筆舌に尽くしがたい猫

独楽花

第1話 雪解け

あぁ、夢を見てるのか。もう名前も思い出せない中学時代のクラスメイトが目の前で笑っている。制服も教室も確かに母校のものなのに、そいつの手には何故か見覚えのあるマークシートが握られている。咄嗟に目を背けた。次に目を開けると周りは人、人、人だらけ。顔は分からないのに知っている人のような気がする。心細くなって必死に声をあげても誰も気づかない。


「ふぎゃあっ」


音のない世界に突然、それは降ってきた。柔らかさを感じさせる白い塊。それは俺が正体を認識する前に爆発していた。全てを塗りつぶすような、強い光が四方八方に広がる。あぁ、あれは爆弾だったのか。俺が何よりも望んでいた世界を終わらせる爆弾。これは、戦争の夢だ。俺の敗戦と、復興の記憶だ。



 目が覚めると、着けていたはずのアイマスクが何故か頭の下に敷かれていた。部屋にはもういらなくなった参考書が散乱している。セットしていた目覚ましが鳴り、母親の慌ただしい足音が聞こえ出す。俺の大学生としての初めての朝だった。

 

 2月上旬、傘を持って行こうか、どうしようかという中途半端な天気の日に、俺は第2志望に合格した。数日前までは滑り止めだった大学が、唯一この2年間が現実であったことの証明になった。この間まで振り回していた自尊心と劣等感はどこへ行ったのだろう。遠心力で遥か彼方に吹っ飛んでいったのかもしれない。今ではどこを探しても見当たらない。どんな色でどれくらいの重さだったのかも思い出せない。第2志望の大学が恐ろしく身の丈にあっていることはもう受け入れていた。が、無茶な戦いをしたと笑って恥じるにはもう少し時間が必要なようだった。

 K大学は実家からは少し不便な、北の広大な土地の真ん中にあった。通学に高速バスを使うため交通費も馬鹿にならず、俺は家賃の半分を自分で負担するという条件で一人暮らしの許しを得たのだった。入学前の春休みを利用していくつか不動産屋を巡ってみたが、目ぼしいアパートやマンションはK大を第1志望にしていた学生たちで埋まってしまっていた。もう少し範囲を広げてみようかと思い始めた3件目の不動産屋で、俺は店主から一つの物件を勧められた。明らかに娘か孫の趣味であろう派手なネクタイをつけた初老の店主は、躊躇いがちに語り始めた。


「いやね、本当にいい家なんですよ。建ってからもう100年近くなるんだけど、これまでの入居者はみんなそれは大切に住んでくれて、何度かリフォームしてるから内装も綺麗だし…」


「一軒家ですか、なら持て余すかもしれないな」


「ええ、ただね、今まであすこに住むことができた人は皆学生さんでしたが、温もりのある優しい家だと…」


店主の言い回しに違和感を覚えた俺はなるべく角を立てないように聞き返した。


「住むことができた、というのは、好き嫌いの出る家って意味ですか?」


「いやっ、好き嫌いというか…出るには出るんですが…」


「幽霊でも?」


店主の顔がサッと白くなり、ネクタイの赤とオレンジがより鮮明に瞬いたように見えた。


「……私がこの店を継いでもう32年になりますが、あの家でそんな、例えば自殺であったりは一度も起きちゃいません。父からも聞いたことがない」


店主はまるで何か確認でもとるように、机の端に置いてあった古い置き時計をカチャカチャと動かした。木製で美しい装飾の施されたそれは一目で良いものだと分かった。定時になると鳩でも出るのだろうか、文字盤の上には小さな小窓が付いていたが、今は閉じられたままだった。


「あの家に入った人なら誰でも聞こえるようなんですよ。何か、絞り出すような鳴き声だったり、引っ掻くような音だったり。ぼてっと何かが落ちたような音だったり」


「はあ、毎日?」


「ええ、時間帯にもよるみたいですがね。ただ、不思議なことにその音が不快に感じる人と、そうでない人ではっきり別れるんですよ。まるで家が人を選んでるようでね」


「家が……。大家さんはどんな対応を?」


正直にいうと、このとき俺は既にこの家への興味を抑えきれずにいた。心霊現象がどれ程のものか怖いもの見たさもあったし、何より自分が選ばれる人間なのかどうか確かめたかった。


「ああ、あの家の大家は私……正確には私の祖母ですが、もう大昔に亡くなりましてね。癌で……まだ61だったかなぁ」


「ぁ、そうでしたか」


「祖母の家は大変裕福だったそうで、子どもたちの勉強部屋がわりにあの家を建てたそうですが戦争やらなんやらでね。それで貸しに出されたんですよ。その仲介をしたのが祖父だったようで……」


