第5話 騒めき
「なぁ、この画面であっとる?」
「うー、あ、なったなった。おんなじ」
「ふぎゃう」
「よしよし、いけてるか?椛……ってもうできとるし」
「ああ」
「ひぎゃっ」
授業が始まってから一週間、俺たちは履修登録のため図書館のPCルームに来ていた。猫は相変わらずパソコンの熱でうっとりしている。
「うわ、お前ら社学とるん? 5限三連ちゃんって辛ない?」
「今しんどいか、後でしんどいかの違いだけだろ」
「社学カモって聞いたよ。レポートだけだし」
特に深く考えないまま、単位上限までコマを埋めていく。苗代は迷っているようだったが、結局付いてくるらしい。
「はいっ、申請っとお。……はぁー、1限三つ……5限も三つ……」
「おはようコールいるか?」
「まじで⁈ お母さんって呼んでいい⁈」
椛が皮肉っぽく言った言葉を苗代が茶化す。
「……」
じと目で苗代を見つめる椛を宥めながら、俺も登録を完了した。猫が膝の上に戻ってきた。椛は真面目で割と融通が利かない方だ。一方、苗代は合格ラインを越えれば何でもいいといったスタイルで、椛とは対極の性格をしている。この一週間、僅かな会話の歪みだ
けでも喧嘩になるのではないかとハラハラした。
「うなぅ」
猫が穏やかな声をあげ、俺を見上げた。ふにゃりと微笑んでいるように見える。二人は教学のホームページの使い方を探求し始めていた。苗代が椛の方へ寄りかかり、二人で一つの画面を見ている。さっきのは単なる冗談だったようだ。
「ふなぁ、ふみゃ……」
「(もしかして俺が一番、空気読めてないのか?)」
二人の会話のテンポが読めず、話しにくいのは俺だけなんじゃないかと不安になった。たった1年の遅れなんて大学に入ったら無いも同然だと思っていたのに。"友達付き合い"から離れたことが大きな弊害となっていた。
「ふなぁーぅ」
二人の会話に混ざろうと少し遅れてホームページを開いたところで、突然膝の上の猫が伸び上がった。俺の顎を何度か
「ぅえっ⁈」
始めてのパターンに対応できず、後ろに大きく仰け反った。キャスター付きの椅子が大きくずれ、倒れないよう咄嗟に机を掴む。
「懐石っ、大丈夫か?」
「どしたどした? 怪我ない?」
苗代も驚いたようだが、心配してくれている。ぶわりと顔に熱が集まるのが分かった。
「ぁ、大丈夫。悪い、虫にビビっただけ」
「なに、お前虫ダメなん? だっさぁ。俺なんて、蟻と蛾とカメムシとG以外やったら全然……」
「殆ど無理じゃねーか」
「ちょうちょは大丈夫ですぅー」
「ふはっ」
二人が軽快な会話に乗せてさっきの出来事を流してくれているのが分かる。顔の熱も引いて、苗代の冗談に自然と笑みも漏れた。
「ごほんっ」
気づくとカウンターの事務員さんがじっとこちらを見ていた。また騒ぎすぎたようだ。俺たちはさっとそれぞれ席に戻り、今度は声を潜めて笑い合った。
「ひっきゅ……ひぐっ……ふぅ……」
はっとなって猫を見ると、俺のセーターの端を握りしめてハラハラと涙していた。これはさっきの反省だろうか? 意図は分からなかったが、猫なりに良かれと思ってしたことだろう。ただ甘えたかっただけなら悪いことをした。俺はシャツを直すフリをしながら、猫を優しく撫でてやった。
「ねこー」
「ふぎゃう!」
課題もひと段落し、あとは寝るだけという時間。布団に寝転がり、携帯を弄りながら猫を呼んだ。携帯にはアルバイトの求人情報を集めたアプリが表示されている。
「バイトどうしよっかな。5限ない日だと……月、火、あと土曜か」
最寄駅と大まかな職種で絞り込む。飲食やら接客やらが大半で、恐らく、というか確実にくっついてくる猫のことを考えると少し気が引けた。
「ふびゃっ、うあー。なうっ!」
「んー? ああ、分かってるよ。一緒に来るんだろ? ちゃんとそれで調べてるから」
「ふみゃっ」
猫は嬉しそうに微笑むと、俺の腹の上によじ登ってきた。腕の間に入り、携帯の画面を触り始める。
「ふぎゃ、ふぎゃ」
「あー、こらこら。変なとこ押したらどうするんだよ」
