エピローグ

第69話


 コポコポとビーカーのお湯が音を立てている。アルコールランプの火にかけて早十分。ビーカーからは白い蒸気が立ち昇り、理科準備室の湿度を確実に上昇させていた。



 湯気の向こうには仏頂面の姫条が座っていて、俺を凝視している。

 なんでおまえがここにいるの? とでも言いたげな視線だ。




「……あなた、新たな未練を作ったわね」




 用意してあった二つのカップにお湯を注ぐと、紅茶とコーヒーの香りが入り混じった。紅茶のカップを姫条へ押し遣る。


「やっぱりそういうことになるのか?」

「やっぱりじゃないわ! それがどれだけ重大なことか、あなたはわかっているはずだと思ったけど、私の心得違いだったかしら?」


 インスタントのバッグを捨て、俺はカップを鼻先に近付ける。まるで飲んでいるかのような強い香りが鼻腔一杯に広がる。

 コーヒーを堪能する俺に不満があるのか、姫条はただでさえ鋭い目つきを尖らせ、身を乗り出した。



「それで、今度のあなたの未練は何? 白状しなさい」



 俺はカップから目線を上げ、口を開いたところで、




「先輩! 遅れました!」



 理科準備室のドアが勢いよく開かれた。姿を現した陽來は俺たちを見て表情を明るくする。


「あっ、姫条先輩! 退院おめでとうございます! 先輩っ、これで一安心ですね!」


 陽來が嬉しそうに俺に笑いかける。目の端で、気力を削がれたように席に座り直す姫条の姿が見えた。


「すごい心配してたんですよ。姫条先輩、わたしが190番して戻ってきたときには意識がなかったから……」


 あの後、陽來によって無事に救急車が呼ばれ(ちゃんと119を押したのだろう)、気を失っていた姫条と雲林院先生、運動部員は救急車で病院に運ばれた。霊装武器で姫条の身体から脱出できた俺は、その救急車を見送るときになって何事もなかったかのように陽來の前に現れたためだいぶ非難を浴びたが、まあ、それはどうでもいいことだ。


「目が覚めたら出血多量で危なかったみたいなことを言われたわ。心配かけてごめんなさい」

「ほんとよかったですー。先輩も一時期、大変だったんですよ。姫条先輩がこのまま目覚めなかったら、どうしようって。自分のせいだってすごい落ち込んでて」

「え……?」


 陽來の言葉に姫条がキョトンとして俺を見た。

 そりゃ憑依した後、意識がなかったら俺のせいだって思うだろ。と言うわけにもいかず、アイコンタクトでそれを訴えようとじっと姫条を見つめたら、その頬は何故か赤みを帯びていき、


「だっ、大丈夫に決まってるじゃない! あなたに心配なんかされなくたって……」


 勢いよく言った姫条の声は次第に小さくなり、やがて蚊のなくような声で「……ありがと」と締めくくられた。



「……これで、お姉ちゃんが帰ってきたら全部解決なんですけどね」



 ぽつりと洩らされた言葉に、俺は俯いていた。


 あのとき、紗夜と接触したのは実質俺だけなのだ。

 陽來に紗夜のことを言うべきか悩み、結局、俺は言わないことにした。我ながら狡い判断だとも思うが、自分の姉が狂気に囚われているなんてことをわざわざ教えてやる必要もないだろう。



 俺が殺されたのは、全て紗夜によって仕組まれていたのだ。



 外出許可が出た日、俺は最後の思い出にするから、と紗夜に乞われて制服デートに出た。俺が紗夜にした「守る」という約束を利用して、紗夜は俺に未練を残させようとした。雲林院先生の仲間である自縛霊に憑かれた男子たちは計画通り俺たちを襲い、俺を倉庫で殴殺。そして、おそらくその直後、紗夜はミサンガを狙った雲林院先生と自縛霊に本当に襲われた。

 ミサンガを引き千切った紗夜は逃げ、俺の遺体は川に投げ込まれ自殺に見せかけられた。俺は無事に自縛霊になったが、頭を打たれたことで記憶を失っていた、というわけだ。



 情報を繋げると今回の顛末が見えてくるが、紗夜がどうして失踪したのかはまだわからない。


 ミサンガを切られたことで意識不明の状態が続いている雲林院先生も紗夜が姿を見せたときには驚いていたから、誰も彼女が失踪した理由はわからないのだろう。


 沈黙していると、姫条がぽつりと呟く。



「……お姉さんは見つからない方が幸せかもしれないわ」

「え?」

「〈永遠のアニマ・ムンディ〉に関わったのなら、〈桜花神和〉がただじゃおかない。お姉さんはたぶん保身のために失踪してるわ。今考えると、私の師匠も〈桜花神和〉に消されたんだと思う」


 伏せられた瞳が何かを思い出したように翳る。

 そんな姫条を見て、陽來は「ぁ、ぁ」と俺に助けを求めるように視線をよこす。俺が助け船を出せないのを見て取ると、陽來は「そうだ」と膝の上に置いていたカバンを漁り始めた。

 一枚の紙を机に置く。

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