を聞いた。猫自体が何なのか、は流石に分からなかったけれど、どんな猫なのかは少し分かった気がする。執見さんは頑張ってねと、いつもの笑顔で帰っていった。
相変わらず既読のつかないLINEを見ながら、俺は少し軽くなった頭で考えていた。明日猫が帰ってきたら椛のことを相談してみよう。きっと、ふぎゃふぎゃと泣きながらでも導いてくれる。俺は小さく笑って、布団に入った。
しかし、俺の期待を裏切るように、次の日になっても猫は帰って来なかった。
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