第6話 分岐点
大学生活の目新しさが、初めてのアルバイトによる動揺に塗り潰されかけていた5月中旬。俺は1限チャレンジ成功祝いのどら焼きを頬張っていた。カバンを左隣に置いて、文庫本を読みながら苗代たちを待つ。右手から猫の朝の発声練習が聞こえてきた。最初にこれを聞いたときは何事かと思ったが、邪魔をするとギャン泣くと知ってからはそっとしている。猫にもプライベートってものがあるんだろう。
「ふぎゃああああああー。
ふなぅ、はみゃあああー。……あーぅ。
ふごっ、……ふびゃあああっ」
一体隣で何が行われているのか。分からない。分からないが、聞くつもりもない。猫にもプライベートってものがあるんだから。
俺が必死で意識を猫から本に引っ張っていると、苗代からLINEがきた。今起きた、だそうだ。苗代に代返しとくと返信を打っている最中に椛からもLINEがきた。電車が人身事故の影響で大きく遅延しているらしい。
「ぅなうなうなうなう。
うぶゃあああああっ!」
「……何やってんだよ」
LINEに対する独り言のように見せかけながら、俺はとうとう猫にツッコミを入れた。猫は素知らぬ顔で尻尾をふたふたさせている。今朝、俺のアセロラヨーグルトに顔を突っ込んで見事にアセロラだけを掻っ攫っていっただけあって、とても元気そうだ。
「隣、いい?」
俺と猫の世界を右側からぶち破った訪問者は、生駒さんだった。猫がぱっと俺の膝の上に戻ってくる。それまで猫の重みで開いていた座席が、ガタンと音を立てて閉じた。
「………………」
「…………あ、どうぞどうぞ」
重すぎる沈黙で息が途絶えかけたが、何とか彼女より先に声を発した。生駒さんはにこりと笑うと、ありがとぉと言って座った。その笑顔からはやはり温度は感じられなかった。
「
「あ、うん。椛は電車が遅れてて、苗代はさっき起きたって」
「あ、そおなんや。……ほんまや、豊がtwitterで騒いでる。てか、つぶやいてる時点で急ぐ気ゼロやんね。懐石君はちゃんと1限から来て偉いなぁ」
生駒さんは軽やかに笑った。名前で呼び合う異性の友達。SNSでの繋がり。その大学生らしさに素直に手を伸ばせない自分がもどかしい。はっきりと苗字で呼ぶことで為された線引きも、今の俺には乗り越える術など思い浮かばなかった。
「生駒さんも偉かったね」
まだ落ち着かない心の中を誤魔化すように笑った。生駒さんは少し驚いた顔をしたが、直ぐに照れたように笑いかえしてくれた。生駒さんは意外にも家や猫のことには触れなかった。少し構えていただけに拍子抜けしてしまう。俺は意を決してこちらから仕掛けてみることにした。
「あ、俺バイト始めたんよ。椛から聞いてるかもしれないけど」
生駒さんの表情が若干の緊張を帯びた。少しは会話の優位に立てたか?と期待したが、甘かった。
「へー、そうなんや。全然知らんかったぁ。バイト何してんの? うち、懐石君とももっと仲良ぅなりたいから、」
生駒さんの大きな瞳が、俺を捉えた。
「懐石君のこと、いっぱい教えて?」
「あ、……も、もちろんっ」
相手を牽制するつもりが、かえって深くまで此方の領域に引き入れてしまったかもしれない。何とか持ち直そうとしたが、生駒さんはその余裕を与えてはくれなかった。
「あ、じゃあ早速質問! 懐石君って犬派?……猫派? 」
形のない圧力に、俺は固い笑みを浮かべることしかできない。猫という言葉に、思わず視線を下げた。そこにはごそごそと生駒さんのカバンに顔を突っ込む猫の姿があった。
「ちょっ……」
「え?」
止めたいが、流石に女子のカバンに手を伸ばす訳にはいかない。冷たい汗が背中を走った。
「ちょ…鳥類派かな」
「ふ、あははっ。二択だってぇ」
幸い生駒さんはカバンの異変には気づいていないようだった。そこで漸く猫が顔を上げた。口には深い青色のハンカチが咥えられていた。
「ふ……ふぎゅう」
ハンカチに散った波の花が、俺の記憶の中で何かとぶつかったときには、猫の目からはらはらと水滴が溢れていた。
「……人形」
「え、何?」
ハンカチから目が離せない俺につられて、生駒さんの視線が猫へと移る。猫が見えない彼女には、不自然に浮き上がり、濡れているハンカチが目に入るはずだ。
「…………」
「あ、あの。生駒さん……」
始業のチャイムが鳴った。
