第4話 一歩目

大学は私立なだけあってとても美しかった。広大な土地には背の高い木々が等間隔で配置され、まだ新しい建物が自然な統一感を持って立ち並んでいる。入試を受けたのはこことは別の、もっと都会にある本キャンパスだったが、賑々にぎにぎしく少し息苦しくもあった。それに比べれば交通の不便はあっても、この田舎のキャンパスの大らかで、ある意味無頓着な態度は心地よかった。


「えーっと、英語の18クラスだから……。よん……6? いや、Ⅳ号館か」


ローマ数字に悪戦苦闘しながら広いキャンパスを進むと、ワイワイと人の流れができていた。ふらふら流され、似たような建物の間をいくつか抜けて、Ⅳ号館のプレートを発見する。リュックから顔だけ出した猫が、


「うなぁー」


と、退屈そうな声をあげた。


教室に入ると、五角形のテーブルが6つあり、それぞれにパソコンと椅子が5つずつ置いてあった。一人の男子が座っているテーブルを選んで声をかける。


「あの、ここいいですか?」


「どうぞー。ここまで迷わんかった?」


「人の流れに流されるままたどり着いた。でもローマ数字全然読めないわ」


「それなっ。良かったー、俺だけかと思った。あ、苗代なわしろ 豊です。宜しく」


最初に知り合った苗代は良くも悪くも軽い雰囲気を持っていた。染めた直後であろう明るめの茶髪が、薄めの顔の上できまり悪そうに座っていた。


懐石ふこく きわむです。苗代は大阪の人?」


「いや、神戸。お前は?」


「俺も実家が神戸だよ。今は下宿してるけど」


「あ、そうなんや。関東の人かと思った。なんか標準語っぽいし」


「父親が千葉で、小学校くらいまで住んでたから。転勤になってからはずっとこっちだよ」


一先ずは当たり障りの無い会話が続いた。教室が少しずつ賑わい始める。皆んな最初に属す"グループ"はどこがいいか見極めている様子だ。確かに重要なポイントだろう。猫はパソコンの暖かさが気に入ったのか、顎を置いてクテンとなっている。尻尾が揺れていて少し寒い。前のドアから背の高い男子学生が入ってきた。教室をぐるりと見渡している。前に座っている華やかな女子グループが僅かに色めき立った。男の視線は俺のところでピタリと止まった。そのまま真っ直ぐ向かってくる。


「おはようございます」


「あ、おはようございます」


「はざまーす」


自然な挨拶と共にするりとテーブルに入ってきた男に、俺も苗代も言葉を引き出された。


かんば うつるです。宜しくお願いします」


椛は姿も言動もとても硬派で、なるほど女子受けしそうだなとぼんやりと思った。

そこから数人がパタパタと入ってきて、テーブルが埋まった辺りでアメリカ人の教授が自己紹介を始めた。聞き慣れない言葉だからか、教授が何か言うたびに猫が


「ふべぅ……ふびゃっ、あーぅ」


と、懸命に返事をしている。苗代も椛も気づいている様子は無いので放っておいた。





「ぅあー。終わったー」


苗代が大きく伸びをする。俺たちは帰る人々の流れに乗って、学内のカフェスペースへ向かっていた。


「90分は長いよな。あの先生ほとんど日本語できんみたいだし」


「まぁ、受験英語に比べたら穏やかでいいだろ」


「「それな」」


「ほんま、英語難民卒業したいわー。センターも英語で死んだしな」


「ぁ…………」


苗代の言葉に、さっきまで忘れていた胸焼けのような感情がぶわりと立ち昇った。


「あのっ、俺も……」


「ふぶゅっへっ」


俺の意識を超えて出た声は、猫のくしゃみにかき消された。はっと我に帰る。俺は今、会って数時間の相手に何を言おうとしたのか。


「大丈夫か?」


椛が急に黙った俺を訝しんでか声をかけてくる。俺はリュックを前に抱え直しながら笑った。


「受験のこと思い出してたら腹減ってきたわ。何食べる?」


「なははっ。それなー。ていうか、学校内にカフェとかオシャレ過ぎん?」


「あんまり期待し過ぎない方がいいんじゃないか……?」


リュックごと猫を抱きしめて静かに息を吐くと、俺は二人の後に続いた。




辿り着いたのはカフェというより売店とちょっとオシャレな休憩スペースといったところだった。売店で紙コップを買って、店横のコーヒーメーカーで淹れるスタイルらしい。本キャンパスではないし、まぁこんなものかと納得し席を確保する。


「お前、昼食べてないん? めっちゃ買うやん」


猫が食べれそうなプレーンのパンも一緒に選んでいたのだが、いつしかプレートがいっぱいになっていた。


「あ、あー。晩飯までの非常食?」


「……四六時中、非常事態なんだな」


「ぶっはっ。かんば、……ふっ……冷静な分析やめろ」


「いやいや、違うからっ。笑いすぎなお前らっ」


狭い店内で騒いだからか、周りの客がクスクス笑っていてさすがに恥ずかしくなった。お前のせいだぞと猫を睨んだが、リュックから伸び出て嬉しそうにパンを見つめる姿を見ると、まぁいいかと思えてしまう。