「なら恋愛結婚ですか?その時代だと珍しい気がしますね」


店主の奥さんらしき人が出てきて、2人分のお茶を置いて出てゆく。

北の大地の空は広く、太陽もえらくゆったり歩いているようだった。他に客もいないようなので、俺は切り上げるタイミングが向こうからやってくるまではと、店主に先を促した。


「そりゃあ家の反対だったり、現実的なね、お金の話だったり苦労はあったでしょう。なんとか結婚がまとまると、新居を建てる余裕もないってんでそのまま祖父母が其処に住みはじめましてね」


「貸しに出してしまったのはどうして?」


「祖父が亡くなってからは、病気のこともありましたし祖母は私の家で一緒に暮らしてたんですよ。でもじーさんとの思い出の家はどうしても手放せないって、聞かなくって。それじゃあ貸しに出そうってことにね。まあでもじーさんの仲介がうちのルーツになってるんだから不思議な縁もあるものです」


店主の言葉からも、その家がただの訳あり物件ではないことが想像できた。


「……縁を繋ぐ家ですか。見てみたいですね、たとえ選ばれなくても」


「見に行かれますか?まだ日も高いですし、ご案内しますよ」


「はい、ぜひお願いします」


時刻は午後2時丁度。俺たちはぬるくなったお茶の残りを啜ると立ち上がった。置き時計の小窓は閉まったままだった。近所に学校でもあるのか、聞き覚えのある卒業ソングが小さく流れていた。


 



 不動産屋から車で30分、大学からは自転車で20分といったところにその家はあった。周囲は田んぼが広がっており、数件の農家が点在していた。裏手は大きな山で、聞こえてくるのは田んぼを走るトラクターのエンジン音と鳥の声だけだった。


(大学から近いのは有難いけど、これ買い物とかどうするんだろ……)


辺りをキョロキョロと見回しているのに気がついたのか、店主が少し照れたように説明してくれた。


「びっくりするでしょう、なぁんにもなくて。大丈夫、K大学方面からならバス一本ですし、間に大きなスーパーもありますよ」


店主は田んぼの向こうの道路を指差しながらつづけた。


「大型のショッピングモールもあって、映画館なんかも入ってますから若い人もさほど退屈しないんじゃないかな」


「静かで穏やかで、良いですね。すごく」


高い建物がないせいで広々とした空も、大きくて交通量も多いのに静かな道路も、全てがこの土地の余裕のように感じられた。わざわざ探さずとも自分の居場所が十分にある。自分の心が思ったより疲れていることに、俺はこのとき初めて実感を持って気づいた。


 家の外装はなんとも言えない味があって、それもすぐに気に入ってしまった。

赤みがかった橙色の屋根と扉、汚れていて蔓のはしった壁、崩れた煉瓦の階段と大量のネコジャラシ。周囲は伝統的な日本家屋ばかりなのに、この家だけは中途半端にモダンな雰囲気を醸し出していた。


「見た目はボロいですが中は綺麗ですんでね」


店主が知恵の輪のような鍵をガシャガシャと鍵穴にねじ込みながら言った。


「わ、ほんとだ。中はすごく綺麗だし、独特ですね」


家の中はなんとも適当な和洋折衷といった印象だった。全体的には洋風で、ヨーロッパの田舎を彷彿とさせる洒落た作りになっていたが、フローリングから畳、ドアから引き戸へと自然に移り変わって行く。そして襖や障子と至る所に伝統的な日本の家の血が混じっていた。あまりにも自然に2つの文化が共存したこの古びた家は、それゆえにひどく前衛的だった。


「あれっ……またこんなとこに引っかき傷ができてる。おかしいなぁ、前の人が出るときチェックしたんだけど」


興味津々で色々な部屋を歩き回っていると、後ろで店主の大きな独り言が聞こえた。俺はキッチンのあらゆる扉を開け閉めするのを一旦中断し、声のしたリビングへ向かった。引き戸を開けてリビングに入ると、落ち着いた色のフローリングに配置されたかなり風変わりな家具が目に入った。和風モダンなテレビ台の上には最新の薄型テレビがあり、それに向かうようにしてバウムクーヘンをカットしたような細長いテーブルが置いてある。その外側の弧に沿うように、1人がけとも2人がけともつかない微妙な大きさのソファーが配置してあった。店主の横に並んで見ると、テーブルの足の部分に不自然な引っかき傷が何本もできていた。


「このソファーとテーブルは前入ってた人が置いていったもので、新しいし洒落てるから記憶に残ってたんですよ。あぁ、木目が綺麗だってのに……」


何気なく、横のソファーに目をやる。普段見慣れない山吹色のカバーのソファーは、その色でなくてはならないという謎の説得力を持ってそこに鎮座していた。


「ん?」


ふと、そのソファーに白い綿毛のようなものがたくさんくっついているのに気がついた。


(めっちゃ柔らかい……毛?)