俺は腕を伸ばして猫から携帯を遠ざけながら、寝返りを打った。猫がころんと布団に転げ落ちる。
「ふぁーぅ」
大きな欠伸だ。特に不満は無さそうなので、意識を携帯に戻した。
「……ん? …………時給二千円。にせんえん⁈」
思わず跳ね起きた。今までぬくぬく温室育ちをしてきた俺にでも高いと分かる値段だ。画面に映し出されていたのは、よくCMで見る大手塾の求人広告で、アルバイト講師を募るものだった。現役時代、高校の前で消しゴムやらカイロやらを配っていた覚えがある。
「塾講かぁ……」
最近流行りのブラックナンタラという言葉が脳内をチラついた。ただ、時給二千円の引力が凄い。半端ではない。猫を見やると、俺の脇にくっついてだらしなく寝息を立てていた。もしや天ならぬ猫のお導きではと思ったが、このアホ全開な寝顔に何か思惑があるとは思えない。結局は自分で決めるしか無さそうだ。
「大きい会社だし大丈夫だろ……」
俺は一つ大きな深呼吸をすると、面接申し込みのボタンを押した。
初日は短いテストと集団面接だった。入学式のときのスーツを着て、頭を撫でつけた姿は正にピカピカの一年生。少し恥ずかしい。もはやお守りのような気持ちで猫をリュックに入れ、家を出た。
面接の場所は実家から阪急で20分の駅周辺にあった。本当にここなのかと不安になる程、こじんまりとした建物だ。ここは事務所的な役割なのかもしれない。少し早く着き過ぎたため、近くの小さな小さなショッピングビルでトイレを借りてから向かうことにした。目的地に戻る途中、それまで静かだった猫が突然声を上げた。リュックから伸び出て、手を伸ばしているようだ。何事かとその方向を見ると、携帯とプリントされた地図を片手に心許なげにしているスーツ姿が目に入った。
「ふぎゃうっ!」
「ひぃっ」
男が驚いてこちらを振り向く。俺はそれ以上に驚いていた。まさか、見えてるのか?
「
「…………こっ」
「う?」
「こんにちは」
男の視線は俺の肩口にのみ注がれていた。
ああ、見えてるんだなと確信する。でもまぁ、見えてしまったものは今更どうしようもないだろう。俺は諦めて言葉を続けた。
「驚かせてすみません。もしかして、アルバイトの面接ですか?」
そこでようやく俺の存在に気づいたのか、男はハッとなって頷いた。
「は、はい。そうです。A社の塾講の……。あの、貴方もですか?」
「はい。良かった、同じ人がいて安心しました。俺、面接とか初めてで。多分あの建物なので、良かったら一緒に入りません?」
男の下りきった眉が漸く傾斜を緩めた。余程安心したのか、解けるように柔らかい方言が
「ほ、ほんまですか! あぁ、あの小さいのが……。迷ったんやと思ってめっちゃ焦っとったんです」
ふにゃりという表現がぴったりくる笑顔だった。何処かで見たなと思ったら、あぁそうだ。猫にそっくりだ。俺たちは二人して建物横の細い通路を進み、両開きのドアを開けた。男はまだ猫が気になるようだったが、何も聞いては来なかった。
面接は俺以外にも十人近くの男女が座っており、順番に質問に答える形だった。最初は他人の敬語の間違いに痒くなったりもしたが、いざ自分の番になると緊張で何を言ったのかすら覚えていなかった。ただ、あの方言くんの
「は、はい。こどもはあんまり得意やないです。はい、猫がすきです」
という発言に衝撃を受けたことははっきりと記憶に残っていた。帰り際、あれは言って良かったのかと聞くと
「へ? 僕、なんか
と、こちらも記憶が飛んでいるようだったので、まぁ成るように成るだろと思い直す。方言くんは
「ふなあーぅ」
と甘えた声を上げた。野くんは少し名残惜しそうだった。
「椛、俺バイト決まったわ」
「ん、そうか。おめでとう」
バイト先から採用の電話を貰った日の次の朝、俺達は1限チャレンジ成功を祝して売店でドーナツを貪っていた。
「え、そうなん? どこどこ? 時給いくら?」
苗代に言わなかった理由はこれだ。怒涛の質問攻め。しかもスキップでもするかのように軽やかに聞いてくる為、こちらもうっかり喋ってしまう。ごちゃごちゃ喋ったくせに結局落ちましたなんてのは格好がつかないと思い黙っていたのだが、正解だったようだ。
