第3話 新生活

朝起きたら髪の毛のエントロピーがえらいことになっていた。持ち得るエネルギーを放出しきって、もはや平衡状態。多少ドライヤーをあてようが水で濡らそうが、うんともすんとも言わない。


「初日からかよ……」


 記念すべき大学の初回授業は木曜日だった。3限の英語からだから時間は十分にある。


「風呂入って直すかぁ」


先日バスタオルは補充済みで、風呂が2回になったところで問題はない。それより頭の大怪我をなんとかするのが先決だと判断し、俺は着替えを出そうと箪笥の引き出しを開けた。



「はぎゅう……」


「うぉっ?!」


冬物のセーターの間にぎちぎちと猫が挟まっていた。


「なんでそうなった?! 大体どうやって引き出し閉めたんだよっ」


「ふぎゅ……はっ。ふぎゃあ!」


「あ?……あぁ、うん。おはよう」


 猫が居ると分かってから一緒に暮らし始めること数日、特に大きな事件もなく穏やかな日々が続いていた。互いに自分勝手に生活して居るが、猫の方は俺なんかよりよっぽど自立しており、面倒を感じることはなかった。たまに世話を焼かれているような気さえしてくる。例えば、俺が一人暮らし2日目にしてまともな飯を作れるようになったのは、猫のおかげだった。


 


 「よし、昼ごはん作ろう」


「ふぎゃあ!」


「お、お前も一緒に作るか? じゃあ先ずはご飯だな。夕飯の分も一緒に炊いとこう」


 米をザクザクと洗う。研ぎ汁はネコジャラシ用にバケツに移した。釜の目盛りを見ながら水を入れる。


「昨日はちょっと柔らかすぎたんだよなー。今日は米の量も多いし、こんくらいか?」


「ふ……ふ……」


「ん?」


「ふびゃああああああああああ!」


「おおぅ?!」

 

突然のギャン泣きに驚き、コップの水を全部釜の中に落としてしまう。


「ひぎゃあああっ」


「なんでだよ?! あ、え? もしかして水多い?」


俺は猫の様子を見ながらコップで中の水を少しずつ汲み出した。


「ひぎゅっ…………ふぎゅっ……」


「……まだか?」


パシャっ、パシャっ


「ふ…………きゅっ」


「あ、泣き止んだ……」


『ふーっ』


やりきった俺たちは一緒にため息をついたのだった。



 炊き上がったご飯は絶妙な硬さで、猫も俺も満足するものだった。1人で座ると少し寂しかった山吹色のソファーも、1人と1匹なら収まりが良い。おかずは豚肉を焼肉のタレで炒めただけの簡単なものだったが、ご飯のお供としては文句なしだ。俺は横目でツナおむすびに夢中になっている猫を見た。かなり角度の大きな猫背姿で、もうどっちがおむすびなのか分からない。その間抜けな姿に思わず笑いが漏れる。


「ふぎゃ?」


ほっぺをご飯粒だらけにした猫が、不思議そうにこちらを見た。


「んー、美味いよなって」


「ふぎゃうっ」


尻尾が嬉しそうにソファーを叩いた。


「お前のお陰だな。……お前さ、あんなに頑張らなくていいよ。ふぎゃーってやつ」


「う……?」


「昨日もそうだったけど、お前が声を張り上げるのは俺が分かってないと思ってるからだろ。確かに会ったばっかで分からないことだらけだけど、これからは俺も聴く努力をするから」


「うなぁ……」


「これからはちゃんと"会話"をしよう」


「ふぎゃあ!」



 数日前のこの出来事以来、俺と猫の意思疎通は割と良好だ。俺は耳や尻尾の動きで、猫の言い分が分かってきた。猫は猫で無闇にギャン泣くことは無くなった。たまにはらはらと声も上げずに泣いていて驚くのだが、その1つ1つにきちんと理由があることも分かってきた。今、ぷるぷる震えているのは、俺のためにバスタオルを出そうとしてその他のタオルの山をひっくり返してしまった絶望感によるものだと推測される。