手に取った小さな毛束は何となくしっとりとして柔らかかった。


「あの、これは何の毛ですか?」


「け?」


「この、ソファーにいっぱいくっついてるやつ……」


店主は眼鏡を僅かにずらして見せた。


「け、けー、毛?いや、特に見当たりませんよ」


俺と店主の間の空気が、一瞬淀んだように感じた。

俺の手に確かに握られている生き物の痕跡から手と意識を無理やり引き剥がした俺たちは、何事もなかったかのように見学を続けるのだった。



「あっ、ここの障子穴空いてる……もぉー。襖も空いてるし一体なんだってんだ……」


二階へ上がった俺たちは1つ1つ部屋を見て回り、その全てに何らかの不自然を発見してしまった。もう見て見ぬ振りは限界だった。確実に、ここには"何か"がいる。


「人が入れ替わるたびにこうなるんですか?」


「程度の差はありますけどね。居住者……選ばれた人達ね、からは苦情は出たことないんですよ」


「人が潜んでるなんてことは無いんですよね……?」


幽霊ならともかく、目のすわったおっさんが出てきたら流石にトラウマものだ。


「いやぁ、流石にそれは……無いですね。ありえない。入れ替わりの時期に床下から天井裏までひっくり返してますんで、誰か住んでるなら分かりますよ。あ、屋根裏部屋ありますよ。ご覧になりますか?」


「あ、はい。でもやっぱり1人となると広いですね。……1人と仮定して」


「ははは、大丈夫ですよ。こんな辺鄙なとこ、浮浪者だって住みたがりませんから」


(大家よ、それはぶっちゃけて良かったのか?)


売り手すらお勧めしない商品を買うべきなのか少し迷いながらも、店主の後に続いて細い階段を登っていく。歳のせいで登りにくいのか、店主は殆ど四つん這いで急な階段を這い上がっていった。もうすぐ到着という間際、あっという小さな悲鳴とともに目の前の大きなお尻がピタリと止まった。


「どうしました?大丈夫ですか?(腰とか……)」


「いえ、あぁそうだ。思い出した。まぁたやられた……。よっこいしょっと」


まさか本当に誰か住み着いていたんじゃないかと背筋が寒くなる。

ブツブツ言いながら最後の数段を登り終えた店主に続き、俺も恐る恐る上へあがった。そこには大人2人が身を屈めてようやく入れるほどのわずかな空間があり、夥しい量の木の実や葉っぱが床に散乱していた。他にも自転車のサドルやら凹んだボールやら"ガラクタ"と言われて思いつきそうなもの一通りが敷き詰められている。


「毎度毎度増えていくんですよ。でも、出ていく人はみんなこの部屋だけは残しておいてくれって。次の人にも必ず必要だからってね。訳がわからないからしょうがなく毎回放置してます」


「な、なるほど」


屋根裏部屋はおもちゃ箱をひっくり返したような有様だったが、何故か不快感はなかった。それどころか少しワクワクしている自分がいる。友達と初めて作った秘密基地に似ているからだろうか。


(これを言われるがまま放置する大家も大概だが、何となくしょうがなく思ってしまうのは何故なのか……。)


階段を下り、一通りの部屋を見終わったところで、心霊現象のせいで大事なことを聞き忘れていたことに気がついた。


「あの、ちなみに家賃っていうのは……」


「2万5千円で「ここに決めます」


こうして、俺の新居が決まった。



 帰りは大家が駅まで送ってくれるというので、少し申し訳なく思ったが結局御言葉に甘えることにした。高速バスではなく電車を使う予定だったため、その家からは少し遠回りになる。正直、車は有り難かった。何度も礼を言うと店主は笑って、


「良いんですよ。時期的に忙しいっていっても、こんなとこまでわざわざ家探しに来る人なんて殆どいませんから」


「はぁ」


(だから店主よ。それは言ってよかったのか?)


 助手席からぼんやりと窓の外を眺める。視界の半分は緑、もう半分は空で覆われ、錆びついた屋根がポツポツと通り過ぎていく。表の大量のネコジャラシ、不自然な引っ掻き傷、そして白い毛。景色のリズムに合わせるように頭の中で今見た光景がくっ付いては離れを繰り返していた。

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