「塾講。よく
「にっ……うそ、やろ?」
苗代は20年来の親友が真犯人だったときのような顔で俺を見つめた。
「いや、そんな嘘だと言ってくれみたいな顔されてもさ」
「なんなん。……なんかお前、ずるいわ。家賃安いわ時給高いわ……」
「まあ、色々訳ありだけど」
「はっ、さてはその塾も訳あり……」
その辺りで、椛が苗代の頭をパァンと叩いた。
「せっかく採用されてこれから頑張ろうという人間になんてこと言うんだ」
「だって、だって! てかお前、頭
「誰のせいだろうな」
それから暫く、苗代はずるい、ずるいと騒いでいたが、気がついたときには "お腹空いた"
に変わっていた。さっきのドーナツは覚えているんだろうか。
「ふみゅう……」
猫は昨晩、家に出没した巨大な蛾を追いかけ回したせいか今日は大人しかった。俺の膝の上で丸くなっている。今日は2限が空きコマなので、少し早めに食堂へ行くという話になった。昼休みの食堂の席争奪戦は想像を絶しているため、束の間の休戦は有り難い。英語の課題をやりながら昼飯はまだかとチラチラ時計を確認していたとき、
「あ、そうだ。少し相談がある」
と椛が珍しいことを言うので、俺も苗代も手を止めて聞く体勢に入った。
「この前の子、生駒さん? 最近しょっちゅう話しかけてくる」
「自慢か!」
「違う」
椛は苗代に向けたツッコミ用のジト目を、ふと俺に移した。
「俺の……家のこと?」
「多分な。はっきりとではないが、色々聞かれる。お前の性格とか家柄とか。あと、行動だな。会って数週間の俺に聞いても仕方ないと思うんだがな」
行動。もしかしたら生駒さんは猫のことを知っているのかもしれない。知った上で、あの家に住みたがっているのだ。
「それってさ、お前の言う "訳あり"となんか関係あるんやろ?」
的をど真ん中で射た質問に、どきりとした。椛も意外そうに苗代を見ている。
「で、大概の奴はその訳ありを嫌がる。けど逆に欲しがる物好きもおって、生駒さんは物好きのほう」
「…………」
「で、自分がそこに住んで当然やと思とったところをお前が横からかっ攫った……から」
「……うん」
「奪い返しにかかってるんやない?」
苗代の言葉に、喉の辺りがひゅっと寒くなった。膝の上の猫の存在を確かめる。暖かいそれは規則正しく膨らんでは萎み、時折寝言のように鳴いた。
「そんなに自信有りげだったか?」
「あの子京都から通いやろ? 下宿先探しとったんならもっと近いとこいっぱいあるやん。探し始めた時期もかなりぎりぎりやったみたいやし」
「懐石の家だけしか下見しなかったってことか。……彼女は住みたがっていたのに、何かしらの要因で断念した?」
「うーん、そこなんよなぁ。……懐石、その家って入るときに条件とか出されんかった?」
条件、おそらくあの家に住むための最低条件は猫が見えることだろう。いや、そもそも猫が見えるための条件があるのか? 俺は自分と野くんの共通点を思い浮かべようとしたが、それをするには俺と彼の関係は浅過ぎた。
「うーん。音が、聞こえてきて」
「音?」
「最初の日、寝てるとき。それで……」
猫のことを打ち明けるべきだろうか。ふと気づくと猫が起き上がっていた。じっとこちらを見ている。尻尾はしっかりと体に巻きつき、耳はピンと張ったままだった。
「……その音が嫌じゃ無かったら、どうぞみたいな」
「なんやそれ」
「さっきまでの名推理はどうしたんだ」
「あかんわ。脳みそ使いすぎた。あ、昼飯行かん? いい頃合いやない?」
一応聞く形を取っていたが、苗代の腰は既に椅子から立ち上がりかけていた。俺も椛も若干の消化不良だったが、確かに今考えたって仕方がないだろうと荷物をまとめた。自分からリュックに入ろうとする猫を、今日は手で抱える。猫の不思議そうな視線には応えなかった。
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