「ふびっ……ふぶっ……」


「あー、はいはい。悪気が無かったのは知ってるよ。ありがとな」


「うぎゅぅ……」


 猫が倒れてクチャクチャになったバスタオルを畳もうとして、何故か簀巻き状態になっている。


「うん、俺がやるわ。ほら、毛だらけになるだろ」


猫を引っ張り上げ、手早くタオルを畳む。今度はきちんと引き出しにしまって、俺は風呂場に向かった。



 



 ガスの元栓と窓の鍵を確認し、いざ参らんとリュックを背負った矢先。重心が後ろにずれて、畳の上に尻が叩きつけられた。


「へぶっ」


リュックの中から不気味なうめき声が漏れた。嫌な確信があったが、無視するわけにもいかず俺は渋々チャックを開けた。案の定、ノートと参考書の間にぎちぎちに猫が挟まっていた。


「だからどうやって閉めてんだよっ」


「ふべぅ…………」


 俺は猫を引っ張り出すと膝の上に置き、会話の姿勢になった。


「なあ、まさかとは思うが……お前も来んの?」


「ふぎゃあ!」


「いやいやいや、いや。ないわ。それは無いわ」


全力で首を振ると、猫も負けじとリュックにしがみつく。


「ふびゃう!」


「お前、あれだろ?見える人には見える的なアレだろ」


「ふびゅ?」


 大家の話では、ここに住んだのは皆学生だったはずだ。つまり、大学生のうち少数派とはいえど一定数は猫の姿が見れるわけだ。


「お前な、ちょっと想像してみ? 男子大学生がぬいぐるみみたいな化け猫を抱きながら登校する姿を。おぞまし過ぎるわ」


「ふぎゅう……」


 猫は僅かに納得の色を見せながらもカバンから離れようとはしない。どうしたものかと悩んでいると、カポーンという間の抜けた音が、家中に響いた。猫が耳をピンと立て、玄関を凝視している。どうやらインターホンのようだ。


「あっ……。あっぶね。今日だったっけ」


俺はそこでようやく、親戚から貰った野菜が届くという親からのLINEを思い出した。はーい、と返事をして印鑑を持ち玄関に向かおうとしたとき、ふと1つの実験が頭に浮かんだ。


「なぁ、猫よ」


「ふ……?」


「そんなに一緒に行きたいか?」


「ふぎゃあ!」


「そうか。なら、ちょっとテストをしてみよう」


そう言うと俺は猫の脇に手を入れ、そっと抱き上げた。猫は文句を言うこともなく大人しくぶら下がっている。そのまま腕を持ち上げ、頭を潜らせると、俺は猫を肩の上に置いた。所謂、肩車だ。


「ふぎゃっ。ふぎゃうっ」


突然高くなった視点に猫がはしゃぐ様な声を上げる。俺はそのまま玄関に向かい、澄ました顔でドアを開けた。


「今日はー。お届け物でーす」


「あ、はーい。ありがとうございますー」


届けてくれたのは背の高い若い男だった。重いからと玄関までダンボールを入れてくれた。心地いいトーンと満点の笑顔で判子お願いします、と用紙が差し出される。一連の動きを注意深く見ていたが、俺の頭の上を気にする素ぶりは全く無かった。


「ふみゃっふみゃっ」


猫は俺の頭にアホ毛を立てて遊んでいて、宅配業者には無関心を決め込んでいた。判子を押すと、男はありがとうございましたと笑顔で出て行った。その際も自分の帽子をひょいっと持ち上げただけで、戸惑いの色は見えなかった。


「見えてないよな……」


「ふびゃう!」


「いや、だからといってさ。俺は大学に勉強をしに行くのであって、断じてお前の散歩に行くのではな……」


「ふびっ……ふびっ……」


「……………………分かったよ」


「ふぎゃあ!」


これが俺と猫の初めての共同外出である。俺はこの時の判断が正しかったのかどうか未だに分からない。ただ、この判断……そもそもこの猫との出会いが、俺の大学生活を大きく変えることになった。

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