90分間、俺たちが言葉を交わすことは無かった。猫は涙を浮かべ、聞いたことのない声で呻きながらハンカチを抱きしめていた。
「それさ、懐石君に預けとくね」
授業が終わり、席を立つ間際に生駒さんはさっぱりと言った。
「え?……いいの?」
「うん。大事なもんやから無くさんといてね。返しに来んくていいよ。…………自分で取りに来るから」
最後の言葉は俺に対して言ったのか、それとも彼女自身への言葉なのかは分からなかった。その凜とした響きが耳の中で何度もこだましていた。
「なぁ懐石。ちょっと聞きたいねんけど」
「ん?」
「お前ってさ、たけのこ派?……きのこ派?」
「…………はー。苗代、俺と友達になってくれてありがとうな」
「何、急に⁉︎」
「苗代、今までありがとうな」
「椛まで⁈」
猫の謎の涙から数日、人形のこともあり頭の中がぐるぐるしていた。猫はあれから特に変わった様子も無いが、ハンカチは肌身離さず抱きしめている。
「てかお前それ何やってんの? もう受験終わったで?」
俺の前には分厚い数学の問題集とノートが広がっていた。もう見たくないと思っていたが、愛着のある
「んー、塾の予習。なんか、やってると自己嫌悪すごいわ」
「時間外労働やん、大丈夫なん?」
「……なんか、俺の1時間に二千円ってさ。まだ研修中ではあるんだけど、めっちゃ緊張してきてさ」
正直なところ、2人の前で問題集を開いた時点で、慰めてもらう気満々だったわけだが、自分が思いの外愚痴っぽく語り出したことに焦った。猫は今度は止めてくれなかった。
「あー、でも俺らついこないだまで高校生やで? 」
「…………。それはそうなんだけどさ。……一緒に入ったS大の同期がいて、授業見たんだけど。なんか俺とはレベルが違うっていうか……」
「大丈夫だ」
椛が何気なく、断言した。
「うん、俺もそう思うわ」
「ふぎゃあ!」
苗代だけでなく猫までもが同意のようだったが、俺にはまだ何が大丈夫なのか分からない。
「お前はその1時間の価値を高めようと努力してるだろ。こいつはやる奴だと思われたから、他の奴を押しのけて今そこにいるんだ」
「スタート地点が違うとか、俺ら身にしみて分かってるやん」
「…………そっか。落ちた奴もいるんだよな」
「そもそも、もう二千円くらいの価値あるんちゃう? こんだけ毎日、顔突き合わせとっても楽しいってすごない? まぁその場合俺も二千円欲しいけどなー」
「おい、ゼロが2つも多いぞ」
「俺の1時間20円かよ⁈ てか何なん、懐石と全然扱い方ちゃうやん」
「お前はこの1時間、きのことたけのこの話しかしてないだろ」
「最優先事項やろ! 世の中見てみぃ、世界の戦争の大概はきのこたけのこ戦争に帰着すんねんっ」
「す、凄いな、苗代。お前神経系どっかで玉結びになってない?」
「…………」
椛はもう相手にするのを諦めたのか、手元の実験ノートに意識を戻していた。猫はなんだか知らないが楽しそうだ。
「どいつもこいつも大して味変わらんくせに形だけに拘って愚かな争いを繰り広げてるやろっ」
「…………あ、分かったわ」
「懐石! 分かってくれるんかっ」
「うん。お前が今世界を敵に回したのだけはよく分かった」
「苗代、今までありがとうな」
「えっ?」
今日も3人と1匹の平和な日常が流れていく。この大きな流れは、俺が少しもがいたからって変わりはしない。そう確信を持てるほど、俺はこのとき時間というものに鈍感になっていた。期間限定のとんでもなく贅沢な時間は少しずつ、だが確実に終わりへと近づいてゆく。膝の上の猫が大きな欠伸をした。
「……えーっと、ここで t を媒介変数とすると、mベクトルはこうなるよな? ここが2:3だから。ここまで大丈夫?」
「……はい」
「で、今求めたい直線はACと平行やから、さっき求めたmベクトルに方向ベクトルを足せば出来上がり。……分かったかな?」
「……先生って、関東の人と関西の人、どっちなんですか?」
「えっ、……どっちもかな。あぁ、でも最近友達の影響でちょっと関西弁よりかも」
「へー、そうなんですね」
地元で有名な進学校の制服を着た女の子は、大して興味もなさそうに相槌を打つと手元に視線を戻した。俺の板書ではなく、参考書の例題を見て解き始める。あぁ、やっぱり分かりにくかったんだなと思うと、胸の辺りがずんと重くなった。少し離れた席から、野くんの声が聞こえてくる。
