第2話 先住猫

「はふぅー」


 山吹色のソファーに身を埋めて長く息を吐く。荷ほどきは思いの外早く終わった。家具が据え置きなのは有り難かったし、実家から持ってきたものといえば少しの服と大量の本くらいだったからだ。


「……ひとりか」


他人の居ない家、衣食住すべてを自分でコントロールできる幸せ。この開放感が空しさに変わり、遂には寂しさに成り果てるまでに生活を充実させなくては、俺の心は死んでしまうだろう。そう思うと休んでいる場合でもない気がしてきて、俺は宣言と共に立ち上がった。


「よし、晩ごはん作ろう」


自立の第一歩として、台所へ向かう。持ち込んだのは最低限の食器と炊飯器、米、料理のさしすせそ。食材は大家に教えてもらったスーパーで買ってきている。時は満ちた。後は全力でやるだけだ。俺は袖を捲り、携帯を掴むと慣れた手つきで打ち込んだ。


"ごはんの炊き方"




 「……なんて様だ」


 バームクーヘン型のテーブルに並べた皿を見て思わず呟く。今日の献立は野菜炒めと豚の生姜焼き、味噌汁、ほうれん草の胡麻和えだったはずだ。しかし目の前の皿はまるで世紀末だった。


「誰だよ、さしすせその"さ"がサフランとか書いたやつ。……いや、モノは考えようだ。失敗は次への好奇心を産むさ」


俺は今日の献立を、野菜たちの狂乱、豚肉のタンパク質変性風、飽和ミソスープにほうれん草の胡麻和え(出来合い)と書き換え食卓についたのだった。



 風呂釜がまだ洗えていなかったので、シャワーですませた。圧倒的にバスタオルが足りないことに気づく。片足でフラフラと足を拭いていると、部屋を片付け終わったときよりもずっと"1人"である事実が胸に迫った。


「明日はバスタオルを買いに行こう。あと歯磨き粉と砂糖と、バイトも探さなきゃ」


台所での喧騒は嘘のように静まりかえった部屋。沈黙にも音があるのだと、今初めて知った。本当にしーんと鳴るのだ。この音が聞こえることが嬉しくもあったが、これから毎日の付き合いになるかと思うと自信が無かった。


「バイトは時間割決まってからでいいかな」


やるべきことを一々口に出しながらお湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れる。砂糖とミルクが無いのに気がついたのはお湯を注ぎ終わった後だった。


 



 


 へちょ。


 へちょん……へちゃ……。


 …………………………どすん。


 「ふぎゃっ」



 苦いブラックコーヒーのせいか何なのか、丑三つ時になっても眠れずにいたところに物音が降ってきた。今寝ているのは二階の和室、だが音は明らかに"降って"きている。屋根裏部屋、あの秘密基地からだとすぐに分かった。


「初日からかよ……」


しばらく布団の中で目を閉じていたが、ブラックコーヒーのせいかなかなか眠れない。正直に言うと、音が気になって仕方がない。ただ、この時俺の胸を占めていた感情は恐怖ではなかった。ギシギシ、カタカタ、タスケテ……なんて言ってくれたなら、俺だって全力で恐怖に身を投じられたのに。今聞こえてくる音といえば、



 へた、へた、……べちゃっ。


 「ふぎゅっ」


………ぺたん。



あぁ、いらいらする。どんくさい。緊張感も何もあったもんじゃないのだ。大体、こういう幽霊ってのは向こうから迫ってきてナンボじゃないだろうか。音がし始めてもう15分になるのに、上から降りてくる気配が全くない。心霊現象がセルフサービスとは一体どういう了見か。

 俺は苛立ちのあまり布団から這い出ると、眼鏡と上着を着けて静かに部屋を出た。春とはいえまだまだ寒い季節だ。明日はもこもこのスリッパも買おうと決意しながら屋根裏への狭い階段をゆっくり上る。最後の段から頭を少し出して部屋を覗いた。天井の小さな窓から白い月明かりが漏れていて、埃が煌めく。その煌めきの中にそれは居た。



 「あっ……」


 「う?」


思わず声が出て、それが振り向いた。目が合った……ような気がする。目が小さすぎてよく分からないが、おそらくこっちを見ている。湿気でヨレた紙のような耳がスッと立ち上がり、糸のような尻尾が体に巻きつく。その拍子にまた埃が巻き起こりキラキラ揺れた。


