第68話


 すぐ傍で土を踏む音がした。




 目だけで窺うと、紗夜が雲林院先生の白衣を漁っていた。



「紗夜、おまえ……」



 俺の記憶はすっかり回復していた。紗夜との出会いから、付き合い始めたこと、別れを切り出したクリスマス、初デートの日、紗夜を助けようとして殺されたことまで。全部思い出した。

 だからこそ、言わなければならないことがある。


「なんでおまえ、俺なんかのためにこんな馬鹿なことを……!」

「馬鹿なこと……?」


 白衣のポケットに手を突っ込んでいた紗夜が、動きを止めて振り向いた。少女は本当に訳がわからないといった不可思議な表情で俺を見つめていた。



「馬鹿なことだよ! 死んだ人間は生き返らない。それくらいわかるだろ。だから、余命がわかった時点で俺は言ったんだ。このまま付き合ってても未来はないから、お互い辛いだけだから別れようって。俺のことは忘れてくれって言ったのに……!」

「悠斗」



 白衣からミサンガを探し当てた紗夜はそれを自らの制服のポケットへ収めると、倒れている俺へ近付いた。躊躇いもなく校庭に膝をつく。



「――『おまえがいなくなった世界に、きっと俺は耐えられない』」



 それは――。


「悠斗が言ってくれた言葉よ。すごく嬉しかった。だって、わたしも全く同じ気持ちだったから」


 え、と俺は紗夜を見上げた。

 赤い赤い夕陽を浴びて少女は微笑んでいた。細い指が俺の頬へ触れる。



「わたしは、霊感が桁外れに強い妹を守るために死神にならなければならなかった。幼いときから死神の訓練を受けていたわたしは、友人たちを作って遊ぶ時間もなければ、死神であるわたしを理解してくれる人も周囲にはいなかった」



 学校や社会で孤立してしまうのは、死神の宿命でもある。そう言っていたのは姫条だったか。


「病院から出られない悠斗を楽しませたかったから、学校生活を満喫しているみたいに話していたけど、わたしはずっと学校がつまらなかったの。退屈で、無味乾燥した毎日だったわ。話し相手は幽霊が視える陽來ちゃんだけ。妹は鈍感でズレてるところがあるから、周囲から邪険にされても気付かなかったけれど、わたしたちに対する風当たりは強かったわ。それでもわたしは死神の使命を果たし続けた。陽來ちゃんに寄ってくる自縛霊を放置するわけにはいかなかったから」


 退屈だったのは、孤独だったのは、入院していた自分だけではなかったのだ。

 彼女もまた、誰かを求めていた。独りぼっちの自分が依存できる誰かを。


「だから、最初に悠斗が話しかけてきたときには驚いたわ。悠斗は霊感がないけれど、わたしを信じてくれた。死神としてのわたしの姿を見ても、離れていかなかった。それどころか守ろうとさえしてくれたわ。そのときわたしは思ったの。悠斗がいれば、わたしは独りでも平気だって」


 愛おしげに俺の頬を撫でた紗夜は妖しいまでの笑みを浮かべた。

 漆黒の瞳の奥。そこに宿る昏い光。


 どうして俺は付き合っておきながら、彼女の狂気に気付かなかったのだろう。





「わたしもあなたがいない世界には耐えられない。わたしの全てをかけてでも、あなたを蘇らせるわ」





 ああ、と吐息が洩れた。

 殺す程、相手を好きになる人がいる。

 彼女は生き返らせる程、俺を想っていた。


 寒気がした。それが出血過多によるものなのか、それとも俺の理解の範疇から逸脱してしまった彼女への畏れによるものなのか、判別はつかなかった。

 紗夜の冷たい指が頬から離れる。



「わたしは永遠のアニマ・ムンディを作るわ。そして、必ず悠斗を蘇らせてみせる。だから、それまで待ってて」



 嫣然と微笑んだ少女の身がさっと翻った。


「待て、紗夜! 紗夜っ――!」


言いたいことは他にもあった。だが、少女の姿は遠ざかっていくばかりで。


 俺は身体を起こそうとして失敗した。目がぐるぐる回って気持ち悪い。腹に手を当てると、ブラウスにしみ込んだ血で真っ赤になった。


 この身体じゃ追いかけられない。


 俺は霊体に戻ろうとして、



 あれ? これ、どうやって出るんだろう?



 はたと気が付いた。俺が腕を動かすと、姫条の腕もついてきてしまう。身体を捩っても、姫条の大きく膨らんだ胸まで一緒に動いてしまうわけで。


 ちょっとくらい揉んでもいいかな? ……じゃなくて!


 姫条の身体から脱出できなくて苦心している俺の耳に、呻き声が飛び込んできた。目を遣ると、陽來がもぞもぞと動いている。


「陽來! 無事か!?」


 叫ぶと、陽來が緩慢な動作で身体を起こし、瞬きをした。


「……姫条先輩、わたしのこと、陽來って……」


 しまった、つい癖で……!


「と、咄嗟に言っちゃった。ごめん、ね……?」


 姫条の普段の言葉遣いを必死に思い出しながら言うものの、しっくりこない。だが、焦る俺とは裏腹に、陽來はぱあぁっと顔を明るくさせる。


「嬉しいです! 姫条先輩もわたしのこと名前で呼んでくれるなんて!」


 そう言って俺の腹を見た陽來が「ひゃっ!」と悲鳴を上げた。


「き、姫条先輩! お腹! お腹から血が……! 110番、じゃなくて190番……!」

「落ち着け。119番だ。救急車呼べば大丈夫だから」


 そうは言ったものの、全然大丈夫じゃない。救急隊員でも幽体離脱の仕方は教えてくれないだろう。どうしよう、困った。誰か出方を教えて。

 俺の顔色が余程悪いのか、陽來は真面目な顔になり、すくっと立ち上がる。


「きゅ、救急車ですね。わかりました! すぐに電話して……って、あれ? そういえば、先輩は?」


 きょろきょろと周囲を見渡す陽來。冷や汗が出る。


「た、たぶん、トイレじゃないかな」

「もう、先輩ったらこんなときに! 姫条先輩、電話したらすぐ戻ってくるんで待っててください!」


 言うなり陽來は駆け出す。その背中を何も言えずに見送り、陽來の足音が完全に聞こえなくなってから、俺は地面に倒れ伏した。





 身体が果てしなく重い。

 でも、心は達成感に満ち溢れていて軽かった。

 このまま死んでもよいと思える程に。


 ああ、これが未練か。


 気が付けば俺の右手には得物があった。

 そうだ、俺は知っているじゃないか。霊が肉体から脱出できる方法を。



 悔いはない。強いて言えば、――いや、考えるのはよそう。



 妄想と寸分違わない思念を振り払い、俺は一思いに手の中にあった漆黒を自分へ突き刺した。

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