四人掛けの丸テーブルに座りコーヒーを一口飲んでほっと息を吐いた。初日だし幾らか緊張もあったが、友達もできそうだし今のところ順調だ。


「椛は実家なん?」


パンを1つ選んでリュックにさりげなく入れながら聞いた。クロワッサンだと鞄の中が悲惨なことになりそうなので、普通のバターパンにした。


「いや。俺は実家が東京だ。下宿はこの近くの安いアパートだよ」


「へー。二人とも一人暮らしか。ええなぁ」


「苗代は実家から通ってるんだよな」


「おー。まぁゆぅて1時間半の距離やしな。1限死にそうやけど。懐石は? 何処住んでんの?」


「ここから自転車で20分の一軒家。家賃2万5千円」


「嘘やろ⁈」


「お前それ……。大丈夫なのか?」


「あーうん。訳ありではあったな。けどまぁ、今のところ機嫌よくやってるよ」


猫の方をちらりと見やると、1つ目を食べ終えたのか残りのパンの山を凝視している。何気なくクロワッサンを猫から遠ざけ、会話に戻る。


「えぇ、何それめっちゃええやん。今度泊まりにいっていい?」


「ああ、もちろん。訳ありでよければ」


「えっ。何それそういうパターン? 俺苦手やねんけどっ」


大げさに肩を震わせる苗代に笑い合っていると、横からサクサク音が聞こえてきた。嫌な予感がして横を見ると、案の定、クロワッサンが無い。やられた、教科書は無事だろうか。後で粉だらけの猫もはたいてやらないといけない。


「あのぉ」


コーヒーがすっかり冷めた頃、一人の女の子に声をかけられた。目鼻立ちのはっきりした、黒髪の綺麗な子だ。


「はい? ……あ、あなた確か……」


「はい、同じ18クラスの生駒いこま 直道すぐねです。さっき、偶然あなたの家の話が聞こえてしまって」


「はぁ、どうかしました?」


突然のことで、苗代も椛も静かに様子を伺っている。


「もしかしてその家、ここから20分くらいの所にある赤い屋根の古民家やないですか?」


「あっ、多分そうです。裏手に山があって、玄関はネコジャラシだらけの……」


「やっぱりそうですか。……じゃあ、あなたは選ばれたんやね」


「え?」


最後は小さくて、カフェの喧騒の中では聞き取れなかった。


「ありがとぉ。実はあの家、うちも見に行ったから奇遇やなぁって。ごめんな、いきなり」


「あ、そうなんですか」


急に柔らかくなった態度にドギマギしながらなんとか答える。まともに女子と話すのなんて一年ぶりだった。助けを求めようと二人を見るが、既に昨日のテレビの話で盛り上がり始めていた。助ける気は無さそうだ。


「これから英語で一緒やし、宜しくね。えっと……」


「あぁ、懐石です。こちらこそ……」


「ふびゃう!」


「うおっ⁈」


さっきまで大人しくパンを頬張っていた猫が突然声を上げたので、驚いて変な声が出た。どうやらメロンパンに手が届かず不満らしい。というか、どんだけ食うんだこいつは。俺は残りのパンを買った時の袋に戻し、自分の目の前に置いた。


「ふべぅ……」


猫がとんでもなく不満そうな声を上げたが、無視した。ふと視線を上げると、生駒さんが俺の一連の動作を鋭い目つきで見つめていて、どきりとする。不審に思われたのだろうか。不安になり次の言葉を探していると、漸く助け舟が来た。


「あ、はいはーい。俺も直道ちゃんと宜しくしたいー。苗代 豊でっす。ゆたかでええよ」


「煩くてすまない。椛です、宜しく」


「俺は煩さないよ。座が華やぐといいたまえ」


「あはは、全然ええよ。よかったぁ、ウチ京都から来てて知り合いとか全然居らんから。仲良くしてな」


ぱっと明るくなった雰囲気に一先ずほっとする。ただ、生駒さんのあの視線が、まだ俺の心臓をドクドクと打ち鳴らしていた。




生駒さんとはその場で別れた。苗代はバイトがあるというので先に帰り、俺と椛は二人で図書館へ向かう。


「売店のパン、美味かったな」


「それなー。駅中で300円も出して買ってたのが馬鹿らしくなったわ」


「お前は何だかんだ言って地元が近いもんな。家が恋しくならないか?」


「ホームシック? あー、そう言えば無いな。感じている暇がないというか」


「そうか。俺はまだ中学生の弟と妹がいて家が賑やかだったから、少し寂しいな」


「あー、椛ってめっちゃお兄ちゃんぽいな。寂しかったら泊まりに来いよ。一軒家持て余しまくってるから」


「すごいよな、2万5千円。訳ありでも皆んな住みたがるだろ。さっきの子とか……」


「ああ、生駒さんね。嫌われた気しかしないわ」


「別にお前のせいじゃない」


「うん。……ていうか、お前ら二人ともどんな"訳あり"か聞かないな」


「お前が言わないからな」


「ふはっ、ありがと」


新鮮な感覚だった。今までよりずっと広い世界にいるんだと実感する。言いたくなければ言わなくていい。言えないことは、言えないままでもいい。未だに胸の中の大半を占めているすすけた残骸の中にも、まだ捨てるには惜しいものもあるのではないか。急がなくていいと分かった途端、色々な意欲が湧いて来て、俺は少し歩幅を大きくしたのだった。




家に帰ると猫と全ての荷物をリュックから引っ張り出し、玄関先でパタパタとはたいた。猫ははたかれるたびに


「ふみゃっ、ふみゃっ」


と短い声を上げたが、嫌がっている様子はなかった。


「お前、一回洗濯したいな。どっかにタグとか付いてないの?」


猫をくるくる回して確かめるが、当然何も見つからない。遊んでもらえると思ったのか、猫はふぎゃふぎゃとはしゃいだ。辺りにはまだ夕日の気配が残っていた。ライトをつけ始めた車の音が小さく聞こえる。


「なんか、案外呆気なく始まったな」


「ふぎゃう」


「またお前に助けられたよ。もっと上手くやるつもりだったのに、まるで高校生のままだ」


「…………へぶしゅっ」


「……ふぅー。明日は1限からだよ。起きられるか?」


「ふみゅ?」


「今日は早めに寝るか」


俺は猫を抱え直し、家に入った。










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