「…………」


「………………?」


「……う、……うびゅっ……ひっ……」


「え……?」


沈黙の音が、不意に途絶えた。代わりに何か搾り取るような不気味な音が響く。ゴマみたいな目からはらはらと水滴が零れ出したのを見て初めて、それが泣いていることに気がついた。俺は慌てて階段を上り駆け寄ろうとしたのだが、どうやらそれがいけなかった。


「ふ……ふびゅ……」


「おい、大丈夫……」


「ふぎゃああああああ!」


「?!」


"ギャン泣き"であった。

今、ここで幽霊は俺の方だったらしい。この家には先住猫が居たのだった。





 音は虫の声、灯りは月明かり、そして腕の中にはくたびれきった布のような謎の猫。俺の走馬灯の1ページに選ばれることが確定した最初のワンシーンかもしれない。身振り手振りで敵意がないことを伝えたが猫は一向に泣き止まず、かえって悲壮な叫び声をあげた。小さな目からは止めどなく水滴が溢れ、顔や身体がどんどんふやけていく。見兼ねた俺は、僅かに恐怖もあったが、思い切って猫を抱き上げてみた。


「ひぎゃあああああっ、ふひっ、ふびゃああああぁう」


「分かった分かった。おい、泣き止まないと抱っこするぞ?いいんだな?」


 ひょいっ。


「はぎゃあああ?!」



俺は猫の首根っこをなるべく優しめに掴むと胡座をかいてその上に猫を置いた。そのまま背中に手をやり、そっと抱き寄せてみる。


「ふ……きゅ」


「あ……」


 泣き止んだ。猫は耳をぱたぱた、しっぽをふたふたと振りながらゴソゴソと動き回り、やがて収まりの良いところを見つけたのかふーっとため息を吐いた。背中をそっと撫でてやる。掌は何の抵抗もなく背骨のラインを滑り降りていった。最初は白だと思っていた毛は、月明かりで所々虹色に光っている。シロクマと同じで、毛が透明の中空構造なのかもしれない。皮膚が薄いのか、耳や手足の先は薄っすらピンクがかって見えた。


「なぁ、驚かせてごめんな。……もう泣かないか?」


「ふ……ふぎゃあ」


「そうか。お前は猫……なのか?」


「はぎゅ?」


 耳と尻尾で猫だと決めつけていたが、落ち着いて見ると猫らしいところはそれだけだ。少なくとも愛玩動物ではない。愛玩すべきところが1つもない。見た目は、歪んだ照る照る坊主にカッスカスのマジックで点と線を描いたような雑な仕上がりだった。


「まぁ、本人が分からないんじゃしょうがないわな。いつからここに居るんだ?」


「ひぎゅう……」


 ジャージの腰紐を齧っていた猫は、ふと視線をガラクタの山へ移した。しばらくそうしていたかと思うと、スッと俺の膝から離れて山の中へ入っていってしまう。呼び止めようかと思ったが、何故かまだ会話の糸が切れていない気がして声が出せなかった。カタ、カタと山の奥で音がして、それから猫が出てきた。何かを咥えている。猫はもそもそと俺の膝の上に座り直すと、咥えていたものをそっと離した。


「ん、なんだ?」


それは小指ほどしかない木製の人形だった。

だいぶ古いものだったが、海色のドレスには波の花が散っており、腰には着物の帯を想わせる太いシルバーのリボンが巻いてある。顔立ちもどこか日本的で、瞳も髪も青みがかった黒色だった。


「綺麗な人形だなぁ。でもこれ何処かで見たような……何処だっけな」


 猫はもう腰紐を弄る作業に戻っており、戻ってくる気も無さそうだった。


「これが答えってことか……」


またシーンと音がした。雲で途切れ途切れになった月明かりで目がチラチラする。


「……へぶゅっへ」


猫の絶望的に可愛げの無いくしゃみで、出てきかけていた記憶も綺麗にふっとんだ。


「もう寝るか」


「ふぎゃあ」


 俺は猫を抱き上げて急な階段を座りながら降りた。明日はもふもふの猫用タオルも買おうと決めた。

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