「そうそう、合っとるよ。因みに、足利義持が亡くなるとき、後継者候補に弟4人が上がってんけど、どうやって決めたと思う?」
「えー、そもそも義持が誰って感じやわ」
「義政の四代前の将軍な。くじ引きなんやって」
「えぇー、なんか……めっちゃ無責任やなぁ。てか先生物知りやね」
「はいはい、ありがとお。じゃあ、ちゃんと先生に対する言葉を使おな」
「はぁーい」
野くんの言葉には、教養がある人独特の落ち着きと深みがあった。そういう言葉はきちんと生徒に届く。信頼を積み上げている感覚があるから、彼は生徒を叱ることに怯えずに済むのだろう。足りない。今のままでは、全然。俺は膝の上でぎゅっと拳を握った。猫は隣の椅子で、俺に背を向けて丸くなっていた。
いつも通り野くんが駅まで猫をこねくり回して、気が済んだ辺りで別れた。別れ際に野くんが
「懐石君、ちょっと顔色悪いですよ? 何かあるなら相談のるので……あ、いや。僕なんか何もできへんのですけど……」
と控えめに言った。胸の奥がチリチリと嫌な音を立てた。野くんはいい子だ。穏やかで、頭が良くて、教え上手で、…………猫が見えて。
「(でも、猫に選ばれたのは俺なんだ)」
「うぎゅ……」
猫が突然、俺の手に軽く爪を立てた。チクリとした痛みと共に頭を過ぎったどす黒い感情に、言葉を失う。
「懐石君……?」
「あ、いや。ありがとうね、野くん」
俺は恥ずかしさと悔しさで泣きそうになりながら、何とか笑った。
帰り道、俺は椛に電話をかけていた。
「椛? 俺、懐石です。ごめんな、夜遅くに」
『いいや。まだ全然起きてたから大丈夫だ。何かあったな? 』
「ははっ。何となーく、お前の声聞きたいなってなっただけだよ」
『…………もしかして俺、口説かれてるのか?』
「へっ⁉︎」
『ふっ……。悪い、冗談だ。苗代なら言いそうだなと思って』
「びっくりしたぁ。やめろよ、そういうの欲しい時は苗代に直接いくから」
『はは、悪い。……で、どうした?』
「あぁ、うん」
俺は腕の中の猫に一瞥を投げた。空にぽつぽつと光る星を見つけては、ふぎゃふぎゃとはしゃいだ声を上げている。
「ちょっと、つまんないことなんだけどさ。目を背けてたことがうっかり目の前に落ちてきて。ほんと俺、小さい人間だなって……変わんなきゃなって」
『…………』
「自分で言うのもアレだけどさ、いつまで受験生やってんだよって………椛?」
『……やっぱり、凄いな。お前も、苗代も』
「え……」
俺はそこで漸く、椛の様子が最初からいつもと違ったことに気づいた。椛こそ、何かあったのではないか。
『あ、悪い。親から電話だ』
「え、ああ。あのさ、」
『懐石。多分な、少し変わってみるっていうのは、俺たち大学生に課せられた義務だよ。4年もあるんだしな』
「……うん」
『俺もちょっと頑張るから。……また明日な?』
「ああ。また明日」
俺は電話を切ると、猫と一緒に空を見上げた。猫のように直ぐに星を見つけることは、俺にはできなかった。
次の日目が覚めると、布団に猫が居なかった。不審に思い下に降りて行くと、玄関先に例のハンカチを広げ、その上には大量の花や木の実をのせている。ハンカチと同じ柄の服を着た人形も、そこに横たわっていた。
「おはよう。どっか行くの?」
「ふぎゃあ! ふぎゃうっ」
猫は俺に気付くと嬉しそうに挨拶をした。
「いつ帰る感じ?」
俺は靴箱の上の卓上カレンダーを、猫の目線まで下ろしてやった。
「ふぎゅっ」
猫はスタンプでも押すかのように18の数字に手を当てた。
「そっか。明日には帰るんだな……」
「へぶぅ……」
「大丈夫だよ。お前が居なくても、ちゃんと飯も作るし」
この、色々な面で気持ちの晴れない状況で猫と離れるのは正直不安だったが、言ったってどうしようもない。其れよりは久々の"一人暮らし"を満喫すべきだろう。俺は準備を終えた猫を送り出すと、自分も洗面台に向かった。
たった1日。猫と離れたこの日が、俺と猫の日常を大きく揺るがすことになるとは、この時の俺は知る由もなかった。
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